第十六話『河童の本能』
僕は足を止めた。
風の止んだ住宅街に、ひときわ冷たい光が漏れていた。民家の窓の隙間から、ぼんやりと揺れる青白い蛍光灯の明かり。そしてその奥から聞こえてくる、テレビのニュース音声。
その声は、夜の闇の中でまるで誰かが僕を呼んでいるかのように、はっきりと僕の腐った耳に届いた。
「……続いてのニュースです。先日、都内の整形外科院長・黒沢氏が遺体で発見された件で、新たな証言が明らかになりました」
僕は思わず、その場にしゃがみ込んだ。体が重い。膝の腐った関節が、ぐにゃりと軋んだ音を立てる。暗がりの中、地面に這いつくばるようにして、僕はその家の窓へと近づいた。
「事件当日の深夜、黒沢氏の自宅で“不審な水浸しの人影”を目撃したという保護された少女の目撃情報が信憑性を増して……」
鼓膜が熱を持った。夢で見た老婆の言葉が一瞬よぎるも、それどころではなかった。
“水浸しの人影”。
それは僕だ。
この腐った皮膚。びしょ濡れの足跡。軋む骨と皿の鳴る音。
──殺害を見せつけていたからな。
ぞわりと皮膚が泡立つような感覚に襲われる。いや、泡立っているのは実際の皮膚かもしれない。皿の周辺で育った蛆がまた一匹、耳の横を這い落ちていった。
「また、都内の貯水池からは、先週行方不明となっていた動画配信者の頭髪や骨と思われる遺留品が発見され……」
あいつらか。僕を笑いものにしたあの動画配信者ども。
貯水池で僕を見つけ、カメラを回して、面白半分に僕をからかった連中だ。
その“残りかす”が、とうとう人の目に触れてしまった。
「さらに、昨夜中学校で発見された教員の遺体も含め、これらの事件には連続性があると警察は見ており……当面の間、ショッキングな教師が殺害された事を鑑み生徒の心理ケア……休校に……」
市川。
あの偽善者。ことなかれ主義で、生徒を見捨てた悪魔。
尻子玉を抜いてやった。
でも、それも今となっては“痕跡”だ。
「……警察では事件の連続性を重く見て、明日から警察犬を投入。周辺の徹底的な捜索を始める予定です」
その言葉を聞いた瞬間、背筋を氷の手で撫でられたような戦慄が走った。
警察犬──あれは嗅ぎ分ける。
生きた人間も、死体も、その中間にあるこの“僕”すらも。
今ここにいたら、見つかる。
腐臭がひどくなっている。今日だけで蠅の数が何匹増えたかわからない。奴らはもう僕を餌としか見ていない。さっきも足の裏を這っていた──あれは卵を産む隙を狙っていたに違いない。
このままじゃ、“僕”が終わる。
僕は立ち上がった。膝から汁が滴り、膿のにおいがまた風に乗る。
「……っ、急がなきゃ……っ」
言葉にならない声を、喉の奥で泡立たせながら。
僕は、腐敗した身体を奮い立たせて、歩き始めた。
この世界に残された唯一の“安全地帯”。
──河川敷へと。
僕の王国に、戻らなければならない。
僕は、河川敷に戻ってきた。
夜の風は土と泥の匂いを含み、湿った空気が腐りかけた僕の皮膚にまとわりつく。草は伸び放題で、誰にも顧みられないこの場所は、まるで僕を歓迎しているように静まり返っていた。
橋脚の影に身を滑り込ませ、裸のまま泥にまみれながら座り込む。腐敗した肉の隙間から滲み出る膿が、地面にゆっくりと染みこんでいった。まともな服は、もうとうに朽ち果ててしまった。今や僕を覆うのは、汚泥と腐肉と悪臭だけだ。
蠅が纏わりついてくる。目の周り、鼻の穴、耳の裏、陰部の皺まで。ぶんぶんと羽音を立て、わざとらしく僕の腐った皮膚を舐め回すように飛び回る。その中の何匹かは、きっとこの腐った肉に卵を植え付ける魂胆なのだろう。腹を膨らませた蠅が、卵を産み落とすその瞬間の映像が、脳内で勝手に浮かんできて、僕は軽く吐き気を催した。
耳を澄ます。
遠く、住宅地の方角からかすかにテレビの音が届いてくる。
「……市川教諭の殺害を受け、事件のあった中学校では生徒の安全と心のケアを最優先とし、当面の間休校措置を取る方針を決定しました……」
――そうか。
市川は確かに死んだ。
それは僕がこの手で、いや、この皿の力で殺した。
けれど、その結果、学校は止まった。
生徒たち――僕の復讐すべき“獲物”たちが、いなくなった。
「……休校、か」
思わず声に出してつぶやいた。
すると途端に、胸の中に湧き上がるのは焦りとも怒りともつかない、混濁した感情だった。
僕は生き残るために、あいつの尻子玉を喰った。
市川の命を、喰らった。
それでもまだ、終わらない。
いや、終わってはいけない。
柿崎、三輪、渡瀬、琴音――
あの連中こそが、僕をこうした元凶だ。
あいつらの尻子玉を、喰わなければ。
「……だけど……」
口の中に苦味が広がる。
腐った肉の内側に湧き始めた蛆虫が、顎の内側を這うような感覚が、思考を乱す。
奴らは学校に来ない。
僕の計画は、宙に浮いた。
「……ここで……やり過ごすしか……」
唇が裂け、膿が垂れた。
痛みに、目の奥がじんじんする。
だけど、耐えられる。いや、耐えなければならない。
ここで腐るわけにはいかない。
警察犬が放たれる前に、僕は気配を消す。
ここで、風に身を預けながら、時を待つ。
僕の計画は複雑なものじゃない。ただ、機会を伺い、隙を見て奴らを襲い、尻子玉を抜くだけだ。単純で、原始的なやり方だが、それが僕に残された唯一の術だ。
勝つのは、僕だ。
この腐った体でも、きっと勝てる。
草むらに身を沈め、夜空を見上げた。
雲の切れ間から星がいくつか顔を覗かせていた。
──学校が、再開するその日まで。
■
夜の河川敷に、冷たい風がひゅうと吹き抜けた。
水の流れる音とともに、耳の奥で遠くのサイレンがかすかに響く。
僕は泥にまみれた姿で、水辺の草むらに身を潜めていた。
腐った皮膚の裂け目から膿がじゅくじゅくと流れ、蠅が群がっている。
奴らはきっと、この腐った肉に卵を産みつけるつもりなのだ。生きながら蛆を育てるために。
「……くそ……」
でも、いまはそれどころじゃない。
僕は、耳を澄ませていた。
──聞こえる。
湿った草を踏みしめる足音。
泥に靴底が沈む、ねちゃりとした音。
そして、低く唸るような動物の呼吸音。
「……またか」
警察犬だ。
もう、何度目になるだろう。
文化祭前夜の市川殺害を皮切りに、街全体が異常な緊張感に包まれている。
奴らは昼夜を問わず、僕を追っている。
──けど。
僕にはわかる。
奴らが来る前に、察知できる。
腐敗し、崩れていくこの身体は、同時に進化していた。
五感──いや、本能。
人間にはない領域に踏み込んでいた。
遠くから漂ってくる犬の体臭、引き連れる警官の革靴のワックスの匂い。
誰かの持っている缶コーヒーの甘ったるい香りさえ、鼻腔の奥を刺すほど強く感じ取れる。
──そして、彼らの歩く方向、風の流れ、土の振動。
すべてが僕の中で像を結ぶ。
警察犬が一声吠えた。
だが……それは僕の位置とは明らかに違う方向だった。
「ふふ……ざまあみろ」
僕は風下へ、ゆっくりと這うように移動を始めた。
皮膚がちぎれた腹からは、腐った液が垂れ落ち、足元の草を溶かすように染めていく。
蠅が飛び交い、顔にとまっても追い払う余裕すらない。
──それでも。
生き延びなきゃならない。
僕は川沿いの茂みの奥へ入り込み、さらに匂いを分散させるよう、湿った苔の上に身を伏せた。
やがて、警察犬たちの足音が遠ざかっていく。
吠える声も聞こえなくなった。
僕は、ひとつ、長く深い息を吐いた。
「……これが……俺の力だ……」
腐ってなお、生き延びるための力。
あいつらに追いつかれない限り──僕の戦いは、まだ終わらない。
僕は這うように姿勢を低くし、闇の中をそっと移動しはじめた。
この世界で、俺が生き延びるために。
■
腐った皮膚がひび割れ、膿が垂れるたびに、僕の身体はもう人間のそれではないと痛感する。
けれど、その朽ちゆく身体のなかで、僕はある“進化”に気づき始めていた。
──進化?
そんな高尚な言葉がふさわしいのかは分からない。
ただ、それは確かに変化だった。
まず、耳。
夜の風に混じって、遠くの音がまるで隣で鳴っているかのように鮮明に聞こえる。
住宅街のほうから響いてくるテレビの音、車のドアが閉まる音、犬の遠吠え、コンビニの扉の開閉音まで──。
それらすべてが鼓膜を震わせ、脳内でくっきりと像を結ぶ。
余計な音さえも逃さぬこの聴覚は、時に耳鳴りのように不快で、だが生き延びるためには欠かせない武器となっていた。
そして、鼻。
夜の湿った空気のなかに、微かに混じる“人間”の匂い。
どこかで煙草を吸っている。
誰かが焼き魚を焼いている。
生理の血の匂いをかすかに感じ、思わず奥歯が軋む。
その濃密な情報が、鼻腔から脳へと突き刺さり、意識をかき乱す。
腐った鼻孔の奥が疼き、呼吸のたびに喉の奥が焼けるように熱い。
そして、目。
闇の中であっても、微かな光を捉え、輪郭を浮かび上がらせる。
草むらで蠢く小動物の背中。
街灯の遠い煌めき。
住宅街の窓越しに映るテレビのフラッシュ。
そのすべてが鮮明に見える。人間の目ではもう届かない距離でも、僕の眼球は確かに“捉えて”いた。
──これは、獣の本能だ。
人間という種が捨ててきた、原始の力。
僕はそれを取り戻しつつある。否、受け入れつつある。
「……これが……生きるってことか……」
腐った唇がぼろりと剥がれ落ちた。
それでも僕は、にやりと笑った。
腐っていく代わりに、僕は強くなっている。
人間の姿を失い、記憶も輪郭もあいまいになっていく。
それでも、今の僕には──明確な目的がある。
生きること。
そして、復讐を果たすこと。
この感覚を手に入れた僕は、もう後戻りなどできない。
けれど、後戻りする気もなかった。
人間を喰らい、人間を超える。
その先にあるのが、僕の“生”なのだから。
■
僕は、河川敷の泥のなかに身を潜めたまま、朝焼けを待っていた。
けれど、東の空が白み始めても、眠気は一切なかった。まるで脳が興奮状態を保ったまま、ひとときの油断すら許さぬよう命じてくる。
五感が、異常に冴えている。
遠くを走る車のタイヤの摩擦音、カラスの鳴き声と羽ばたき、濡れた雑草が擦れるわずかな音さえ──まるで僕の耳元で発されているように鮮明に聞き取れた。
鼻を突くような腐臭。けれどそのなかでも、人間の汗、川の泥、朝食のパンが焼ける匂い、古新聞のインクのにおい……それらを一つ一つ分離して感じ取れる。
「これが……進化だ……いや、なのか……?」
僕はもはや、人間ではなかった。
河童として生きるこの身体。朽ちていく肉と脳の代償に、得た力。
音を聞き分け、匂いを捉え、遠くのものをも見通す目──
それは、野生に生きる捕食者の感覚。
──蠅が群がる。
僕の腐りきった肉の隙間に、執拗に入り込もうとする。
「……卵を……植え付ける気か……クソが……」
手で払うが、まるで恐れていない。僕の身体は、もはや死肉のような扱いなのだろう。
けれど、僕は死んでいない。
まだ、狩りを終えていない。
そのときだった。
遠くから、草を踏みしめる音と、獣の低い唸り声。
また警察犬だ。
今朝も、奴らは僕を追っている。
だけど、嗅ぎ取れる。
奴らの来る方向、足音の数、靴底に残った泥のにおいすら。
僕は風下へと素早く移動し、泥に身を沈める。
警察犬が吠えるが、その方向は外れていた。
「……ふふ……おつかれ……」
僕はまた、逃げきった。
何度も来ている。けれど、奴らは僕を捕まえることができない。
それはこの進化した感覚──いや、野生の本能によるものだ。
……そう、慢心していた。僕は油断していた。
その日は違った。
僕は、進化にあぐらをかいていた。まるで何もかもを見通し、嗅ぎ分け、聞き分けられると信じ切っていた。
しかし、その油断こそが隙を生んだ。
気づけば、風向きが変わっていた。
背後から吹き込む風に、焦げたような異臭が混じっていた──犬の唾液と鉄の匂い。
「っ!?」
振り向くと、そこにいた。
黒い毛並みの警察犬が、僕の足元に牙をむいて飛びかかろうとしていた。
「ぐあっ……!」
かろうじて跳ね退いたが、肩に浅く爪が引っかかり、腐った皮膚が裂けて泥に飛び散った。
吠える声。周囲にいた人間たちがこちらに気づく。
「いたぞ! あっちだ!」
僕は泥を蹴って逃げる。警察犬の鼻息がすぐ背後で熱く感じられる。
進化にあぐらをかいていた──その代償がこれだ。
「くそっ……!」
藪に逃げ込もうとしたが、進路を読まれていたのか、警察官たちが網のように展開していた。
草むらに辿り着けず、平地の開けた場所に追い込まれる。
周囲を囲まれた。
警察犬の唸り声が響く。ライトが僕の姿を照らし出す。
腐敗した皮膚。膿だらけの肩。皿がぐらつき、頭から膿が垂れ落ちる。
僕は、睨み返した。
逃げられない。
だが、戦うしかない。
「こっち来るな……くるなぁぁ……ッ!!」
牙をむき、姿勢を低く構える。
警察犬が唸り、警官たちは銃を手に構える。
「……次は……ぜってえ、誰にも逃がさねぇ……!」
僕は、生きている。
腐りながらも、進化しながら。
そして、狙っている。復讐のその瞬間を。
柿崎。
三輪。
渡瀬。
琴音──
あのクソどもを、ひとり残らず尻子玉ごと地獄に引きずり込むまで、僕は決して朽ち果てない。
学校は今、休校中。ならば僕は潜伏するしかない。
この河川敷が、しばしの巣となる。
腐臭を嗅ぎつけた蠅がうるさい。
だが、構うものか。
これもすべて、あいつらにたどり着くための準備だ。
これは戦いだ。
僕が勝てば、また河川敷の王様に戻れる。
「やるしかない……復讐する為にま……見られたらやるしかない……警察犬も警察官も……」




