三章 第二話
お風呂の後、イセリとキリクは清潔な衣服と食事を与えられ、そのまま夜は何事もなく次の日を迎えた。
「おはようございます、イセリ様」
キリクの部屋からさらに階段を上がり、突き当たりの扉をノックする。昨日の今日で少し恥ずかしさが残っていたものの、左手に持ったトレイを落とさないように親指の付け根をマッサージし、気を落ち着かせつつイセリの返事を待って部屋に入る。
「昨日はよく寝られましたか?」
ベッドのサイドテーブルに載っている、昨日の晩に置いた水差しとコップを、トレイに乗せて持ってきた新しい水差しとコップに入れ替える。
巨大なキングサイズの天蓋付きベッドに、ふわふわの大きな羽毛の布団。その布団の中から埋もれるような声が聞こえてくる。
「うぅ、ん」
ダマスクにいたときも寝起きは良くなかったが、やはりいろいろあって寝付けなかったのか、声がよりいっそうけだるそうだった。
「朝食の準備が出来たそうですが、食べられそうですか?」
結局昨日の夕食は食欲が戻らず、そのまま食べずに寝たため、お腹が空いていたのか、寝起きにも関わらずすぐに「食べる」とのことだった。
「では準備しますね」
そのままイセリの部屋に運び込もうとする使用人を押しとどめ、一旦キリクの部屋のテーブルに運び込んでもらう。イセリが嫌がったのもあるのだが、念のため少し手を付けて料理の確認をしておくためだった。
帝国風の豆の煮た物や魚の塩漬けなどを想像していたのだが、予想に反し出てきた物はスライスされた柔らかいパンに、新鮮な野菜のサラダと半熟のゆで卵、暖かい鶏のスープだった。
どれも帝国で普通にに食べようとした場合、高級な部類に入る物ばかりであった。
一応は賓客待遇なんだな、そう思いつつ冷めないうちにイセリの部屋に食事を運び込むと、丁度着替えを終えたイセリが衝立の奥から出てくる所だった。
「少し落ち着かない服ね」
そう表現したのは、イセリの着替えようにと用意された帝国風の衣装だった。
教会圏の衣装も用意できると言われたものの、普段から教会の宮廷衣装などには興味がなく、シンプルな衣装を好むイセリは、絹で出来た帝国風の動きやすそうな衣装を選んだのだ。
「軽くて良いけど、部屋着にしたって少し薄い気がする」
軽い部分が特に心許ないらしい。
「服のことは後で確認してみますので、まずは朝食をとりましょう」
少し遅い朝食の後、今後予想される要求や、こちらがとれる行動などの話し合いをしてみたものの、お昼までに出した結論は、ムロギア帝の要求が何か分からない限り、何も分からないと言う、何も進展していないというものであった。
「目隠しをされて袋の口を縛られているようなものだわ」
とりあえず使用人に許されている要求の一つとして、帝国の歴史などが載っている本や、午後のお茶の準備などを頼み、持て余した時間をただ過ごすしかなかった。
「失礼します」
キリクとイセリに付けられた使用人、ニタが返事をまってから入ってきた。
昨日の湯浴みを頼んだ後に聞いたのだが、結局彼は奴隷ではなく、南方のそこそこ裕福な商人の家の三男だと言うことだった。家は長男が継いだため、どうしようか迷っていたところを、南方の言葉だけではなく帝国語や教会圏の言葉、東方の言葉などもしゃべれるため、便利さを買われムロギア帝に仕えているという事だった。
「面会を願う方がお見えです」
キリクは捕らわれの身で断ることが可能なのか試してみようかと思ったものの、相手の思惑の確認の為もあるし、そもそも断る理由すら持ってはいなかったので、声に出した言葉は「下にお通ししてください。私が会いします」という事務的であり、イセリに合うためには自分を通す、そういった物を含めた言葉であった。
「どのような方ですか?」
下に降りる階段で、ニタに話しかけると、ニタは少し困ったような顔で足を止めて振り返り、口を開いた。
「とても良い方なのでご心配には及ばないのですが、対応にはお気をつけください」
そう言って入り口の前に行き扉を開くと、外で待っていた面会者に「お会いになるそうです」と中に招き入れた。
「初めましてイセリ様。私はアリハルと申し……おや?」
中に入って来た面会者は、大仰に両手を広げながら口上を述べようとしたものの、聴衆が男だけなのに気がついたのか、きょろきょろと周りを見渡した後、キリクの顔をまじまじと見つめる。
歳の頃はキリクと同じぐらいで、背は少しキリクより高いのだが、少し細目の体から華奢な印象を受ける。着ている物は派手ではないが使われている布地や、縁取られている金糸銀糸などから、高価なものであることが伺えた。
「え〜と、キリク殿、ですね。イセリ様に面会願いたいのだが」
「イセリ様はおられますが、まずはどう言ったご用件でしょうか、アリハル・ド・ムロギア様」
そう答えた瞬間ぎょっとした表情を浮かべたが、すぐに思い直して思案顔になる。
「ふむ。ニタですね。驚かせたいから黙っているように言ったのに、あのお喋りさん――」
「いえ、胸に紋章が入っていたので」
言われて自分の服をひっぱり紋章を眺めるアリハル。自分の着ていた豪奢な服。その服の胸にくっきりと金色の竜の紋章が入っている。そんな物が付けられるのはムロギアと血のつながりがある者だけだった。
しばらく自分の胸の紋章を眺めていたアリハルだったが、そのままの姿勢で上目遣いにキリクの方を見ると「イセリ様に面会願えるかな」とばつが悪そうに言う。
キリクはニタの言うとおり確かに悪い人間ではないなと思い、対応に気を付けろと言う言葉の意味も理解するのだった。
「こちらへ」
キリクが先に立ちイセリに面会を告げると、中に入りアリハルを通す。あえてアリハル・ド・ムロギアとは告げず、単にアリハル様ですと紹介すると、アリハルはうれしそうな顔をキリクに向ける。
「初めましてイセリ様、私はアリハルと申します。この度はイセリ様の身の回りの手配などをさせていただくことになりました。何なりとお申し付けください」
キリクに向けた時と全く同じポーズ同じせりふ(途中までだったが)をイセリに向かって言う。
「私の監視役という事かしら、アリハル・ド・ムロギア様?」
アリハルが服を引っ張って紋章をのぞき込み、その姿勢のまま、またばつが悪そうにキリクの方を見る。
「はぁ。イセリ様にお会いできると聞いて、一番良い服を用意させたのが間違いでした。はい、私はムロギア帝の三人目の息子、アリハルと言います」
そういいながらさわやかな笑顔をイセリに向ける。
「間違いがあるとすれば、監視役という部分ですね。私は単純に父から御用聞きをしてこいと言われただけでしたので」
「御用聞きですか?」
キリクが聞き返しながらテーブルの椅子を引き、着席を促す。
「はい、こちらで暮らしていただくに当たり、不自由な思いをさせないようにとの事で、私に出来ることでしたら何なりと。出来そうにないことでも、父に頼めそうなものなら話を通すことぐらいなら出来ますし」
「じゃぁすぐに私たちをダマスクに帰して」
「……あぁ、それはまた今度の課題として、今は、ここでいかに快適に暮らすかに絞って希望してもらえると助かります」
頭をかきながら申し訳なさそうに言う。
「快適、ね」
頬杖を付きながら、窓の方を見るイセリ。
「ムロギア帝からの要求はないのですか?」
イセリの前に紅茶の入ったカップを置きながらキリクが聞く。
「父からは……」
昨日の夜遅く、アリハルは唐突に父から言われた言葉を思い出す。
「イセリ姫は知っているか?」
「話には。幸運を呼ぶ姫、手紙姫とか」
「今その手紙姫がここにいる。おまえはその世話をするのだ」
その後に来た経緯などを聞き納得はしたものの、今後どうするかは教えてもらえなかったのだった。
「父からはイセリ様を今後どうするといった話は聞いておりません。なので今は不自由なく楽しんでいただけるよう私がお世話させていただきますので、よろしくお願いします」と言って、イセリに屈託のない笑顔を向ける。
「手紙を書くことは可能なのかしら?」
イセリが顔は窓に向けながら、目線だけをアリハルに向けて問う。
「あぁ……当然ながら、内容と相手によるとしか申し上げられません」
少し申し訳なさそうに肩をすくめるアリハル。
「そう。なら今は取り立てて頼むようなものも無さそうだわ」
言われてあからさまにがっかりしたように肩を落とすアリハル。
「そうですか、もし何か――」
「そうね、夕食が」
イセリが少し思いついたようにはなし始める。
「はい!夕食ですね!?」
イセリが言いかけたとたん、机に手を突いて勢いよく立ち上がり、前のめりになる。
「今日の夕食を、帝国風の料理にしてもらいたいの。宮廷料理なんかじゃなくて、こうなんていうか、ここに来る時に街中で見かけたような、屋台で作っているようなもの。そういったものが食べてみたいわ」
「わかりました!必ずご期待に添えるようなものをごちそうしましょう!楽しみに待っていてください!」
そう言うとさっと椅子から立ち上がり、部屋から出ていく寸前でイセリたちの方へ振り返る。
「もし何か用がありましたら、ニタに言いつけください。いつでもすぐに伺いますので」と、イセリに手をふりながら出ていく。
アリハルが出ていった後、キリクはイセリに紅茶のおかわりを注ぎ、自分には少し甘めの珈琲を入れて、アリハルが座っていた椅子に腰掛けて、飲む。
こうしていると、いつもと変わらずにダマスクで午後の一時を過ごしているような気分だった。
「何も聞かないの?」
頬杖を付き、窓の外を眺めながらキリクに向かって言う。
「もし今危険が迫っているのであれば、私からお聞きする事があるかもしれません。ですが、そう、イセリ様が必要だと思うその時でかまいません」
そういって笑顔を向けるキリクに、イセリの顔も自然とほころぶのだった。
(イセリ様の笑顔を見るのがとても久しぶりな気がするなぁ)
そんな思いもあってぼーっとイセリの顔を見つめてしまうキリク。すると、見つめられていることに気がついたのか、少し視線を逸らし、顔を赤くするイセリ。
その瞬間キリクは我に返り、立ち上がると「お湯をもらってきます」と、飛び出すように部屋から出ていく。
何も包み隠さずにぼーっと思ってしまっていたのだ。
(かわいいなぁ)と……