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2.

 ここは白砂輝くプライベートビーチ。

 見渡す限りの海――と言っても、ちひろの見慣れた海とはてんで違う。

 宝石のような群青や青緑が五階調以上も視界の中に展開されている。リゾート地のコマーシャルの映像って加工じゃなかったんだ、と思い知らされた。堂々と砂浜を横切るフラミンゴまでいる。

 最も恐るべき事実は、美しい海もヤシの木も藁でできたトロピカルな家も、貸切状態だということだ。

 加えて、目と鼻の先では類稀なるイケメンがのびのびとサーフィンを嗜んでいる。勿論、先日知り合ったばかりのオーレリオ・コントレラスその人だ。彼の華麗なる波乗りも素晴らしい腹筋も、今はちひろが独り占めしているのだ。

 とんでもない状況だった。

 この夢がいつ醒めるのかばかりが気がかりで、今朝方到着して以来、ちひろは幾度となく己の頬や太ももをつねってきた。が、何度やっても痛いものは痛い。


 その一方で――


『ヤバイでしょ! 知り合ったばっかの異性と異国まで二人旅って、ドラマじゃないんだから! どう考えてもこっぴどく捨てられるか詐欺に遭うかじゃないの!?』


 ――みたいな内容のメールが親友・美紀から届いていた。今回の件は彼女にだけ話したのである(飛び立ってからのほぼ事後報告)。親になんて言えるわけがなかった。

 それはさておき、不穏な話である。


(私、弄ばれてるのかな……)


 たとえそうだとしても構わない。世界的に有名なアーティストと島でバカンスした後に捨てられたとなっても、それだけで十分な武勇伝になる。余計なことは帰国してから考えよう、と結論付けることにした。

 美紀のメールにはまだ続きがあった。


『避妊しときなさいね! 性病にだけは絶対かからないでよ!』


 忠告がいちいち生々しくて、夢心地が台無しである。全ては心配ゆえのことだとわかっている、けれど。


(返事ないともっと心配するよね)


 ちひろは片手で返信を打ち始める。もう片手には新鮮なパイナップルをふんだんに使ったカクテルだ。甘くて爽やかな果汁とシャンパンのハーモニーを味わいながら、言葉を綴る。


「わかってるよ、と。ちゃんと用意してるから、と」


 デキ婚を強いられた姉を身近で見てきた影響で、これでもちひろは性交渉には慎重だ。過去に付き合った彼氏とは一度も事に及んでおらず、この歳まで純潔を守り抜いてきた。初めての相手は本気で大好きな人でなければ絶対に嫌だ、と頑なに決めている。

 しかしようやく、心の封を解いても構わないくらいの理想の異性に出会えたのだ。確かに知り合って日は浅いが、ビビッと来たので間違いない。伴うリスクは熟知している。

 そうこうしている間にオーレリオがサーフボードを脇に抱えて戻ってきた。なんとなくちひろは日よけ帽を深く被り直し、短パンの裾を引っ張った。


「泳がないの?」


 異国の大空を背負った彼が、微笑みかける。

 ぎゅっと胸の内が狭くなった気がした。


「私は浜からの夕日を眺めたくて」


 というのは口実、プロポーションには自信が無いからパーカーを脱ぐのが怖いだけだ。


(贅肉とか贅肉とか贅肉とか)


 別にちひろは太っているとかぽっちゃり系の分類に入るほどではないが、現代人にありがちな運動不足だ。四肢が細くても曲線があまり美しくない。しかも谷間も無ければ、くびれも無い。各国の美女たちを見てきた彼にしてみれば、何の魅力も感じられない身体だろう。

 まだバカンスもこれからってタイミングで幻滅されたら果たして立ち直れるか。


「そう。アタシは陽が落ちるまでもう少しやってるわ」


 にこっと笑い、あっさり彼は去る。

 安心したようなどこか残念なような、微妙な心持ちで見送った。


(そりゃあ「どうしてもアナタの水着姿が見たい!」って食い下がってもらえるとは思ってなかったけどさ……)


 この虚しさは何なのか。ちひろはずずっと行儀悪くストローの音を立てて、残りのカクテルを飲み干した。


 ――ザン。ザザッ、ザン。


 さっきよりも明らかに満ちてきた潮。波間からにゅっと生えた尖った物が、いつしかオーレリオの立ち姿を追っていた。

 ちょうど空が赤に染まり始めている。

 まるで現実味が沸かない気分でちひろは突起物を凝視した。

 映画で観たような緊迫した一場面――ドボルザークの「新世界」第四楽章出だしによく似た有名なテーマが聴こえて来そうな――。


(サメ!?)


 幻聴が消えたのと同時に、ちひろはハッとなって瞬いた。

 慌てて立ち上がるも、恐怖で声が出ない。カクテルグラスが砂の中に落ちる気配があった。


(危ない!)


 祈るような気持ちで見守った。口を開けても無駄だ。彼の名を呼ぼうにも喉が枯れ切っていた。

 優雅に波に乗る男性の背後に不吉な影が迫る。


(おねがい、気付いて!)


 けれども気付いたところで何ができるだろうか。もしもサメが本気で人間を襲ったなら、人間の方にいかほど抗う術があるだろうか。

 ふと彼が振り向いた。

 欠片の焦りも見せず、サーフボードを相変わらず巧みに繰っている。


 ――ザーン。


 波が落ち着いた。

 オーレリオは大海の一点に留まり、サメを見下ろしていた。或いは何か、呟いているようにも聴こえた――


(どう……なってるの……)


 こちらからは後ろ姿しか見えないため、表情まではうかがえない。

 両手を握り合わせて生唾を呑み込んだ。


(神さま!)


 耐えかねて目を瞑った。これがいけなかった。瞼の裏には、海から飛び上がった巨大なあぎとに抉られる彼の姿が浮かんでしまった。


「――!」


 急いで目を開ける。

 パーカーの首周りがすっかり汗びっしょりになっていた。


「泳がなくて正解だったわネ」

「お、オーレリオさま! 無事だったの!」

「んー? どうしたのチヒロ、真っ青ヨ」


 何事もなく、前髪をかき上げるオーレリオ。どうしてこんなに平然としていられる!?


「だ、だってサメ。サメが!」

「あの子ならもう帰ったわ。もうすぐ増やすから待ってて、って伝えておいた」

「……どういう意味ですか?」


 不可解な返答について訊き返したら、彼は「ナイショ♪」と唇に指を立てた。


「それより中、入りましょうか。シャワー浴びたいでしょ?」

「え……でも」

「サメなんてどうでもいいじゃない。アタシと楽しいことしましょ」


 腰から抱き寄せられた。微かに湿った、柔らかい感触が首筋に押し当てられる。

 口付けは首から頬へ、そして鼻の頭へと続いた。やがて唇同士が重なるに至り――


 まともな思考ができなくなった。



 *



 一人でシャワー室に籠っていた間、絶えず超高速で思考が巡った。そのほとんどは文章どころかちゃんと言葉を成していたかすら怪しい。

 回路がショートしそうだ。

 その都度お湯から水へと切り替えて、冷水で頭を冷やさんとする。数秒後寒くなって、またお湯に切り替える、の繰り返しだ。


(ついにこの時が来た)


 落ち着け、落ち着こう、しかし落ち着けるわけがない。


(どんな感じなんだろ。噂通りめちゃくちゃ痛いのかな。あたし汚くないかな、臭くないかな。満足させられなかったらどうしよう。初めてだってちゃんと伝えた方がいいって聞くけど)


 ごちゃごちゃぐだぐだと心の声がうるさい。もうかれこれ二十分以上はシャワーを浴びてるのに、まだ洗い足りない気がしてならない。もう一度髪を洗おうかとシャンプーに手を伸ばした。

 ガチャ、っと音がして、背後から冷気が入り込んだ。


「な、え、う。ひっ!」


 その意味を瞬時に理解した。慌てて壁に身体を向ける。

 着衣のまま入ってきた男性――オーレリオは、くすくす笑って歩み寄った。


「隠さなくてもいいのヨ、チヒロ」

「い、いえ! お目汚しされてはいけないので!」


 錯乱しすぎて日本語が崩壊している。

 何か言わなきゃ。何か。何でもいい。この状況で双方沈黙したらパニックで気絶しそうだ。


「あの、どうして私を選んで……誘ってくれたんですか。せっかくのプライベート……他にいくらでもいい相手が居たでしょうに……」


 しまった。これはこれで、黙り込まれたら辛い。

 ざぁざぁ流れる水の反響に包まれる。居たたまれなくなって壁の方へ俯いた。

 ――やっぱり今の質問はナシ! と言おうとして顔を上げる。深い闇をたたえた瞳と視線が絡まった。


「そんなの決まってるじゃない。アナタがかわいいから」


 優しい眼差しに心を射抜かれそうになる。いや、なった。


「うそじゃないですか……? 本気でかわいいって思ってます?」


 だとしたら嬉しすぎる。湿気やシャワーからでなく、内から出る水分がちひろの目に溜まる。

 一目惚れが共通の真実だったなら。お互いに運命を感じたのだとしたら。嬉しすぎて、天に召されてもいいくらいだ。


「ええ」


 オーレリオの長い指が、ちひろの顎を捕まえる。

 噛むような激しい口付けをされた。


「それからネ。若くて、清くて――――服従させられそうだから、かしら」

「ふくじゅう」


 ぼーっとした頭で復唱する。


「アタシなしじゃ生きられないカラダにしてあげる。もう何も考えなくていいのヨ」

「――う」


 男の掌が、太ももを撫でた。慣れた手つきで彼はちひろの快楽を引き出していく。


「ん……! ……ふ」


 再び唇は重ねられ、急かすように吸い付いてくる。

 次いで舌が入り込んだ。ちひろのそれも絡めとられ、敏感な部分が熱く擦られる。

 全身が溶けていくようだった。

 後ろから打ち付けるお湯だけが、これが現実であることを証明している――


 ――ズキッ


 舌先に激痛が弾けた。


(噛まれた!?)


 何故か神経からは「刺された」というイメージが沸き起こったが、理由はわからなかった。

 痛みは麻痺へと成り替わった。


(あ、れ……どうして、目がかすんで――)


 膝から力が抜けていく。

 わけがわからない。


「おやすみ、チヒロ。いい夢見てネ」


 その声を聴いて最後、ちひろの意識は完全な闇に落ちた。



 *



 次に目が覚めた時、喉はからからに渇いていた。

 せめて唾を飲み込もうとすると、妙な味が舌についた。

 血ではない。酸っぱいような苦いような、よくわからない後味が歯の間に残っている。それに舌は麻痺したままだ。

 意識を失う以前の出来事を思い返し、ちひろは身体の奥が疼き出した。

 見れば、自分は生まれたままの姿である。


(もしかしてあの後……)


 記憶が無いのが気がかりだが、想像はやはり幸せな方へと向かっていく。


(でもお腹痛くなるって聞いてたのに、平気じゃん。デマ?)


 もぞもぞと寝返りを打とうとする。足を伸ばそうとして、かかとが何か冷たい物に当たった。


(あれ?)


 ちひろは己の真下の感触に違和感を覚えた。肌に触れる部分は柔らかいけれど、平すぎる。高級ホテルのふかふかベッドどころか、シーツすら敷かれていない。この感触はそう、カーペットだ。

 腹部を見やると、傍に水の張った盥があった。

 四方には鉄格子。

 鉄格子、つまり、檻。

 檻。


(お、り……――おり!?)


 リゾートホテルの部屋に檻なんてあっただろうか。チェックインの際にそんな荷物は無かった気がする。否、重要なのはそこではない。

 頭から血の気が抜けていく。

 現実は想像以上に非情なものだ。詐欺だとか捨てられるだとか、考えが甘かった。想像は一気に不幸な方へと流れていく。


 ――彼が異常者かもしれないと、何故疑わなかった?


「出して! どういうことなの!? オーレリオさま、いいえ、オーレリオ・コントレラス!」


 返事は闇から返った。


「目が覚めたのネ。ちょっとカンキンしてるだけじゃない。騒がないで」

「ちょっと!? 監禁――!?」


 精神異常者。変態。犯罪者。罪の一つや二つなど簡単に揉み消せる経済力、人脈。


 ――逃げられない。


 腕力も脚力も適うはずない。そもそも、檻に囚われている。


「私、ころされるの……?」


 か細い問いを絞り出すので精一杯だった。


「何を言ってるの、殺したりしないわ。逆ヨ。アナタは生まれ変わるの」


 オーレリオは無邪気に笑った。美しい微笑からはまるで悪意が感じられない。

 恐れることは何も無いわ――そう付け加えて彼はアコースティックギターを手に取る。流れ出るメロディーは音の一つ一つをもって嫌なことを忘れさせてくれた。

 甘やかな歌にたゆたいながら、ちひろはすぐさままた眠りについた。

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