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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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17/18

廃病院の幽禍

数日後。

 こよりはまだ神社の奥で静養を続けていた。韋天(いてん)の過剰使用による疲労と、幽禍(ゆうか)から受けた傷の回復には、もう少し時間が必要らしい。傷自体は蓮司が治したのだが、ダメージは残っている。

 そのため、街の異変調査は俺と蓮司の二人で行うことになった。


「……ここもか」


 夕暮れの住宅街。蓮司が手帳に何かを書き込みながら、電柱の足元を指差した。

 そこには、カラスの死骸が転がっていた。外傷はない。ただ、命だけがすっぽりと抜け落ちたように、不自然なほど綺麗に死んでいる。


「これで五件目だ。野良猫が三匹、カラスが二羽。いずれも外傷なし。そして、すべてこの『円』のライン上に位置している」


 蓮司が手帳を俺に見せる。

 そこに描かれていたのは、この街の地図だった。動物の不審死が起きた場所に赤い点が打たれており、それらを線で結ぶと、街全体を囲むような巨大な円が浮かび上がってくる。


「この円の中心は……」

「廃病院だ。十年前から放置されている、街で一番大きな廃墟」


 俺は眉をひそめた。

 動物の命を吸い上げて、街全体を囲むような巨大な陣を作っている。明らかに自然発生の幽禍の仕業じゃない。


「あの黒コート……御堂の系統がやってるってことか」

「可能性は高い。奴らは幽禍を『利用する』と言っていた。これだけ大規模な界傷(かいしょう)を意図的にこじ開けようとしているなら、目的は相当に強大な幽禍(ゆうか)の使役だろう」


 蓮司が手帳を閉じ、六角棒を覆うケースの紐を締め直した。


「急ごう。円が完成する前に、中心を叩く」


 俺たちは廃病院へと向かう。いつもなら三人で移動しているのに、今日は俺と蓮司の二人だけだ。その事実が、じわじわと胸に重くのしかかってくる。


 *


 廃病院は、街の外れの小高い丘の上にあった。

 コンクリートの壁は黒ずみ、窓ガラスはことごとく割れている。病院の敷地に踏み入った瞬間、俺は強烈な吐き気に襲われた。


「なんだ、これ……」


 空気が重い。まるで水の中に沈んでいるような圧迫感。

 俺の眼には、廃病院の建物を覆い尽くすほどの巨大な『黒いひび』——界傷(かいしょう)が見えていた。これまで見てきた界傷とは桁が違う。まるで建物そのものが、異界と現実の境界線の上に乗っかっているみたいだ。


「記録上、最悪の数値だ。三上、気をつけろ。中にいるのは、ただの幽禍じゃない」


 蓮司が無畏(むい)を発動させ、微かな光を纏いながら先頭を歩く。

 正面玄関のガラス扉を越え、ロビーに入った瞬間だった。


「——遅かったな」


 暗闇の中から、冷たい声が響いた。

 声の主は、黒い長コートに白いマフラーの男。塾でこよりの吸印を横取りした、あの御堂の祓い人だった。

 だが、様子がおかしい。

 男のコートはところどころが引き裂かれ、マフラーにはべっとりと血が染み込んでいた。あの時見せた余裕は完全に消え失せ、荒い息を吐きながら壁に寄りかかっている。右腕を庇うように左手で押さえており、指の隙間から血が滲んでいた。


「お前……その怪我は」

「……見損なったぞ、三枝の連中。俺がわざわざ『界傷が広がり始めている』と教えてやったのに、来るのが遅すぎる」


 男が吐き捨てるように言う。


「教えてやっただと? ふざけるな、お前が界傷(かいしょう)を広げてたんじゃないのか!」

「俺が? 馬鹿を言え。俺の目的は、こいつを『使役』することだ。だが……」


 男が視線を向けた先。

 ロビーの奥、かつて受付だった場所の空間が、ぐにゃりと歪んでいた。


「……成長しすぎた。複数の界傷(かいしょう)を繋ぎ合わせ、無数の感情を喰らった複合体。もはや、俺一人の『玄武』では抑えきれん」


 ズズン、と。

 建物全体が震えた。

 歪んだ空間から這い出してきたのは、これまで俺が見てきたどの幽禍とも違う、巨大な異形だった。

 形がない。無数の腕、無数の眼、無数の口が、泥のような黒い塊の中で絶えず蠢いている。動物の死骸から吸い上げた命と、街中から集めた負の感情が、完全に融合して一つの怪物と化していた。その体積は、ロビー全体を埋め尽くすほどだ。


 俺はこれまで幽禍(ゆうか)を何体か祓ってきた。猿の怪物、鑑定士の怪異、写真の中の糸、鳥頭の巨人。どれも強敵だったが、それぞれに「核」があり、「理屈」があった。

 だが、目の前のこいつには、それがない。ただ喰い、ただ膨張し、ただ暴れる。それだけの存在だ。


「本当の敵は別にいる。この界傷(かいしょう)を仕組んだ奴がな」


 男が壁から背中を離し、青白い札を構えた。


「だが、今はこいつをどうにかするのが先だ。……おい、そこの二人」

「三上と蓮司だ」

「俺は御堂みどう さく。……不本意だが、手を組むぞ。お前たちの力が必要だ」


 御堂が俺たちを睨みつける。

 塾での一件がある。こよりを傷つけ、横取りしたこいつを信用できるはずがない。

 だが、目の前の巨大な泥の塊は、俺たちが迷っている間にも確実に膨張を続けている。


「……終わったら、一発殴らせろ」

「生きていればな」


 俺は界喰(かいばみ)を抜き、蓮司は六角棒を構えた。

 こより不在のまま、かつてない強敵との、最悪の共闘が始まった。


 *


「ガァァァァァァァァァッ!」


 複合幽禍が咆哮を上げる。

 それだけで、ロビーの窓ガラスが粉々に砕け散った。

 無数の腕が鞭のようにしなり、俺たちに向かって襲いかかってくる。


「『きょ』!」


 御堂が叫ぶと同時に、彼の影から半透明の巨大な盾——封使(ふうし)『玄武』が展開された。

 鞭のような腕が玄武に直撃し、凄まじい衝撃音が響く。塾でこよりの攻撃をあっさりと弾き返した玄武だが、今回は違った。

 盾の表面に亀裂が走る。


「くっ……! 重すぎる……!」


 御堂が顔を歪める。攻撃を反射する性質を持つ玄武ですら、その質量を完全に弾き返すことはできないらしい。


「蓮司!」

「わかっている!」


 俺が阿伽(あか)で宙に舞い上がるのと同時に、蓮司が六角棒で床を叩き割った。

 瓦礫が舞い上がり、幽禍の視界を遮る。その隙を突き、俺は天井付近から急降下して界喰を振り下ろした。


 刃が幽禍の表面に触れた瞬間、ぞわりと悪寒が走った。

 こいつは、何かを喰わせようとしても、すぐに別の部分が再生してしまう。一つの感情を断ち切っても、別の感情が補填される。複合体というのは、そういうことだ。


「何を喰わせる……!」


 こいつは複合体だ。「模範解答」のような明確な理屈がない。

 ただ無差別に感情と命を貪るだけの、混沌の塊。


「——三上! あいつの『目』だ!」


 下から蓮司が叫んだ。


「あいつは、自分に向けられた敵意に反応して攻撃の軌道を変えている! 『見られている』という理屈を喰え!」


 俺は界喰(かいばみ)の切っ先を、泥の塊の表面に浮かび上がった巨大な眼球に向けた。


「見んじゃねえよ!」


 界喰が眼球を貫く。

 視界という理屈を喰われた幽禍が、一瞬だけ動きを止めた。


「今だ、御堂!」

「命令するな!」


 御堂が青白い札を三枚同時に投げ放つ。

 札が幽禍の身体に突き刺さり、青白い炎となって燃え上がった。


「『ばく』!」


 玄武の盾が形を変え、幽禍を囲む巨大な檻となって展開される。

 だが、幽禍は檻の中で激しく暴れ回り、今にも結界を突き破りそうだった。


「だめだ、抑えきれん……!」


 御堂の声に、珍しく焦りが滲んでいた。


「……お前のその刀は、何を喰うんだ」


 幽禍の腕が玄武の檻を叩き続ける轟音の中、御堂が問いかけてきた。


「境を喰う。名を喰う。理屈を喰う」

「理屈か……」


 御堂が何かを考えるように目を細める。


「こいつは、複数の界傷を繋いで生まれた複合体だ。本来なら別々に存在すべき幽禍が、一つに融合している。つまり、こいつの根幹にある理屈は——」

「『繋がっている』こと、か」


 俺は界喰(かいばみ)を握り直した。

 そうだ。こいつは「一つである」という理屈の上に成り立っている。複数の感情、複数の命、複数の界傷が「一つの怪物である」という理屈を信じているから、再生できる。補填できる。


「蓮司、無畏(むい)を俺に!」


 俺は着地と同時に叫んだ。

 蓮司が六角棒を俺の背中に当てる。無畏(むい)の力が流れ込み、体力が一時的に底上げされる。


「もう一撃、深く喰わせる! 御堂、結界を開けろ!」

「正気か! 開けたらお前ごと……!」

「いいから開けろ!」


 俺は阿伽(あか)の風を足元に集中させ、爆発的な加速で幽禍の懐へ飛び込んだ。

 御堂が舌打ちをして結界の一部を解く。

 俺は界喰(かいばみ)の柄を両手で握りしめ、幽禍の核——無数の感情が渦巻く中心へと刃を突き立てた。


「お前らが『一つ』だって理屈、喰ってやる!」


 界喰が、複合体の「繋がり」そのものを噛み砕く。

 轟音とともに、泥の塊が内部から崩壊を始めた。

 複数の感情が分断され、複数の命が切り離され、「一つの怪物」という理屈が根本から崩れていく。


 俺は衝撃で後方に吹き飛ばされ、床を転がった。


「……やった、か」


 全身の骨が軋む。無畏の底上げがあっても、限界を超えた一撃だった。

 蓮司が駆け寄り、再び無畏(むい)をかけようとするが、彼の顔も青ざめていた。回復能力の使いすぎだ。


「……お前が言った通りだったな。『繋がり』を喰うとは、なかなか面白い使い方だ」


 御堂が、珍しく感情のこもった声で言った。


「褒めるな、気持ち悪い」


 俺は床に手をついて立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


 ロビーの中央では、巨大な幽禍が黒い灰となって崩れ落ちていく。

 その莫大な残滓。

 俺は立ち上がろうとしたが、足が動かない。


「——助かった」


 冷たい声。

 見上げると、御堂が青白い札を手に、残滓の前に立っていた。


「おい……待て」


 俺の声は、かすれていた。


「言ったはずだ。俺の目的はこいつを使役することだと」


 御堂が札をかざす。

 シュゥゥゥ……と、莫大な量の黒い灰が、青白い札へと吸い込まれていく。

 あれだけ苦労して、命懸けで倒した幽禍の力が、またしてもこいつの手に渡っていく。


「ふざけんな……! 一緒に戦っただろうが!」


 俺が声を絞り出すが、御堂は振り返らなかった。


「戦ったからこそだ。お前たちの甘さがよくわかった」


 御堂は札をコートのポケットに収め、足元の玄武を影に戻した。


界傷(かいしょう)を仕組んだ『本当の敵』が誰なのか、俺もまだ掴んでいない。だが、この街の異変はこれで終わりじゃない。……次は、邪魔をするなよ」


「待て! 本当の敵って何だ! お前は何を知ってる!」


 俺は床を蹴って立ち上がろうとした。だが、膝が笑っていて、まともに力が入らない。蓮司が肩を支えてくれなければ、その場に倒れていた。


「……今のお前たちに、話しても意味がない」


 御堂がようやく振り返った。

 その目は、俺たちを見下しているわけじゃなかった。どちらかといえば——諦めに近い、冷たい光をしていた。


「三枝の巫女が復帰したら、また会う機会もあるだろう。その時に、お前たちが今より強くなっていれば、話してやる」


 御堂はそう言い残し、夜の廃病院から姿を消した。

 追いかける体力は、俺にも蓮司にも残っていなかった。


「……また、持っていかれたな」


 蓮司が六角棒を杖代わりにして、悔しそうに呟く。


「ああ」


 俺は床に仰向けに倒れ込み、割れた天井から覗く月を見上げた。

 こよりの仇を討つどころか、利用された挙句に横取りされた。二度目だ。

 しかも今回は、あいつに「今より強くなれ」と言われた。それが一番腹立たしかった。


「三上」


 蓮司が静かに言った。


「あいつは、俺たちを試している。そして、三枝さんが戻るのを待っている。それだけは確かだ」

「……わかってる」


 わかってる。でも、それが余計に悔しい。


 俺は界喰を鞘に収め、ゆっくりと立ち上がった。

 廃病院の割れた窓から、夜風が吹き込んでくる。

 この街の裏側で、何かが着実に進行していた。御堂の言う「本当の敵」が誰なのか、俺たちにはまだ何もわからない。

 だが、一つだけ確かなことがある。


 こよりが戻るまでに、俺たちはもっと強くならなければならない。


 重い足取りで、俺たちは神社への帰路についた。

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