第十八話『逃走と寝床への帰還』
警官の手が震えるたび、夜の静寂が凍りついた。
──パンッ!
──パンッ!
乾いた銃声が空を裂く。
ひとつは僕の肩先をかすめて空を抜け、もうひとつは足元の地面に跳ねた。
砕けた土塊と草が宙に舞う。
警官の顔に浮かぶ驚愕と絶望。
皿が割れたなら死ぬとでも思ったのか。
だが、僕はまだ立っている。
──カチッ、カチッ。
次に聞こえたのは、虚しく響く乾いた金属音だった。
引き金を引いても、もう弾は出ない。
空になった銃を握る手が、完全に震えていた。
僕の頭部では、欠けた皿の断面から膿と血が止まらず滴り落ちていた。
頭の中で鼓膜が破裂しそうな激しい頭痛。
視界はぐにゃぐにゃと歪み、焦点が合わない。
だけど、止まらない。
「ひっ……! や、やめ──っ!」
警官が後ずさろうとする。
その声が、恐怖が、僕の怒りに火をつけた。
「ぅ……あ、ぁああああッ!!」
僕の右手が警官の髪を鷲掴みにする。
爪の先が頭皮を裂く感触が、指先に伝わってくる。
そして、何の迷いもなく──
──バンッ!!
彼の頭を、地面に叩きつけた。
ぐしゃっ、と鈍く嫌な音が響く。
一撃で頬骨が砕け、目の奥から血が噴き出す。
再び叩きつければ、歯が飛び、舌が噛み切られたようにぶらさがる。
三度目には後頭部が裂け、白く濁った脳髄の一部が露出した。
「うあ、あ、あ、あああアアアアアッ!!」
もう何も聞こえなかった。
何度も、何度も、叩きつけた。
骨の軋む音。血と髄液の混じるぬめった感触。
地面に広がる紅い沼の中で、僕は無我夢中で殺し続けた。
叩きつけるたびに頭蓋は砕け、眼球が飛び出し、鼻腔から脳漿が泡を立てて吹き出した。
顎は砕かれ、喉は潰れ、呼吸音ひとつ漏れない屍と化すまで──何度も。
やがて、警官の体から力が抜けた。
彼の顔はすでに原型を留めておらず、ただの赤黒い肉塊と化していた。
髪の毛の間に蠢く蛆が、僕の鼻孔をくすぐった。
僕はゼェゼェと荒い息を吐きながら、ぐったりとしたそれを見つめる。
激しく脈打つ頭。欠けた皿の断面がズキズキと痛む。
だが、それでも──
「……ぜってえ、生き残ってやる……ッ」
僕の呟きは、夜風に流れる腐臭のなかに溶けて消えていった。
濡れた地面には、まだ生ぬるい血の水たまりが広がっていた。空気はどこまでも鉄と腐臭に満ちていて、喉の奥がひりついた。僕はその中心で膝をつき、片手を突いてどうにか体を支えていた。
──追えない。
逃げた警官の背中が、まるで幻のように視界の奥に焼きついていた。あいつを追いかけて、とどめを刺す──そんな衝動は、確かに胸の奥にあった。だけど、もう無理だった。力が入らない。目の前がにじみ、身体はいうことをきかない。
左足にはドーベルマンの牙が残した深い裂傷。一歩踏み出すたびに、肉が裂けるような痛みが走る。右手は震えていて、左手首は──すでに無い。ちぎられた断面から、泥と血が混じった滲みが垂れていた。
「は……っ、は……ッ」
息を吸っても、肺に入ってくるのは濃密な悪臭ばかり。喉の奥が嘔吐きそうになる。
それでも僕は──死ねない。
柿崎、長谷川、渡瀬、三輪……あの教室にいた連中、僕を笑って、傷つけたあいつら……。
「……殺さなきゃ……全部……全部、殺さなきゃ……ッ」
喉の奥から絞り出された声は、泥にまみれた血と混ざって、誰のものかもわからなくなっていた。
遠くから風の音がする。パトカーのサイレンはもう聞こえなかった。でも、それが不気味だった。きっと、また来る。奴らは執念深い。僕を殺しに、新しい連中を寄越す。
「……戻る……寝床に……」
意識を保つだけで精一杯だった。
僕は泥まみれの足を引きずり、地面に這いながら進み出す。体から漂う腐臭に引き寄せられた蠅がまとわりついてくる。うっとおしい。こいつらは僕の腐った肉に卵を産みつけようとしている。僕がまだ生きているってのに。
水路の脇を越えて、枝をかき分ける。遠回りはできない。力も時間もない。細く狭い、そして人間には這っても入れないあの寝床へ──
そこだけが、今の僕にとって唯一の安全地帯だった。
何度も後ろを振り返る。誰かが追ってくる気配があるたび、心臓が跳ね上がった。
小川の湿った岩場を這い、流れに濡れながら渡る。
草がこすれる音。蛙の鳴き声。遠くの住宅地から漏れるテレビの音が、別世界のように響いていた。
寝床が見えた。
その瞬間、体が震えた。安堵か恐怖か、あるいは疲労か──わからない。
僕は泥のように崩れ落ちるように、寝床の奥へと身を滑り込ませた。
湿った地面の冷たさ。暗闇の静けさ。
腐った肉体が横たわる。
「……まだ……生きてる……俺は……まだ……」
僕はそう呟いた。息をするたびに、痛みと臭気が肺を満たす。
──この戦いは、まだ終わっちゃいない。
寝床に戻った僕を、まるで「もう眠れ」と言わんばかりに、重く甘やかな睡魔が包み込んできた。
息は浅く、身体は焼けるように熱い。右手の爪には、乾いて黒ずんだ犬の毛と血の塊がこびりついたままだ。左手首のない腕はじわじわと腐り、まるで炭のように乾き始めていた。
全身を貫く鈍痛と痺れ。まともに動かない脚。腐臭が鼻腔を満たし、蠅の羽音がすぐそばで唸っているのが聞こえる。
──もう、限界だ。
意識が薄れていく中で、ふとそう思った。
このまま眠って、目を覚まさなくてもいいんじゃないか。
どうせ、この身体ではもう生き延びられない。
僕は、死んでもいいんじゃないか……そんな思いが、静かに胸の内に染みこんでいく。
死は、もしかしたら救いかもしれなかった。
何もかも終わってしまえば、苦しみも怒りも、痛みも全て──。
──けれど。
目を閉じた僕の意識は、なぜか深い暗闇の底から再び浮かび上がってきた。
どれだけ眠っていたのか、正確な時間はわからない。
だが、目を開けたとき──寝床の外から差し込む光が、優しく湿った土の空間を照らしていた。
小さな入口の向こうから、野鳥の囀りが聞こえる。
それは澄んでいて、あまりにも現実的だった。
「……朝か……違う、昼……か?」
掠れた声が漏れた。
身体を動かそうとした瞬間、腹の奥から鈍い痛みが這い上がる。
それでも、肺は空気を吸い、心臓はゆっくりと動いている。
自分がまだ生きていると、強く実感できた。
「……まだ……生きてる……俺は……」
風が吹き、入り口の草が微かに揺れた。
どこか遠くで電車の走る音も聞こえる。都市の息遣いは、ここまでも届いている。
──また、目が覚めた。
それは地獄の続きでもあり、ほんの僅かな希望の証でもあった。
僕はゆっくりと腐臭をまとった身体を起こし、痛みに耐えながら這うようにして寝床の出口を見やった。
陽光が差し込み、草の葉に光がきらめいている。
──殺さなければ。
生き延びるために。
僕を貶めた奴らに、報いを与えるために。
最後に復讐を遂げるには、あと四人……いや、最低でも、いじめの主謀者・柿崎俊だけは殺す。
だって──それが、僕が河童になった理由だから。
柿崎の尻子玉さえ食えば、何とかなる──そんな予感がしていた。
「……柿崎だけは……あいつの尻子玉を……喰おう……」
呟いた声は、寝床の壁に染みこんで、静かに消えていった。
寝床の暗がりの中、僕はまるで全身を焼かれるような激しい痛みに耐えていた。
腕の付け根は、もう感覚さえおかしくなっている。じんじんと灼けるように疼き、膿んだ肉の間から腐敗臭が濃く立ち昇っている。足もまともに動かず、腹の内部では何かが軋むような鈍い痛みが続いていた。
けれど──それでも、柿崎の尻子玉を食えば、この痛みもすべて消えるんじゃないか。そう思うだけで、ほんの少しだけ痛みが遠のく気がした。
あいつの中に詰まっている“それ”を引きずり出して、喰らう。
ぐにゅりとした感触、あの生ぬるい命の塊が喉を通る瞬間を想像すると、妙に冷静になれる自分がいた。
その時だった。
街のほうから、スピーカーの音が風に乗って聞こえてきた。割れたようなノイズ混じりの音声が、ゆっくりと、しかしはっきりと辺りに響いている。
「こちらは地域防災課です。現在、市内で発生中の事件に関して、地域住民の皆さまにお知らせします。安全確保のため、不要不急の外出は控えてください。また、事件の解決まで、すべての小中学校は臨時休校となります」
──休校。
僕は、その言葉に身体を強張らせた。
つまり、学校が閉ざされた。僕をいじめていた奴ら──柿崎俊、三輪、渡瀬、長谷川琴音たちに、会えない。
どこにいるのかも分からない彼らを、どうやって探せというのか。あの教室で待ち伏せすることもできない。復讐の場が、奪われたのだ。
息が詰まる。
視界が狭くなる。歯を食いしばると、まだ残っていた奥歯の一本がぐらついて、血の味が口の中に広がった。
──万事休す。
そう思った。すべての計画が、脆くも崩れ落ちる音がした。
だが、そう感じた直後だった。
あの男の尻子玉さえ喰えば──いや、柿崎俊のそれさえ喰らえば、きっと何とかなる。そう思った瞬間、不思議と体の痛みがわずかに引いたように思えた。
それは、ただの錯覚かもしれない。けれど、絶望の淵にある今の僕には、それすらも救いだった。
そうだ。あいつの尻子玉には何かがある。命を繋ぎ止める──この腐り果てた体を、もう一度持ちこたえさせる鍵がある気がした。
それが真実か幻かなんて、もはやどうでもいい。
柿崎俊だけは殺す。
それが、僕が河童になった理由そのものだから。
「……柿崎……あいつの尻子玉さえ……食えば……」
掠れた声で呟くと、焼けるような痛みに一瞬だけ影が差し込んだ気がした。




