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3.

 檻の中は、ひどく狭い。

 次に目が覚めた時も喉が渇いていた。


(そうだ……たらい……)


 共に檻の中にあった盥の存在を思い出し、起き上がる。

 盥の中に両手を浸す。常温だったが、火照った身体にとっては十分冷たく感じられる。掬い上げ、うるさく啜った。

 次の瞬間にはむせた。

 異様に水がしょっぱいのである。


(塩水……)


 喉が渇いている時にそんなものを飲んでは駄目だと、小学生でも知っている。何故こんなものが置かれているのか。

 嫌がらせか。真症サディストか。


(こうなったら)


 尿を飲めばいい――


(でも、出そうな感じはしないのよね)


 驚くほどに尿意も便意も無い。件のシャワーを浴びてから何時間経ったのだろうか。流石にこれはおかしい。

 頭がクラクラする。正気を保てなくなるまでは何時間残っているだろうか――なんて計算しようとしている自分にゾッとした。

 初めて覚える種の恐怖に、変な汗が沸き起こる。爽快感なんて全く伴わない、苦しいとすら感じる汗だ。


(ダメだダメだ、貴重な水分が!)


 不思議と震えは無かった。肉体が本能的に余計な運動をシャットダウンしているのだ。僅かな体力も温存しようとしている。その我が身の無意識の計らいを自覚してしまうと、ますます恐ろしい。

 闇の中に他者の気配はしない。即ち、罵詈雑言も命乞いも叫ぼうとしたところで無駄。


 ――ピロン


 遠くから機械音がする。

 今だけではない。メール着信を報せる音が、数分ごとに部屋に響いていた。きっと、親友の美紀からだ。しばらく返信が無いから催促しているのだろう。なんとかこの状況を知らせられないだろうか。

 月曜日になっても講義に出なければ、警察に相談してくれるはずだ。

 そこまで想像して、ちひろは落胆した。

 よしんばその日まで生き延びられたと前提して。捜索願が受理されても、誰かが異国まで捜しに来てくれるとは考えにくい。

 どうやってこの場所に辿り着けよう? 貸し切りのプライベートビーチでホテルのスタッフも数人程度だ。おそらく皆、オーレリオの息がかかった者たちだろう。

 恐怖によって回転の速くなった頭はどこまでも悲観的に状況を分析した。


 ――ピロン、ピロン

 ――ギッ。バタン。


(え、今の音は何)


 しつこい着信音の後に続いたのは、まるで戸を開閉したかのような音の連鎖だった。


「あんまりピロピロいうから冷蔵庫に入れたわ」


 闇の中から低めのハスキーボイスがした。嫌悪がぐつぐつと胃の底から沸騰する。


「かえして! 返してよ! あれが無いと連絡が!」


 ちひろはしゃがれた声で力一杯怒鳴る。


「誰と連絡を取る必要があるの?」

「誰って――」

「大丈夫、すぐに仲間たちに会えるわ」

「やめてよ! あんたなんか信じない!」


 そもそも最初から信じるべきではなかった――という後悔が押し上げる。せめてもっと侮蔑の篭もった罵詈雑言を吐きつけたいのに、ちひろの今の語彙力では何も出てこない。

 ふふ、っと笑い声がする。オーレリオは子供の戯言を聞き流すような態度だ。


「そんなことより、喉渇いてるでしょ」


 ぎくりとした。


「潤わせてあげましょうか」

「い、いらない……わよ」


 ちひろは拒絶にうずくまる。どんな鬼畜なことをさせられるのかわかったものじゃない。

 だが心の奥底では、抗えない希望の火が灯った。生存本能のせいだ。水を求める衝動に抗いようが無いのだ。


「そう? 我慢しなくていいのヨ。既に――はじまってる、でしょう」


 労わりの声が炎を膨らませる。

 欲しい。

 何を与えられるのか知れないのだという不安よりも、渇きが凄まじい!

 だが屈しない。屈して、なるものか。


「別にアレを飲めなんて言わないわ。安心なさい」


 アレとはどれだ。想像の中では汚物だったり、変態的嗜好をなぞるソレだったりと、とにかくおぞましかった。寒気に指先が震える。この部屋は、決して寒くなどないのに。


「おいで」


 抗えない。


(やめて。呼ばないで)


 あんなに惹かれてやまなかった声で。


「おいで、チヒロ」


 暗黒によって拡張される視覚以外の四感覚。

 鍵が差し込まれる音。扉が開かれる音。

 雄の香り、人工的な香水ニオイと先天的な分泌物ニオイ

 欲望と欠乏が刺激される――


 それでも動けずにいたのは、最後の反抗と恐怖による硬直からだ。


(……檻が開いてる。今走れば、逃げられるかな……!)


 勇気によって硬直が解かれる。

 だが腕を掴まれた。引きずられるようにして立たされる。


「やっ」

「アナタはやはり、かわいいわ」

「はなしてっ」


 抗議空しく、口を口で塞がれた。肩に回された腕は鋼鉄のようにびくともしない。

 逃れようとするも、一瞬後には打って変わってしがみついていた。

 口の中に流れ込んできた冷たい液体――


(みずだみずだみずだ……水!)


 我を忘れて飲んだ。むせそうな勢いで吸い付く。


 ――嚥下という行為はこれほどの愉悦をもたらしてくれるものだったか?


 そんな自問は彼方へ押しやる。全身に活気が戻るような手応えがある。手足はびくんびくんと痙攣した。目の前の男にしっかり抱きついていないと振り落とされそうだ。

 液体には微かな味がついていたが、それが何なのかを考える余裕は無い。ただ、素晴らしい喉越しを堪能した。

 肩で息をしているちひろに、オーレリオは「いい子いい子」と歌うように囁いてうなじを撫でる。こころなしか、二人の間の身長差は前より開いている。


「もっと……もっと、ちょうだい…………」

「望むなら、いくらでも」


 つい先程よりも心のゆとりが戻ってきているためか、今度は接吻の感触をしっかりと感じ取れた。焼けるような快感。それを内から鎮める冷水。

 忘れていた空腹感が刹那呼び覚まされ、ほどなくして上塗りされる。この水はただの水じゃなくて、栄養ドリンクのようなものだったりするだろうか。まるで雛鳥の為に食事を咀嚼して戻す親鳥みたいだと心のどこかで思った。

 胃が満たされた後、ちひろはぐったりともたれかかった。親鳥はそれをそっと支える。


「楽しみにしていて。仲間たち――ううん、きょうだいとこれからはずっと一緒に暮らせるのヨ」


 意味不明な言葉をかけられたが、もうそれはちひろの脳まで到達できない。

 眠りについた。


 後で冷静になって思い返せば――オーレリオは口に水を含んでいた素振りは無かったのに、どうやってあんな量を流し込んできたのだろうか?



 *



 次に目が覚めた時も周囲はまんべんなく暗かった。朝なのか夜なのかも判然としない。

 ふと周りを見てみると、檻がなくなっていた。

 幻覚かと思って、ぎゅっと目をつぶる。横になったまま転がってみたりもする。

 手足は何にも阻まれない。愕然とした。

 罠かもしれないという疑念が生まれた、けれど。


(今度こそ逃げよう!)


 自由という褒美を目指して飛び出した。

 何度も足がもつれ、転ぶ。走っても走っても出口どころか壁に辿り着けない。窓は? カーテンは? 洗面所は?

 ここは本当にホテルの部屋なのか?


(私、もっと足速かったはずなのに)


 まともな生活習慣から逸れたせいで関節が軋んでいるのだろうか。いくら足を伸ばしてもちゃんと進んでいるかどうか怪しい。

 ようやっと、出口が見えてきた。

 暗闇に浮かぶ長方形。それは誘惑的な淡い燐光を帯びている。近付けば、廊下に通ずる出入り口なのだとわかった。廊下の、深緑色の模様を施されたカーペットに視線を落とす。

 後少し、ほんの少し身を乗り出せば、この悪夢を具現化したような空間から抜け出せる。期待と安堵感が胸を締める。

 ちひろは腹に手を当てて深呼吸した。外の空気は、とても乾いている。

 まるで肺に無数の小さな針が刺さったようだ。


(どうして)


 解せない点を押しのけ、戦々恐々と足を上げる。下ろすことはできない。怖くて怖くて仕方がないのだ。この枠を超えてしまうのが、どうしても。

 それに、廊下の明かりに照らされた足が奇妙である。記憶にあった自分の足よりも一回りも二回りも小さい。床が近いし、ふくらはぎも記憶より細く、そういえば手もよく見れば小さいような――


「そこから出るなら、アタシは追わないわ。この段階ではまだ間に合うかもネ」

「――!」


 鬼の形相で声の方を振り返る。

 あんなにも恋焦がれていた男の輪郭が薄っすらと闇に浮かんでいる。


「どうして! どうしてよ!」


 わけがわからず気持ちが爆発した。

 憎い。殺したい。夢想を裏切られて、悲しい。だけど愛しい。欲しい。

 ぐちゃぐちゃだ。何もかも。

 ちひろは髪をかき乱して言葉にならない絶叫をした。


「かっ……はっ……」


 息が苦しい。叫んでいるから息が切れたというだけではない。やり場の無い感情を代弁するように手がめちゃくちゃに動いた。胸をかき、首をかき、頬を引っかく。

 緩和されない。苦しみが、何処にも消えてはくれない。

 喉が焼ける。舌を噛み切って、楽になってしまいたい。かゆい。痛い。

 首を、もいでしまいたい。コイツの首を。自分の首を。


「愛しているわ、チヒロ」


 宙をさまよっていた手が掴まれた。


「う、そ」

「いいえ。アタシはアタシの欠片を、子供たちを。みんな深く愛している」

「何それ……私の親は貝塚さなえと、貝塚道夫! あんたなんか私の何でもないわ! 死ね! 死ねばいいのよ!」


 力を振り絞って反論した。涙が止まらない。激昂も、渾身の叫びも、支離滅裂に感じられた。

 自分がバラバラになっていく。


「そう、それがアナタの答えなの。じゃあさようなら。ロビーのお姉さんが帰りの航空券を預かってるわ。そこから出てお行きなさい」


 ふいに手を放される。トン、と背中を押し出された。


(待って! いやっ)


 廊下のカーペットのかさついた感触が足の裏をくすぐる。よろけて、膝をついた。消臭剤の残り香がどこからか漂い、鼻腔に触れた。

 これが、慣れ親しんでいる方の世界だ。人間社会へと戻る為の一本道だ。なのに何故喜べない。血管を伝う底知れない虚無感は何だと言うのだ。

 ちひろは吐き気すら覚えるほど激しい葛藤に蝕まれた。


「うっ……やだ……さよならなんて言わないで……」

「ソレを、選ぶの?」


 彼が目配せしながら首に右手を触れる。

 ちひろも己の首に掌を這わせた。滑らかな素肌に、異なる感触が紛れ込んでいた。もっとよく確かめようと、爪先でなぞった。

 首に切れ目が入っている。それも、五列。

 こくん、と小さく頷いた。その動作に真に自分の意思が通っていたのかどうかは、もはや自分でもわからない。


「歓迎するわ」


 オーレリオはどこから出したのか、ちひろに薄いシーツを被せた。


「では落ち着いて。飲みなさい」


 指差された先に盥がある。

 盥に頭を突っ込むようにして飲んだ。不思議と塩っぽさが気にならない。むしろ、おいしいとさえ感じた。

 傍でオーレリオが優しく歌っている。子守唄を思わせる緩やかな曲調だった。こちらが飲み終わるまで、悠然と待ってくれている。

 またもや、ちひろは眠りについた。



 *



 ――何かがわかった気がした。


 次に目が覚めて、盥から水を飲んだ後のことだった。口元を手の甲で拭いながらちひろは問うた。


「オーレリオさまは、人間、ではないの」

「あら。アナタ、アタシのことをなんて聞いてたの」

「32歳のシンガーソングライター、カリブ海の島出身って……」


 彼が人外である可能性など美紀からは聞かされていないが、それも当然といえば当然だろう。そんなものは一般社会に存在しないとされている。


「違うわ。アタシはカリブ海の島国出身じゃなくて、カリブ海出身なの」


 どう違うのかよくわからない。


「年に何度か陸に上がって、探すのヨ。アタシの為にしがらみを捨ててくれそうな子を。それは雄だったり、雌だったりするけれど。今回はアナタだったわ。そして『毒』を飲ませて、『変化』を促した」


 ――違う、この男はサディストなどではない。


 当然の現象を当然のように語っている。

 彼の言葉、仕草、表情にはほとんど感情が纏わりついて居なかった。後ろめたさも、悦びも。ちひろにやったことは、ただやらねばならないことだと――そう告げているようだった。


「人間ではないわネ。だったら何なのかと訊かれても、いい答えは持ってない。魚人とか鮫人サメビトと呼ばれたりするけど。アタシは種族名なんてどうでもいいわ。同胞さえ増えてくれるなら、どうでも」


 彼は床に膝をついて、ちひろを抱きしめる。

 驚きを禁じえなかった。これまでの接し方とは全く性質の違う抱擁であった。


「塩水が飲めるようになって、嬉しいわ。これでチヒロも正式にアタシの子供になった」


 そこで、オーレリオ・コントレラスの放つ空気に鮮やかな感情が射した。

 慈しみだ。


「こども……うっ」


 突如、呼吸困難に陥りかける。


「苦しいのネ。息ができないのは、呼吸の仕方が変わってきている証拠」


 ひょいっと片手で抱き上げられた。そこでやっと、ちひろは自分が随分と小さくなったのだと思い知る。


「完全な幼魚に生まれ変わる前に、海に行きましょうか。息ができなくなっては困るものネ。少し目を閉じていて」

「はい」


 肉体の幼児化を経て、新たな一生を始める――それが、変化。

 受け入れた。

 エラも、指の間に張った膜も、伸び始めた尾やヒレも。抜け落ちていく髪の毛も。

 受け入れることは、至上の喜びをもたらしてくれた。抗っていた頃の愚かな貝塚ちひろを思い出せば、嘲笑が漏れた。大学も友人も生まれた家も、そんなものを大切に思っていたなんて。


 ――ザバッ。


 温い海水を浴びせられて、目を開ける。

 洗礼バゥティズモ。滴の向こうに見渡せる美しい水平線に、朝焼けの色が炸裂した。

 宝石のような果てしない世界。清々しい潮の香り。足の指の間にサラサラと流れる砂の感触。

 今日からこの景色と共に在り続けるのだと思うと、胸は愛しさで一杯になった。


「人間だった頃の名前は、アナタにはもう必要ないわネ。フェリザ、なんてどう。恵まれた、幸せな娘って意味ヨ」

「フェリザ、フェリザ――素敵! ありがとうございます」

「気に入ってもらえて嬉しいわ」


 幸せな笑みを交わしている間に、潮は幾度となく浜を打つ。

 次第に足元に大きな影が集った。


「王だ、王が戻られるぞ!」

「新たな御子も一緒だ!」


 本来群れる習慣の無いサメが、餌が居るわけでもないのに大勢集まっていた。彼らの言葉は、今のフェリザならば理解できる。


「お前たち、出迎えありがとう」

「王と御子のお帰りを、みな待ち侘びています」

「あらあら。しかたないわネ」


 オーレリオは嬉しそうに笑う。

 王ともなれば人型から変化するのは容易のようだ。彼は瞬時にエラやヒレを顕現させ、服を破り捨てた。


「さあフェリザ、一緒に帰りましょうか」

「はい、おとうさま」


 広大な海に彼らは潜る。

 そこにどんな世界が広がるかは、まだフェリザには想像が付かない。

 不安も恐ろしさも無かった。


(だって、ここが私の居場所だから)


 エラを大きく広げて、酸素をたくさん取り込む。


 ――ここは息ができる。


 それだけ確認すると、彼女は満足げに頷き、最愛の者の傍へと泳ぎ寄った。

第三部の文字数(空白・改行除く):5,959文字

ごくごく。謎の運命を感じて、改稿する気が失せました。



私が去年あんなに書きたいと言っていた恋愛やらバイオスリラーは、決してコレではないw この話は先週思いつきました。


登場人物の名前はノリで決めてます。世の中に溢れている他のオーレリオ・コントレラス様方とは一切関連がございません。


オーレさま、書いててめっちゃ面白かったです。いつかまた書きたいかもしれない(世界観的には無毒養父あたりとクロスオーバーできそうw ジャンルはともかくして)。でも次の次くらいは、人外が登場しない短編が書きたいですねぇ。なんか気が付けばいるんですよね。今のところ、私の投稿作品って全部何かしら人外がいる… リレー小説の「珠玉」以外。アビスと藻は…喋る動物? これも人外枠なのか??


あまり書いてないタイプのキャラ(ミーハー娘xラテン系オネエ)だったので、何もかも新鮮でした。



この物語の魚人の繁殖方法は服従・愛欲・幼児愛好(?)などの成分がない交ぜになっています。勿論それは人間の倫理に反した気色悪いモノだし、それを想像したのが人間だから、この場合は人間(つまり私か)がビョーキってことになりますが(


もしも本当にこんな生物が存在したら。


その行為に善悪などなかったら? そういう風にしか繁殖できないのだから、それは彼らにとっての摂理。強制的にその輪にはめこまれる被害者=人間にはただただおぞましいのに、説得も共生もありえないとしたら。


って思うとちょっと、ゾッと、しますね。




(鮫人というのはただの便宜上の名で、血の臭いが好きだとかそういう鮫の習慣は持ち合わせてない気がします。)



…海は好きだけど…


…人間が踏み入るべき場所ではないと、度々思いますね…



(作中の魚人が海の食物連鎖ピラミッドのどの辺に位置するのかは、ご想像にお任せします)



よんでくださりありがとうございました!






おまけ。



貝塚ちひろ

20歳の普通の大学生。一応上京してきた身だが、実家も関東。

同年代の男なんてガキばっかりだ! の考えのもと、年上の彼氏が欲しい年頃。

姉のデキ婚の影響で性交渉に対して慎重。

オーレリオに一目惚れ(熱狂)したのが始まり。



オーレリオ・コントレラス

32歳(?)のシンガーソングライター。

カリブ海出身。低めのハスキーボイスがセクシー。

雄のフェロモンむんむんだが日本語は女言葉で話す。

その正体は魚人の王。服従させた人間と接吻することで繁殖する。

接吻された者は幼児化し、無性別の魚人につくり変えられる。

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