第四話『皿を宿す覚悟』
雨上がりの日曜日、空はどこまでも鈍い灰色に沈んでいた。アスファルトにはまだ水たまりが残り、車のタイヤが水を弾く音が遠くで聞こえていた。
カーテン越しの光は湿っていて、部屋の空気も重たく感じた。僕はベッドに寝そべり、スマホを胸に乗せたまま、ぼんやりと天井の染みを眺めていた。
と、そのとき。
「ピンポーン……」
玄関のチャイムが間延びした音を鳴らした。
階下から母さんの声が響く。
「涼介ー? お友達が来てるわよ!」
友達?
その言葉に、胸の奥がひどくざわついた。
布団の中で返事もせずに黙っていると、足音が階段を上がってくる。やがて、ノックの音とともに母さんの声がした。
「入ってもいいかしら? 二人とも、気にしないで上がってね」
開いたドアの向こうに立っていたのは──
柿崎俊と、三輪瑛士だった。
一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ気がした。
「……よぉ、水島」
柿崎が、無理に作ったような笑顔で手をあげた。目の奥には笑みがなかった。
「……いろいろ、その……悪かった。うん」
視線を合わせようとしない。三輪も後ろで曖昧に頭を下げる。
「いや、ホントに……ごめん。先生にも言われたし……。な? これからさ、ちゃんとやろうぜ。友達として」
棒読みだった。
口先だけの言葉が、部屋の空気に沈んでいく。
僕は何も言わなかった。
ベッドの上から起き上がることもせず、ただ黙って二人を見ていた。
沈黙が続いた。
柿崎の手がポケットの中でもぞもぞと動いていた。三輪は僕の机の上に置かれた未提出のプリントに視線を落とし、それに話しかけるような声で言った。
「明日さ……学校、来れそうか?」
僕は瞬きすらせず、彼の言葉を受け止めた。
それが何のための訪問だったのか、わかっていた。
誰かに言われたのだ。
学校で。親に。あるいは担任から。
彼ら自身の意思ではないことは、声の震えと目の泳ぎでわかる。
「じゃ、またな」
柿崎が気まずそうに手を振り、三輪も軽く会釈してから部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、ひどく冷たく響いた。
階下では、母さんが洗い物をしている音がかすかに聞こえた。
流しの水音と、ガラスが触れ合う音。
パートで毎日遅くまで働いている母さんは、僕の変化には気づいているようで、でもあまり踏み込もうとはしてこない。
きっと、どう接していいのかわからないのだろう。
さっきの二人が来たことにも、母さんは何も言わなかった。
夕暮れの光が、カーテンの隙間から淡く差し込んでいた。
ベランダの手すりに、雨粒がまだ残っていた。
僕の中に残ったのは、謝罪の言葉ではなかった。
“あいつらは、まだ笑っていられる”
その事実だけが、心の奥底に氷のような塊となって沈んでいった。
■
夜が怖かった。
水の底に引きずられる夢ばかり見るようになった。冷たい泥の中で誰かに足をつかまれ、動けなくなる。笑い声が水の膜を通して、ぐにゃりと歪んで響く。
けれど、それ以上に怖かったのは、母さんの沈んだ顔だった。
仕事で疲れているのに、僕の目を見ようともしないその姿が、胸を締めつけた。
「……行ってくるよ」
朝の食卓、ぎこちない声を絞り出すと、母さんは箸を止めて目を見開いた。
「えっ……学校? 本当に大丈夫なの?」
僕は小さく頷いた。
無理にでも笑おうとしたその顔は、きっとひどく引きつっていたと思う。
制服のボタンをかける指先は震えていたけれど、心のどこかでほんのわずかな希望もあった。
「もしかしたら、少しは変わっているかも」
そんな淡い期待を胸に、僕は重たい足を引きずるように登校した。
そして、教室のドアを開けた瞬間──
そのすべては打ち砕かれた。
「うわっ、カッパ来たー」
誰かの甲高い声。
直後に教室中から湧き上がる、くすくすとした笑い声。
僕の机の上には、小さな花瓶が置かれていた。
中には干からびて茶色くなったカーネーションが、無造作に突っ込まれている。
「なんだよ、あれ……お通夜?」
「いや、供養じゃね?」
耳に届く声が、どれもナイフのように鋭かった。
机に近づいた僕は、さらに息をのんだ。
机の天板一面に、油性マジックで描かれた落書き。
緑色の顔、つり上がった目、大きく裂けた口。
そして、その横には大きく書かれていた──
《カッパ専用席》
誰かがくっくと喉を鳴らして笑った。
「……っ!」
手が震える。
それでも、僕は机の中を開けた。
中から、ふわりと鼻を刺す異臭。
食べ残しのパン、おにぎり、潰れたゼリー飲料──どれもカビだらけで腐っていた。
「やっべ、マジで開けたぞ」
「すげー、勇者だな」
背後で誰かが囁き、また笑い声が広がる。
──これは、最初から用意されていた。
僕が登校してこなかったことで、苛立ったあいつらが作った罠。
でも、僕が予想外に来たから、面白がって続きを演じただけ。
何も変わっていない。
いや、もっと酷くなっている。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
視界がぼやけ、涙が頬を伝って落ちた。
「うわぁああああっ!」
叫びながら、僕は教室を飛び出した。
廊下を走る足音が、やけに大きく響いた。
もう何も見たくなかった。
何も聞きたくなかった。
そのとき──
「水島!?」
勢いよく廊下の角を曲がったところで、人影にぶつかった。
「お、おい、大丈夫か!?」
担任の市川先生だった。
先生は驚いたように僕の肩をつかみ、顔を覗き込んだ。
「何があった? おい、どうしたんだ!」
僕は何も言えず、嗚咽だけが口から漏れた。
先生の声も、制服の匂いも、どこか遠くに感じた。
ただ、ひとつだけ確かなのは──
僕はもう、人としての何かを捨ててしまったということだった。
■
担任の市川先生は、三十代半ばくらいの男性教師だ。
明るくて、テンションが高くて、どこか軽い。でも生徒たちにはウケがいいらしい。女子たちは「先生ってマジでウケる〜」と笑い、男子も「イッチー」なんてあだ名で呼んでいた。
けれど僕には、別の生き物に見えていた。
先生は、人気取りのためなら平気で核心から目をそらす人だった。
揉め事が起きても、注意するどころか「まあまあ、仲良くやろうな」なんて笑って流す。
場の空気を読んで立ち回るのが上手いだけの大人。僕は、そういう人間を信用していなかった。
「……水島、大丈夫か?」
廊下の角でぶつかったとき、先生は珍しく真面目な顔をして僕を見た。
泣き顔、ぐちゃぐちゃな制服、震える唇。さすがに何かがあったと察したらしい。
僕は迷った。
何も言わずに逃げるか、それとも――
「……教室で……僕の机に……変なことされてて……」
途切れ途切れに、でも確かに言葉を吐いた。
先生は少し驚いた顔をしてから、僕の肩をぽんと叩いた。
「よし。じゃあ、行こうか」
その声は、どこか優しくて、でも妙に明るかった。
僕は嫌な予感がした。
このまま教室に戻っても、何も変わらないんじゃないか。
むしろ、みんなの前でさらし者にされるだけじゃないか。
それでも足は止まらなかった。先生に肩を押されながら、僕は教室の前に立った。
「みんなー、ちょっと静かにしようかー!」
市川先生の通る声が教室に響いた。笑い声が少しずつ止んでいく。
僕は一歩踏み出す。そして、見た。
僕の机の上には、まだ干からびた花瓶が置かれていた。
中には色の抜けたカーネーションが、項垂れるように刺さっている。
机の表面には落書きがびっしりと描かれていた。
カッパ、という文字。潰れた顔。よだれ。変なポーズ。
中を開けると、カビの生えたパンと、腐ったゼリーが詰め込まれていた。
市川先生もそれを見て、明らかに一瞬、顔をしかめた。
だけど次の瞬間には、またあの“場をつくる声”になっていた。
「水島、今日来てくれてありがとうな! 勇気出したよな! よし、みんなで拍手!」
先生が手を叩く。教室内にまばらな拍手が起こる。
僕は、立ち尽くしたまま動けなかった。
「みんなな、いろいろあったかもしれないけど、水に流して――な? 新しくまた、みんなでやっていこう!」
水に流す、だって。
よくそんな言葉が、言えるな。
クラスの空気は妙な沈黙に包まれていた。
それでも、あいつらは笑ってた。柿崎も、三輪も、渡瀬も、琴音も。そして僕は見逃さなかった。
市川も机の落書きを見て笑っていた姿を……。
僕は見た。
確かに見た。こっちを見て、唇の端を引きつらせてる顔を。
――やっぱり、そうだ。
これは救いなんかじゃない。
ただの「公開処刑」だ。
優しい言葉を使って、僕が異物であることを証明する儀式。
先生は生徒に人気があるかもしれない。
でも、少なくとも僕は――もう一生、信用しないと誓った。
■
家に帰っても、陰湿だった教室の匂いが服に染みついていた。
母さんはまだパートから戻っていない。玄関の明かりは消え、家の中はしんと静まりかえっていた。濡れた靴を脱ぎ、重たい制服を脱いで、僕はそのまま自室に直行した。
階段を上がる途中、何度も吐き気がこみ上げてくる。頭の中で、あの動画の光景がリピート再生されていた。
──姉さんが、麻酔で眠っている。
──白い布の上で無防備に寝かされていて。
──カメラ越しの誰かの手が、彼女の身体に触れている。
「……くそが……」
ベッドの上に倒れ込む。右手が震えていた。思い出したくないのに、もう何度目かもわからないくらい再生してしまった。
最初は、それが誰なのかわからなかった。
でも、画面の奥に映り込んだ病院名のロゴ。備品のラベル。医師の腕に刺さった名札。僕はそれらをスクショして、ネットで検索した。
そして――特定した。
都内にある、やたらと“口コミ評価”が高い自由診療専門の美容整形外科。
姉さんが整形手術を受けた場所だ。
そして、あの映像に映っていた“あの医師”が、そこの院長だった。
──全部、あんたのせいだ。
姉が整形を決意した理由も。
その先で地獄を味わったのも。
僕がこんなふうに壊れていったのも。
ベッドの上でスマホを握り締めたまま、僕はじっと画面に映る院長の顔を睨みつけた。
無表情で、無機質で、人間の皮を被った何かみたいな目をしている。
清潔感のある白衣。にこやかな笑顔。だが、裏ではあんなことをしている。
「……責任、取れよ。あんたにしか……取れねぇよ……」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
でも、言葉が口からこぼれていた。
姉を救えなかった自分。
それどころか、その動画で自慰にふけってしまった最低の自分。
もう、戻れない。
ならいっそ、“人間”をやめてやる。
僕の考えてる事は現実離れしていて……。自分でも狂ってると思う。
だが、きっと壊れているからどうでも良かった。
その罪も、この顔も、全部引き受けた上で……河童になってやる。
あんたに、僕の顔を変えさせてやるんだ。
あのときの姉さんと同じように、あの白い部屋で、麻酔を打たれて。
皿でも甲羅でも、何でもいい。
脳が壊れて、喋れなくなっても構わない。
──その代わり、命を賭けた復讐の“始まり”を手伝ってもらうよ、先生。
夜の街の写真が載った病院のホームページを見つめながら、僕は初診予約のページを開いた。
「無料カウンセリング受付中」の文字が、冷たい笑みでこっちを見ていた。
スマホを持つ手が、汗でびっしょり濡れている。
でも、指は迷わなかった。
カレンダーから日付を選び、名前を打ち込む。
そして、「送信」をタップした瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。
もう後戻りできない。
“水島涼介”は今日までだ。




