Gradated Grey
大きく息を吸うと、マイクを伝って増幅されたその音が、ホール内に渦巻いていた焦躁や興奮を吸い込んでいくのがわかった。
別のスピーカーからは、女が鼻を啜り上げる音と、肉がぶつかる鈍い音が流れている。
これは、ぼくが学生時代に部屋で自分で自分を殴っていた時の音。
ぼくは、ただひたすら、息を吸って、吐いてを繰り返す。
ぼくを照らしていた青白い光がステージ後方を照らした。ステージには、前方にマイクスタンドがあり、後方には、マイクスタンドを取り囲むように赤や緑色、青色などの派手な原色の高さが4メートルほどある大きい積み木のような台が半円状に並べられている。
台の形は様々で、歪な台形や、長方形、きっちりとした正方形のものもある。
その台の上にシンセサイザーやドラムセットなどの楽器がセッティングされていて、バンドメンバーもその台に立っている。
この奇妙な台はステージだけでなく、スピーカーの役割も兼ねている。
すべて、ぼくがアイデアを出し、デザインや設計なども全部自分でやった。
スピーカーから、巨大な触手のようにうねうねと動き回るシンセサイザーの音が爆音で鳴り響いてくる。ぼくは、声を出す。巨大な触手を貫通するように、声を出す。
ぼくの声と、触手はお互いに殺し合ったりせずに、共存している。
突然、シンセサイザーの音が止んだ。
残響の奥から、グロッケンシュピールの宝石のような音が飛び出してくる。ぼくの歌声とグロッケンシュピールの音が共鳴し、暴力的なまでに美しい音になる。
その美しい音は、聴く者の全身の毛穴から体の内部に入っていき、身体中をデトックスして通り抜けていく。白、ピンク、水色、緑色のレーザービームが会場内を動き回っている。
歌いながら、ステージのライトに照らされている客席を見つめた。シンセベースのうねりに合わせて体をユラユラと揺らしている金髪の若い女、斜め下を向いたままビクとも動かない坊主の男、青いポロシャツを着た七三分けの男と手を繋いでいる赤い髪の少女。全員の身体をぼくの歌声が通り過ぎていく。
ライブを終え、バンドのみんなに一通り挨拶した後、楽屋にあるパイプ椅子を四つ並べてうつ伏せになった。少し錆びた金属と人工皮の匂いが、ライブの高揚感を鎮めてくれた。
目を閉じると、すぐにさっきまで見ていた景色が目蓋の裏に蘇った。
ライブの途中で会場の一番後ろにいた小太りの女が泣いているのが見えた時、浄化できているという感覚が身体中からゾクゾクと湧いてきて鳥肌が立った。
ノックをする音がしたかと思うと、ドアノブがゆっくり回り、マネージャーの石井さんが顔を出した。
「お疲れ様です。アスカさん。今日、声の調子良かったですね。」
「おつです。ぼく疲れた。早く帰りたい。後、何回も言ってるけど敬語やめてよ。あと、さん付けもやめて。ぼくそんなに偉くないから。」
石井さんはまたか、とでも言いたげにわざとらしく声を出して笑った。
石井さんは、ぼくのマネージャになってまだ一ヶ月ちょっとくらい。
肌が何かの皮を貼り付けたように異様にツルツルしていて、日に当たったことがないんじゃないかと思うくらい白い。
目は切れ長で、エラが張っている。いつも笑っているが、そのせいで感情が全く読み取れない。
石井さんと喋っていると、さっきまで見ていた景色が嘘のように思えてきて、現実がくっきり輪郭を持って目の前に浮かび上がってくる。
自分の歌声がいろんな人を浄化していくあの幸せな感覚が失われていく。もう少しの間、余韻に浸っていたかったのになあと思ったけど、もう遅い。
「そうはいきませんよ。私はアスカさんに付いてるマネージャーって役割ですから。この関係性の緊張感を保つためにも、敬語と、さん付けはやめません。」
「めんどくさいなぁ。」
「めんどくさいからいいんですよ。」
「…ふーん。」
「それより今度ドキュメンタリーの密着の仕事の依頼が入ったんですけど、どうしますか、受けます?」
「ぼくなんかに密着しても、良いもの撮れないと思うけど。」
「いやあ、そうでもないですよ。この企画書によると、アスカさんは今や、話題の完全自己プロデュースのぼくっ娘天才病み系シンガーソングライターってことらしいですよ。数字持ってますよ。」
そう言って石井さんはにっこりと笑う。
ぼくは、「病み系」というジャンルによく入れられる。
隠していたつもりが、いつの間にかネットで拡散されていた手首のリスカ跡とか、頬にあるアザとか、コンサート会場の雰囲気や客層から、そんな印象がつくのだろう。
メンヘラの総本山、新興宗教の集会、オタワ条約違反、とか、そんなことをよく言われている。
ぼく自身は、病んでいる自覚は全くない。
病んでいるのは、こんな風になんでもかんでもジャンル分けをして理解した気になっている奴らの方だ。そんな奴らに取材なんかされてたまるもんか。
「やだ。」
ぼくは、出来る限り不快感を込めて言った。石井さんは笑顔のままだ。
「まあ、そう言うと思ってました。じゃあ断っときます。」
いつもの事務的な口調で感情が全く読み取れなかったけど、案外あっさりと承諾してくれたのでぼくは拍子抜けした。
石井さんは、踵を返してスタスタと扉まで歩いていき、お疲れ様でした、もうタクシー来てると思いますよ、と言って、楽屋を出ていった。