四章 第二話
キリクの中にドス黒いもやのような物が大きく膨れ上がったいた。
普段であればシリウスの教え「心を落ち着け、波風を立てず、自分を外から見るように考え、イセリ様をお守りする事のみ考えてお仕えしなさい」を守り、荒立った感情を切り離し、まるで二人のキリクがいるかのようにもう一人の自分を諫めながら生活してきたのだった。
いつもならそれで問題はなかった。荒立った感情より冷静な時の方がほとんどの場合うまく機能してきた。
だがイムニのあの台詞を聞いた瞬間、心の中に言葉が聞こえた気がした。
(あいつを殺す力を貸してやる)キリクは迷うことなくその聞こえたのか浮き上がったのかわからない言葉に従った。
押さえ続けていた感情が爆発するかのようだった。いつもの冷静で落ち着いたキリクは姿を消し、ただ目の前の敵を打ち倒し、上にいるイムニも殺す、それだけを考えていた。
キリクは折れた剣を握ったまま、身を低くしてザキリエフに駆け寄ると、振り下ろされる剣を折れた剣の柄で受け流し、そのまま体を当てて倒れ込むと、折れた剣をザキリエフに叩き込む。剣を掻い潜り叩き込む。拳を避けて叩き込む。蹴りを避けて……
いずれもザキリエフに傷を負わせる事すら出来なかった。ザキリエフ自身もキリクのスピードに完全に着いていくことは出来ないにしても、鎧の隙間など弱い部分を狙われないように動いていた。
キリクはだんだん動きが鈍くなっている事に気がついていた。だが目の前の男を倒すことに集中するあまり、その事実を無視した。倒してから休めばいい。今もっとも大事なのは、こいつと上の男を倒すことだ。
キリクの体が重くなっていく。余裕を持って避けていた攻撃が、体にかするようになり、叩きつけた剣に体重を乗せるのが難しくなっている。
ザキリエフの後ろをとり、また折れた剣を叩きつけようとしたとき、キリクの右膝が悲鳴を上げた。力が抜けるように膝をつき、叩きつけようとした剣が空を切る。
立ち上がろうと足に力を入れ上半身を持ち上げた所に、ザキリエフの拳がヒットする。
派手に吹き飛ぶキリク。力を逃すために自ら飛んだとはいえ、完全に逃がすことが出来ず、堅い手甲で殴られた左側頭部から血が滴り落ちる。
何とか立ち上がろうとしたものの、殴られた頭部と力の入らない手足と相まって、朦朧とした状態でうまく立ち上がることが出来ない。
そこにザキリエフの蹴りが鳩尾にヒットする。
息が詰まり、そのまま崩れ落ちるキリク。
「最後の方は見事だったが、体が着いていかないのでは、な」
面覆いを上げ、キリクを見下ろす。
それでもなお、キリクは四肢に力を入れ、立ち上がろうとする。目はザキリエフを睨みつけているものの、最初に見せた驚異的な身体能力は姿を消していた。
「いいかげんにしろ、勝負はもうついたんだよ!」
ザキリエフが立ち上がりかけたキリクを、いらだったように蹴り飛ばす。
蹴られた勢いで倒れないように足を踏ん張ろうとするのだが、足に力が入らずよろよろと壁に寄りかかり片膝を着く。
(殺す殺す殺す……)
キリクの頭の中で何かが猛り狂うようにわめく。だが、体がついていかない。体に追ったダメージだけではなく、何かが体の力を押さえているように、自由にならない。
「あ〜、イムニ様?勝負はついたと思うんですがね。このまま本当に殺したら、ちょっとまずくはないですか?」
ザキリエフはただ力の強いバカな男ではなかった。ここでキリクを殺すことによって、ムロギア帝から不興を買うのは目に見えている。だが、次代の皇帝にもっとも近いイムニから睨まれるのも面白くない。
「うるさい!なんども繰り返すな!なんとでも言い訳はつく!死んだんじゃなく、逃げたって事にしてもかまわないしな。姫様を置いて逃げたって事にすれば、剣の顔もつぶれるし、姫様もおとなしくなるかもしれんしな」
くくくと、いかにも自分の思いつきが楽しいらしく笑う。
「冗談じゃないわ。キリクがそんなことするわけないでしょ」
突如イムニたちの向かいにある観客席の扉が開かれ、そこからイセリが姿を現す。
「どうやって入ってきた……」
驚いたイムニの顔が困惑と猜疑の色に変化していく。
「扉を開けて入ってきたのよ」
イムニの顔が真っ赤になるのが闘技場の反対側からも見えるようだった。
「おまえは自分の立場がわかっているのか?捕虜の分際でこんな所まで来てどうするつもりだ。何か出来ると思っているのか?」
「キリク!キリク!目を覚ましなさい!」
(キリク、キリク)
キリクのぼんやりとした意識の中に、誰かが呼びかけてくるような気がした。しかし目の前にある驚異の排除の方を優先する意識が割り込む。
(敵を殺せ)
ゆらりと立ち上がり、一歩前に足を進める。
(キリク!返事をして!)
誰かが呼んでいる。ものすごく大事な何か。
(何をしている、敵はまだ生きているぞ)
また一歩足を前に出す。
キリク……キリク……キリ
「キリクこっちを見なさい!いい加減にしないと怒るわよ!!」
「はい!すいませんイセリ様!」
我に返るキリク。何をしていたかわからず闘技場を見回し、観覧席のイセリをもう一度見る。
(なぜイセリ様がここに)
イムニが挑発してきた瞬間までは思い出したのだが、なぜか手に持っていた剣はなくなり、イセリがいる。イムニの挑発を思い出すと、また何かが囁きかけてくる。
(あいつを殺すんだ)
上から見下ろすイセリの目に、キリクの周りに黒いもやが現れるのが見て取れる。キリクの目がイセリではなく、ザキリエフの方へ視線を戻していく。
「しっかりしなさいキリク!これを使いなさい!」
ハッとして頭を振り、意識をしっかりさせると、イセリが投げた細長いものを受け取る。それはいつもキリクが身につけていた、贈り物のあの剣だった。
「とっとと倒してこんな所から出るわよ」
キリクは受け取った剣を鞘から抜き放ち、まじまじと眺める。どうやってここに来たのかはわからなかったが、今ここにイセリがいて、キリクを見ている。それだけで気分が高揚していくのがわかる。
「はい、我が主君」
古い貴族の従者のような気分だった。
「何を勝手に言っている!この小娘が!」
「闘技場の勝者には賞品がつきものだわ。だからここから帰るのよ」
「ほう、それをいうなら調度良い。ザキリエフの賞品はお前だ小娘。かまわんな」
ニヤニヤしている。
「かまわないわ」
顎をつんと上げ、腰に手を当てて挑むように即答するイセリ。
「イセリ様そんな話は」
「キリク。早く終わらせなさい」
「だそうだザキリエフ。お前が勝てば手紙の小娘はお前の自由だ」
「ほぅ〜。それはまたとない言質。お嬢ちゃん、君の従者が死んでも恨まないでおくれよ」
そう言ってイセリにウインクして面覆いを下ろす。
キリクは剣を構え直し、目の前のザキリエフに対峙する。力は向こうの方が上だが敏捷性はこっちが上。しかししっかりした鎧とその力で振り回される巨大な剣は、なかなかの驚異だった。
(自分が死ねば、次はイセリ様が)
その思いが頭をよぎった瞬間に、また(力でねじ伏せるんだ)と言う声が響く。キリクはこの声を押さえ込もうとしたのだが、イセリの身に危害が及ぶ事を想像するだけで、この声を押さえ込む気力が萎えていくのだ。
「キーリークー!!いい加減にしなさい!いつも通り戦いなさい!この私の臣下として」
キリクの頭の中が一気に晴れるように、何かが開くように輝くのを感じる。
(はい、我が主君)
キリクは心の中で答える。
「来ないならこっちから行くぞ」
ザキリエフの大剣が頭上から降ってくる。キリクは何の迷いもなく大剣を横にそらしそのまま踏み込むと、通り過ぎざまにわき腹を掠めるように切る。キリクの手にわずかに抵抗のようなものが感じられたが、ザキリエフの鎧に裂け目が出来たのが見える。
ザキリエフは驚いて体をキリクに正対させつつも、わき腹に出来た裂け目に手で触れる。鎧は切られたものの、中の鎖帷子までは切れていないようだった。
「き、貴様、その剣はなんだ」
「イセリ様を守るために作られた、ダマスクで最高の剣です」
ザキリエフの額に玉のような汗が浮かび、兜とその下に着込んだ鎖帷子とダブレットで蒸れ、額に自慢の髪が張り付いている。
「何をやっている早くぞいつを殺せ!」
間が空いたことに苛立ったのか、イムニが叫ぶ。
(簡単に言ってくれる)
先ほどまでとは状況は全く異なっていた。最初キリクは粗悪な剣を守るために引いて力を抜いて戦っていたのだ。意識が飛んで以降はお構いなしに突っ込んでいたのだが、それでも粗悪な剣が折れ、力が衰えた時初めて容易に対応できる楽な敵になったのだ。
(それがどうだ)
先ほどのザキリエフの手に残る剣の手応え。しっかりと受け止められた上に逸らされ、そして流れるように切られている。最初の数合の打ち合いの時やその後の狂戦士のような時よりも、ずっと速くて正確だった。
すでに狩る側ではなくなっているのだ。
ザキリエフは腰を入れず、大振りせずにリーチで牽制するようにさらに数回剣をあわせる。そのたびにキリクはぎりぎりの所まで踏み込み、切っ先を交わしながらザキリエフの剣の根本近くを強く叩くように切る。
ザキリエフの手が繰り返し打ち込まれる強い衝撃に、少ししびれてくる。
「こ、の!」
イライラしたザキリエフが、切っ先を強く乱暴にキリクの腹部を狙って突いてくる。
そこをキリクが狙いすましたように、上からザキリエフの剣めがけ叩き切るように降り下ろす。
激しい金属音の後、ザキリエフの剣が根本から折れ、乾いた音を立てて地面に落ち、余韻のようにキリクの剣先が高周波音を奏でる。
わずかな沈黙と静寂。
「何をしている!剣が折れたからと言って勝負がついたわけではないぞ!わかっているだろうな!?」
イムニが吠える。
「何言ってるの!キリクの勝ちは明らかだわ!さっさと下がらせなさい!」
イセリが対面の観覧席に向かって叫ぶ。
「貴様こそわかっていないな。勝負は相手の首を取るまで終わらんのだよ」
ひきつったような残忍な笑みを浮かべる。
イセリは闘技場にいる二人を見た。ザキリエフは濃い深い紺色のオーラに怯えるように包まれており、キリクの体からは多種多様な色が混じったオーラが困惑するように明滅している。
キリクの明滅するオーラが赤くなりやがてドス黒く変色していこうとした瞬間、イセリの背後の扉が開かれる。
「そこまでだ、イムニ」
低く威厳のある声が闘技場に響く。イセリが振り返ると、そこにはライオンのたてがみのようにも見える毛がたいまつに照らされて、燃えるような赤毛になっているムロギアその人がいた。完全武装したダストンを従えている。
「どういうつもりだイムニ。私の手の中にある者を連れ出し、あまつさえ帝国の将たるザキリエフをこんな所で犬死にさせようと言うのか、お前は」
たてがみがそのまま逆立ちそうなほどの怒気をはらんだ声音。
「いえ、そんなことは、た、ただ、たるんだ捕虜を叩き直そうとしただけで」
「言い訳はいい。すぐに解放しろ」
「はい……」
叱られて本当に悄げているのか、何もいわずに闘技場の扉の鍵を開けキリクを解放する。
「沙汰があるまで自室での待機を命ずる。ザキリエフ、お前はその鎧を脱いだら、私の部屋に来なさい」
イムニはなにも言わず、振り返りもせずに出口へ向かっていき、ザキリエフはムロギアの部屋に呼ばれた意味を考えると、気が重くて仕方がないようだった。
「けがはない?」
闘技場の出口で、抱きつきたい衝動を抑え、手を取るだけに押さえるイセリ。
キリクは片膝をつき、手に取ったイセリの手を額につける。温もりが頭の中に広がるような気がした。
「なぜあの様な事をおっしゃったのですか……」
イセリの手を見つめたまま目線をあげずに言う。
「あのようなって、なに?」
「なにではありません、ご自分を賭の対象にするようなことを!もし私が負けていたらどうするおつもりですか!」
勢いよく立ち上がり、イセリの肩をつかむ。
「あら、負けないわよ。キリクは」
「しかし……!」
「よく考えなさい。もし、もし仮によ?キリクがここでいなくなったとして、私はどうなると思う?簡単な話よ。あんな奴に指一本だって触れさせるものですか」
「いけません。イセリ様はダマスクのためにも生きてお戻りにならなければならないのです」
「あら、それなら大丈夫よ。私が死んだら、ダマスクの実権はシリウスおじさまの手に渡るようにしっかり手続きしてあるわ」
「そんな事を!」
イセリの肩を掴んだ手に思わず力がこもる。自分の後見人の手の上に自分の命を乗せるようなものだ。
「ちょっと、キリク!痛いわ!それに、ち、近い……」
キリクが鼻が触れんばかりに近づいていた事に気がつき、顔を真っ赤にしてあわてて肩を離す。
「す、すみません」
「ほんとにもう」
イセリの顔も赤い。
「シリウスおじさまが私に何かしようとするわけがないでしょ」
キリクは自分の父がイセリに危害を加える姿を想像してみた。だめだ、かわいがって頬ずりする姿は想像できても、自分の私利私欲のためにイセリを排除する姿が想像できない。そもそもイセリが可愛くて仕方がない父にとって、ダマスクの国主より、イセリの後見人としての地位の方が大事な気がした。
「今回の事は申し訳ないことをしたな」
指示を出していたムロギアが二人の所に戻ってくる。
「本当よ!捕虜に対する協定に違反しているわ!」
キリクは自分の行った授業内容を、イセリが把握していた事に少なからぬ満足感を覚えた。
「その事に対しては弁解の余地はないが、私自身の命令で起こったことでは無いことに十分考慮してもらいたい。それに」
アピールするように、両手を広げ二人を示す。
「キリク君を救出したのも私だという事も忘れてもらいたくはない」
「それはもちろんです、ムロギア皇帝陛下」
キリクがイセリの前に出て、手に持った剣を恭しく前に出す。その剣を受け取ろうと前に出たダストンを、ムロギアが手で制止する。
「それはいったん預けておこう。おぬしとおぬしの主人を守るときにのみ使うことを許可する」
キリクは戸惑いながら手に持った剣を下げ、腰に下げる。
「ではこの不快なところを出るとしよう」
ムロギアを先頭にダストンがそれに続く。キリクとイセリは、兵に前後を挟まれる形で続いた。
「元々キリクの物が持ち主の所に戻っただけじゃない。それを恩着せがましいこと」
イセリはムロギアの悪びれない態度が不満のようだ。
「しかし捕虜の待遇で帯剣を許可されたのは、非常に希なことです。ある意味信頼の証でもあるかもしれません」
「キリクは人を信用しすぎるわ」
イセリの目にはムロギアから噴き上がる炎のような赤い色がまぶしく見え、なぜかその中に濃い青色が深い悲しみのように混じっているのが見えた。
「よろしいので?」
居室に戻る道すがら、ダストンがムロギアにむかって聞く。
「不満か?」
「いえ、その様なことは。ただ、危険ではないかと」
「キリク君はよく考えて行動するよ。自分の行動でもっとも被害が及ぶのは誰かとな。あのまま剣を貸与という形で持たせ続けるのもおもしろいかもしれん」
「と、いいますと?」
ダストンが訝るようにムロギアの方をみる。
「この世界に名のある剣は数有るが、あの小僧の剣はそれらと比べても切れ味、強靱さ、バランス、どれをとっても抜きんでている」
ダストンはキリクの剣を手にしたときの事を思い出す。確かにこれまでに培われてきたあまたの技術や知識、そして刀匠の力がすべて叩き込まれているような代物だった。素材一つとってみても、昔の剣より遙かに良い物が使われている。
いくら過去に名があっても今この瞬間に作られた物の方が、性能としては上なのだろう。
「しかし、それはムロギア様の手の内にあっても同じ事なのではありませんか?」
「名のある剣は、使い手によって名のある剣になるのだ。壁に飾っておくだけでは、ただのダマスク産の良い剣で終わる」
ダストンはそれが自分ではない事に一抹の寂しさを感じ、ムロギアがキリクの中に見ている物に奇妙な共感を覚えるのだった。




