尾行
廃病院での死闘から、さらに数日が経過した。
こよりはまだ復帰できず、街のパトロールは引き続き俺と蓮司の二人で行っている。
「……三上、右の路地だ。微かだが、界傷の反応がある」
深夜の商店街。蓮司が手帳のページから顔を上げ、細い路地の奥を指差した。
俺も眼を凝らす。確かに、シャッターの閉まったアーケードの隙間に、黒いひび割れのようなものが浮かび上がっていた。
だが、廃病院で見たような異常な大きさじゃない。初期の頃に祓った、猿の幽禍と同じくらいの小規模なものだ。
「よし、行くぞ」
俺は阿伽の風を足元に集め、蓮司とともに路地裏へ駆け込んだ。
しかし——。
「……遅かったか」
路地裏の行き止まり。
そこには、黒い灰の山が崩れ落ちていた。
その前に立っていたのは、見覚えのある黒い長コートの背中。御堂 朔だ。
廃病院で負っていた怪我はまだ完全に治っていないようだが、この程度の小規模な幽禍なら、単独でもあっさりと処理できるらしい。
「またお前か」
俺が声をかけると、御堂は振り返りもせずに青白い札をかざした。
シュゥゥゥ……と、幽禍の残滓が札へと吸い込まれていく。
またしても、横取りだ。
「……三枝の連中か。相変わらず足が遅いな」
御堂は札をポケットに収め、ようやくこちらを向いた。
「この程度の幽禍なら、俺一人で十分だ。お前たちは大人しく神社で巫女の看病でもしていろ」
「お前……いい加減にしろよ。この街の幽禍を全部お前が独占するつもりか?」
「『独占』? 人聞きの悪いことを言う。俺はただ、俺の目的のためにこいつらを使役するだけだ。お前たちのように『祓って終わり』の無駄な真似はしない」
御堂はそう言い捨てると、影から玄武を微かに展開させ、俺たちを牽制しながら路地の奥へと歩き出した。
「待て!」
俺が追おうとすると、蓮司が肩を掴んで止めた。
「よせ、三上。今の俺たちじゃ、あいつの玄武を破れないだろう。ここで争っても無駄だ」
「でも……!」
「あいつの言葉を思い出せ。『本当の敵が誰なのか、まだ掴んでいない』。あいつも、何かを探しているはずだ」
蓮司の言葉に、俺はハッとした。
そうだ。あいつは幽禍を集めているだけじゃない。界傷を意図的に広げている「本当の敵」を探している。
なら、ここで戦うより、もっと有効な手がある。
「……蓮司、無畏の準備だけしておいてくれ」
「三上?」
俺は深く息を吸い込み、影の中に呼びかけた。
「空劫。阿伽」
——御意。
——是。
短い応答とともに、俺の身体の輪郭が世界から薄れ、同時に足元から浮遊感が込み上げてくる。
空劫の「姿を消す能力」と、阿伽の「飛翔能力」の併用。
一般人の目を欺くために使ってきたこの移動手段を、今度は祓い人相手の尾行に使う。
「三上、一人で行く気か。危険だ」
姿の消えた俺に向かって、蓮司が小声で言う。
「あいつの拠点を突き止めるだけだ。手は出さない。何かあったら、すぐに戻る」
蓮司は少し迷ったようだったが、やがて短く頷いた。
「わかった。無理はするなよ。……俺はここで、周辺の界傷の痕跡を調べておく」
俺は足音を殺し、空中に浮き上がった。
御堂の背中は、まだ路地の先に見えている。俺は阿伽の風を微調整し、気配を完全に消したまま、上空から黒いコートの男を追い始めた。
*
御堂の足取りは、警戒心が強かった。
何度も後ろを振り返り、時には不自然に路地を曲がって尾行を撒こうとする。だが、上空から姿を消して追っている俺には、そのフェイントも意味を成さない。
深夜の街を三十分ほど歩き回り、やがて御堂が立ち止まったのは、街の外れにある古い雑居ビルの前だった。
一階はシャッターの閉まった寂れたスナック。その横にある、錆びついた鉄階段を御堂が上っていく。
三階の突き当たり。ペンキの剥がれた鉄扉の前で、御堂は周囲を見回し、ポケットから鍵を取り出した。
ガチャリ、と重い音がして、扉が開く。
御堂が中に入り、扉が閉まる直前。
俺は阿伽の風を急加速させ、音もなくその隙間に滑り込んだ。
「……」
中は、驚くほど殺風景だった。
生活感がない。ベッドと机、パイプ椅子が一つあるだけで、壁には無数の青白い札がびっしりと貼られている。
部屋の奥には、小さな祭壇のようなものが組まれており、そこには黒い箱が置かれていた。
御堂はコートを脱ぎ、パイプ椅子にどさりと腰を下ろした。
そして、ポケットから先ほど吸印した札を取り出し、机の上に置く。
「……これで、三十七体目か」
御堂が独り言のように呟く。
三十七体。俺たちがこの街で祓ってきた幽禍の数を、はるかに超えている。あいつは俺たちの知らないところで、それだけの数の幽禍を独力で処理し、使役のために集めてきたのだ。
「『本当の敵』……か」
御堂が、机の上に広げられた一枚の紙を見つめる。
俺は天井付近に浮かんだまま、その紙を覗き込んだ。
それは、この街の地図だった。蓮司が手帳に描いていたものと同じように、赤い点がいくつも打たれている。
だが、蓮司の地図と違うのは、その点と点を結ぶ線の形だ。
蓮司の地図では、点は「円」を描いていた。
しかし、御堂の地図には、その円のさらに外側に、より巨大な「五芒星」のような図形が描かれている。
「……奴らは、この街全体を『器』にするつもりだ。廃病院の複合幽禍すら、ただの囮に過ぎなかった」
御堂の言葉に、俺は息を呑んだ。
廃病院のあの巨大な泥の塊が、ただの囮?
なら、本当の目的は何だ。この街全体を器にして、一体何を呼び出そうとしているんだ。
「三枝の連中が、どこまで気づいているか……」
御堂が机に突っ伏すようにして、目を閉じる。
疲労が極限に達しているのが、天井から見下ろしていてもわかった。
俺は音を立てないように、少しずつ扉の方へ後退した。
これ以上の尾行は危険だ。拠点も突き止めたし、地図の情報も得た。一度神社に戻り、蓮司と九衛門に報告しなければならない。
扉の隙間から外へ出ようとした、その瞬間だった。
「——誰だ」
御堂が弾かれたように顔を上げ、俺のいる空間を睨みつけた。
空劫で姿は消えているはずだ。だが、あいつの眼は、確かに俺の存在を捉えているように見えた。
「『玄武』!」
御堂の影から、半透明の盾が猛スピードで射出される。
俺は反射的に界喰を抜き、盾を弾き飛ばそうとした。
ガキンッ!
金属音が部屋に響き渡る。
その衝撃で、俺の空劫が解け、姿が空間に浮かび上がってしまった。
「……三上 晃。なぜお前がここにいる」
御堂が立ち上がり、青白い札を構える。
その目は、完全に敵を射抜く冷たい光を放っていた。
「尾行させてもらった。お前が一人で何を抱え込んでるのか、知りたくてな」
俺は界喰を構えたまま、扉を背にして着地した。
狭い部屋の中。逃げ場はない。
「……馬鹿な奴だ。知りすぎれば、命を落とすぞ」
御堂の札が、青白い炎を纏い始める。
こより不在のまま、俺は単独で、御堂の系統との直接対決に引きずり込まれようとしていた。
「命を落とす? それはこっちのセリフだ」
俺は界喰の柄を強く握りしめた。
狭い室内。阿伽の機動力を活かすスペースはない。だが、相手も同じだ。この距離なら、玄武を展開する前に懐に飛び込める。
「お前がこの街の幽禍を三十七体も集めてる理由はなんだ。あの地図の『五芒星』は何だ。本当の敵って誰のことだ。全部吐け」
「……お前に答える義理はない」
御堂が青白い札を指先で弾く。
シュッ、という鋭い風切り音とともに、札が俺の顔面めがけて飛んできた。
俺は界喰でそれを叩き落とす。札は床に落ちた瞬間、青い炎を上げて燃え尽きた。
「『縛』」
御堂の短い詠唱。
燃え尽きたはずの札の灰が、意思を持ったように空中に舞い上がり、俺の手足に絡みつこうとする。
これが、奴の「使役」の力か。祓うのではなく、取り込んだ幽禍の残滓を己の術式に組み込んでいる。
「阿伽!」
俺は足元に風を巻き起こし、灰の拘束を吹き飛ばした。
そのまま一気に距離を詰め、界喰の切っ先を御堂の喉元に突きつける。
「……随分と物騒な挨拶だな」
御堂は喉元に刃を突きつけられながらも、全く動じていなかった。
むしろ、その口元には微かな嘲笑すら浮かんでいる。
「お前のその刀——『界喰』と言ったか。境を喰い、理屈を喰う。確かに強力な刀だ。だが、お前はまだ、その刃の『本当の使い方』を知らない」
「知った口を利くな」
「事実だ。お前はただ、目の前の障害を『切る』ためだけにその力を使っている。だから、俺の玄武を破れない」
御堂の言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。
廃病院での共闘の時もそうだった。俺の界喰は、複合幽禍の「繋がり」を喰うことはできたが、御堂の玄武を正面から破ることはできなかった。
「俺とお前は、敵じゃないと言ったはずだ」
御堂が、喉元の界喰を指先でそっと押し退ける。
俺は刃を引かなかったが、不思議と殺気は感じなかった。
「なら、なぜ隠す。なぜ俺たちを遠ざける」
「お前たちが弱すぎるからだ」
御堂の目が、冷たく俺を射抜く。
「三枝の巫女が倒れ、お前たちは二人で右往左往している。そんな状態で、あの『五芒星』を仕組んだ連中と戦えると思うか? 奴らは、俺たちのような末端の祓い人とは次元が違う。この街そのものを生贄にして、異界の扉を完全に開こうとしているんだぞ」
「異界の扉……」
九衛門が言っていた「界傷をこじ開けようとしている」という推測は当たっていた。
だが、規模が違う。街全体を生贄にする? そんなことが可能なのか。
「俺が幽禍を集めているのは、奴らの計画を阻止するための『対抗策』だ。俺一人の力では、到底奴らには届かない。だから、この街の幽禍を使役し、軍隊を作る必要がある」
御堂が机の上の地図に視線を落とす。
「三上 晃。お前が本当にこの街を、そして三枝の巫女を守りたいなら——俺の邪魔をするな。俺は俺のやり方で、奴らを止める」
「……お前のやり方で、誰も傷つかない保証があるのか?」
俺の問いに、御堂は答えなかった。
ただ、静かに目を伏せるだけだった。
「……帰れ。次に俺の前に現れる時は、その刃の『本当の使い方』を見つけてからにしろ」
御堂はそれ以上何も言わず、机の上の札を片付け始めた。
これ以上の問答は無意味だ。俺は界喰を鞘に収め、部屋の扉に手をかけた。
「一つだけ、教えてやる」
背を向けた俺に、御堂の声が届く。
「あの『五芒星』の中心は、三枝神社だ。奴らの本当の狙いは、最初からそこにある」
俺は息を呑み、振り返ることなく扉を開けた。
錆びついた鉄階段を駆け下りながら、俺の心臓は早鐘のように打っていた。
三枝神社が狙われている。こよりがいる、あの場所が。
俺は夜の街を、全力で走り出した。
空劫も阿伽も使わず、ただひたすらにアスファルトを蹴って。
この街の裏側で進行している計画の全貌が、少しずつ、だが確実にその輪郭を現し始めていた。




