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六章 第三話

 カイラギの脱出計画のあと、いつものようにハリティアとアリハルが代わる代わるやってきたり、時に一緒に訪問したりと、このまま何も変わらないのではないかと思う数日が過ぎていった。


 その日は珍しく誰も来ない日で、少し拍子抜けしたイセリとキリクは少し早めにベッドに向かうのだった。


 扉を叩く音に気がついたのは、キリクがベッドに入りうとうととし始めたときだった。朝から雨が降っていた事もあり、その遠慮がちに叩かれているような控えめな扉の音は、聞き間違いかと思った頃、間を置いてからまた聞こえてきた。


「はい」


 こんな時間にやってくる訪問者。誰がどんな用で来たのかまったく予想できなかったものの、キリクはベッドから起きあがり、上階で寝ているであろうイセリを起こさないよう、あまり音を出さないように扉に向かう。


「どちら様でしょう」


「…ィ…です…」


 雨にかき消されるようなか細い声で、返事らしきものが聞こえた。


 キリクがその聞き覚えのある声に驚き、あわてて扉を開けると、目の前にびしょびしょに濡れた外套を目深にかぶった、ハリティアが一人で立っていた。


「ハリティア様!このような時間にどうされたのです!」



 キリクは周りを確認するが侍女なども連れておらず、ただ深刻な顔をして一人目の前に立っている。


「お入りください」


 ハリティアが震えていることに気づいたキリクは、あわてて室内に案内し、濡れた外套を受け取り、先ほど消した暖炉にまた火を入れ、その前にイスを用意しハリティアを座らせる。


「お飲みください」温めたミルクを渡す。


「ありがとう」


 ハリティアは弱々しくキリクにほほえみながら、受け取ったミルクに口を付ける。


 しばしの沈黙が訪れる。


 キリクはハリティアがなぜこんな時間に訪ねてきたのか気になったものの、せかしたりするようなことはせず、辛抱強くハリティアが話しはじめるのを待っていた。


 ハリティア自身も、こんな時間に押し掛けた自分を問いただすこともなく、なにも言わず優しく待ち続けるキリクに、自分の判断が正しいことを確認していた。


「キリク殿は、本当に優しいのじゃな」


 少し潤んだような瞳に、暖炉で冷えた体が温まってきたのだろう、朱のさしてきた頬。外套の下は薄手の夜着な事もあり、普段の少女のような明るさとは逆の、年上の色香漂う今のハリティアに、キリクは正視できずにいた。


「い、いえ、そんな事は」さらに温かい飲み物を入れる。


「いや、キリク殿に未だに許嫁がいないのが不思議なほどじゃ。まぁ、そのおかげでわらわが立候補できるのじゃがな」といってまたにっこりと笑う。


「ありがとうございます」


 キリクは、ハリティアからの純粋な評価に、素直な喜びを感じている自分に、少し驚いていた。


「わらわは、世間知らずの小娘だったのじゃ」


 カップを両手で包み込むように持ち、ハリティアは語るように話しはじめる。


「なんと言えばよいのか、欲しい物は何でも手に入ったし、自由に育てられてきた。甘やかされていたのじゃな」


 キリクはそれにはハッキリした答えを出さず、黙って話を聞いている。


「正確には、自分で手に入れた事などなく、与えられていただけじゃと、最近ようやくわかったのじゃ」


 顔を上げ、カップに向けていた視線をキリクに向けるハリティア。


「だから、わらわは自分で手に入れるために努力しようと思う」


 そう言って、吹っ切れたような笑顔をキリクに向ける。


「はい」思わず返事をしてしまうキリク。


「さて、わらわは戻ることにする。寝入りに迷惑をかけてしまったな」


 そういって立ち上がり、持っていたカップをキリクに渡す。


「……もう、ご用はお済みでしょうか?」


 ハリティアがなぜ自分の元へ訪れたのかいまいち判然としないキリクではあったが、訪れたときとは違う明るいハリティアの表情を見て、何か意味があったのかとか、なぜなのかなど、そう言ったことはどうでも良いことのように思われた。


「うむ。キリク殿の顔を見てわらわの気持ちも決まったのじゃ」


 キリクから外套を受け取り、出口へと向かう。


「そうじゃ、キリク殿」


 扉の前でくるりとキリクの方へ向き直る。


「はい、なんでしょう」


「少しおでこのあたりを見て貰えぬか?以前にぶつけたときから少しひりひりするのじゃ」


 そう言って手でさする。


「えっ!」


 キリクは以前扉を開けたときにぶつけたひたいに傷が出来たのかと、あわててハリティアのおでこをのぞき込むようにする。


 すると、ハリティアは顔を寄せてきたキリクに自らも顔を寄せ、そのまま軽く唇を重ねてくる。


 一瞬の出来事に、キリクは驚いて反応できずにいた。


「前金のようなものじゃ」


 そう言ってクスクス笑いながら、ハリティアは扉を開けて出ていってしまった。


 初めての異性とのキスに、戸惑いや恥ずかしいようないろいろな感情が入り交じったまま、しばらく立ち尽くしてしまうキリク。


「キリク?誰かいたの?」


「!!」


 キリクが驚いて振り向くと、上の階からイセリが階段を下りてくるところだった。思わず無意識に口を拭いてしまう。


「イ、イセリ様、すいません、起こしてしまいましたか」


「大丈夫よ。それよりも、誰か来ていたの?」そして目を凝らして付け加える。「それに色が無茶苦茶よ」


 咄嗟にキリクの頭の中に浮かんだのは、ハリティア姫の侍女が来た事にしようと言うものだった。だが、そのような嘘はすぐばれるだけではなく、イセリからの信頼を裏切るもの。どんなことがあっても選んではならない選択肢であった。


「ハリティア姫が、お見えになりました」


 階段を下りてきていたイセリの足が、一瞬止まる。


「そう、何かあったのかしら?」どこで?ここで?


 イセリは再度キリクの色に注目する。動揺を示し揺れている中に、気になる色が混じっている。それはとてもわずかなものであったが、キリクがこの色をほかの場所で出しているのを初めて見るのだった。イセリの胸がちくりと痛む。


「良くは分からないのですが、深刻な顔をしておられたので、部屋にお通しして温かい飲み物を飲んでいただいて、少し暖まってもらったら、その、お帰りになられました」


 キリクはわざと細部をぼかすような言い方をする。


 イセリはそのまま階段を下りてくると「私にもその温かい飲み物をちょうだい」と言って普段食事をしているテーブルに座る。


 詳細までは分からないものの、イセリにはキリクがすべてを語っていない、隠していることがあるのが分かっていた。だが、それを問いつめることもしたくなかった。キリクが話さないと言うことは、自分が知る必要のないことなのだから……と、自分に言い聞かせていた。


「ハリティア姫は、何も、言わなかったの?」


 キリクから受け取った温かいミルクを一口飲んだ後、思わず口をついて出てしまう。聞かないつもりだったのに。


「そう、ですね……」言った後にイセリの悲しそうな顔を見てしまう。


「いえ、そうではありません。詳しくお話します」


 キリクは意を決したように自分のために珈琲を入れ、イセリと同じくテーブルにつく。


「中にお通しして温かいミルクを差し上げると、少しの間静かにお飲みになられて何もおっしゃいませんでした」珈琲を一口飲む。


「すると、私のことを優しいのに許嫁もいないのが不思議だと笑いながらおっしゃられ、来たときとは違う明るい表情をされて、戻ると言われました」


 ここでキリクはこの先のことも話すのか少し躊躇する。


「それだけ?」


 イセリは思わず聞き返してしまう。聞きたくないという思いも交錯する。


「いえ。気持ちが決まったと言われてました。それで玄関までお送りしたところで…その…おでこが痛いと言われまして……」


 キリクはわずかに言い淀む。イセリの目に階段を降りてくるときに見た、あの色がまたわずかに写る。純粋な好意。


「のぞき込むと…キスをされました……」


キリクは言った後に、言う必要があったのかと思ってしまう。だが、言わなければ、今の状況や自分の動揺を説明できないような気がしたのだ。


 イセリの目に、恥ずかしいのをこらえているのだろう、キリクの体から立ち上る薄いピンクの色が広がるのが見える。おそらくキリクも言いたくなかったのだろう。だが、今の状況を説明するため、イセリに嘘をつきたくないと言う思いのため、本当なら言わなくても良いことまで語っていたのだった。


「こんな力、欲しくなかった」


 そう言うとイセリは立ち上がり、階段を上って自室に戻ってしまった。

 残されたキリクは、やはり言う必要があったのか悩んでいたものの、キスをした後の「前金のようなものじゃ」と言うハリティアの言葉も気になって、ベッドに戻ってからもなかなか寝付けないのだった。


 そんなことがあってからさらに数日後、カイラギがハリティアの侍女を伴ってイセリとキリクの元を訪れた。


 カイラギは侍女を残して部屋の中に入るなり扉を閉めると、外の様子をうかがうように聞き耳を立てる。イセリとキリクには静かにと言うように口の前に指を立てる。


 机に座り、紅茶を飲もうとカップに口を付けた姿勢のまま固まるイセリと、ポットを持ち立ったままカイラギの様子を伺うキリク。


「よし、大丈夫だ」


 そう言うとカイラギは二人のいる机のイスに座り、もったいぶるように「珈琲を」とだけ言って座る。


「あれからずいぶん経つけど、それだけもったいぶってるって事は、話が進んだって事でいいのかしら?」


 カイラギの態度に少しいらつきを見せるイセリ。キリクが見る限り、この二人はあまり相性がいいとはいえないようだった。


「ご名答。今日は脱出計画の詳細を煮詰めるために、来た」


 カイラギはキリクから珈琲を受け取ると、それに少し口を付ける。


「熱いな、少し冷たいミルクを入れてくれないか?」


「詳細って言っても、ハリティア姫を騙して二人で外に出て、そのまま馬に乗って脱出するだけだったんじゃないかしら」


 イセリがキリクも座りなさいと言うように、自分の隣のイスを示す。


「確かに概要はそうだが、本当にただそれだけを実行したらすぐに怪しまれてしまう。二人で同時にいなくなったとわかったら、すぐにでも追っ手を差し向けられてしまうだろう」


 確かにそれはカイラギの言うとおりだった。ハリティアはともかくとして、その従者達はキリクとイセリを見張っているのだから、二人同時にいなくなるような状況を作ること事態が難しいかもしれなかった。


「しかし、それでは二人で同時に脱出など、不可能ではありませんか?」

「二人が同時にいなくなるのを目撃されればな」

「では、イセリ様を先に脱出を、と?」


 キリクは先にイセリを逃がし、カイラギが無事にダマスクへ届けてくれるというなら、こちらに残る覚悟はできていた。


「それはだめだと言っているでしょ」イセリがキリクのすねを蹴る。


「まだわからないのか?二人並んで消えるのではなく、別々の所から脱出地点に合流するのさ」


 そう言ってどうだと言わんばかりにミルクを入れた珈琲をあおる。


「もしかして、アリハル様も利用するのですか!?」キリクがハッとして言う。


「その通り!」カイラギは大仰に両手を広げた後「もういっぱい珈琲を頼む」と付け加える。


「しかし、関わる人間が増えると、それだけ疑う人間が増えてはこないでしょうか?」


 キリクはカイラギのカップに珈琲を注いだあと、ミルクを追加することを忘れなかった。


「その辺も考えてある。というか、逆に自然な話になるのさ。ハリティア姫とキリクがまた遠出する。その話をアリハルが知ったらどうすると思う?」


 カイラギに言われ、キリクがまたハッとした表情をする。


「必ずイセリ様を遠出に誘われるでしょう」


「そう。そしてイセリ姫はこう言えばいいのさ「また釣りに行きたいわ」と」


 イセリが以前にアリハルとした船釣りを思い出し、少しいやな顔をする。


「釣りじゃなきゃ、だめなの?」

「今回の場合、釣りじゃなきゃ困るんだ。ハリティアとアリハル、二人が人をもてなすときに使う場所で、比較的近い場所がある。それがアリハルの場合、船着き場なのさ」


 イセリがそのときの情景を想像して少しげんなりする。


「少しわかったわ……私は船に酔ったことにして、一団から離れればいいのかしら?」

「イセリ姫は頭の回転がよくていらっしゃる」


 イセリが心底不愉快そうな顔をする。


「アリハルがよく使う船着き場には、少し離れたところに休憩用の建物がある。そこでイセリ姫は身代わりと入れ替わり、裏から脱出地点まで逃走していただく」


「その身代わりというのは?私の代わりに捕まって殺されるなんて、私は嫌よ」


「そこは心配しなくていい。ちゃんとあとで我々が逃がす」イセリは「本当にお願いよ」と小さく言って、紅茶のカップをキリクに渡す。


「なら私はどういう手はずで離れればいいのでしょう?」


 イセリのように体調が悪いと言って入れ替わるのか。


「そこは考えてある。当日は私の部下を潜り込ませる予定だから、指示に従ってくれればいい」


 キリクがわかったという風にうなずく。


「よし。ではもう一度流れを整理しよう」


 カイラギこれからすべき事を箇条書きのように述べていく。


「まず、キリクはハリティア姫にまた狩りに行きたい旨を伝える。これはアリハルに伝わらなければならないため、二、三日、日をあけること。そして二人が同日同時間に一団を離れ、私が用意した脱出地点で落ち合い、馬で逃走する」


 ここまではわかったな?と言うようにカイラギが二人の顔を交互に見る。イセリとキリクは肯定するようにうなずく。


「よし。そしてここからだが、おそらくばれるまでの時間は二〜三刻ほどだと思う。そしてそこから王都に戻り、追跡の為の部隊が編成されるまで、さらに時間がかかるだろう」


 そしてカイラギは大仰に両手を広げる。


「その頃には君たちは隣の町ぐらいは抜けているだろうさ」


 簡単だろ?とでもいうように肩をすくめる。

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