廃病院の幽禍
数日後。
こよりはまだ神社の奥で静養を続けていた。韋天の過剰使用による疲労と、幽禍から受けた傷の回復には、もう少し時間が必要らしい。傷自体は蓮司が治したのだが、ダメージは残っている。
そのため、街の異変調査は俺と蓮司の二人で行うことになった。
「……ここもか」
夕暮れの住宅街。蓮司が手帳に何かを書き込みながら、電柱の足元を指差した。
そこには、カラスの死骸が転がっていた。外傷はない。ただ、命だけがすっぽりと抜け落ちたように、不自然なほど綺麗に死んでいる。
「これで五件目だ。野良猫が三匹、カラスが二羽。いずれも外傷なし。そして、すべてこの『円』のライン上に位置している」
蓮司が手帳を俺に見せる。
そこに描かれていたのは、この街の地図だった。動物の不審死が起きた場所に赤い点が打たれており、それらを線で結ぶと、街全体を囲むような巨大な円が浮かび上がってくる。
「この円の中心は……」
「廃病院だ。十年前から放置されている、街で一番大きな廃墟」
俺は眉をひそめた。
動物の命を吸い上げて、街全体を囲むような巨大な陣を作っている。明らかに自然発生の幽禍の仕業じゃない。
「あの黒コート……御堂の系統がやってるってことか」
「可能性は高い。奴らは幽禍を『利用する』と言っていた。これだけ大規模な界傷を意図的にこじ開けようとしているなら、目的は相当に強大な幽禍の使役だろう」
蓮司が手帳を閉じ、六角棒を覆うケースの紐を締め直した。
「急ごう。円が完成する前に、中心を叩く」
俺たちは廃病院へと向かう。いつもなら三人で移動しているのに、今日は俺と蓮司の二人だけだ。その事実が、じわじわと胸に重くのしかかってくる。
*
廃病院は、街の外れの小高い丘の上にあった。
コンクリートの壁は黒ずみ、窓ガラスはことごとく割れている。病院の敷地に踏み入った瞬間、俺は強烈な吐き気に襲われた。
「なんだ、これ……」
空気が重い。まるで水の中に沈んでいるような圧迫感。
俺の眼には、廃病院の建物を覆い尽くすほどの巨大な『黒いひび』——界傷が見えていた。これまで見てきた界傷とは桁が違う。まるで建物そのものが、異界と現実の境界線の上に乗っかっているみたいだ。
「記録上、最悪の数値だ。三上、気をつけろ。中にいるのは、ただの幽禍じゃない」
蓮司が無畏を発動させ、微かな光を纏いながら先頭を歩く。
正面玄関のガラス扉を越え、ロビーに入った瞬間だった。
「——遅かったな」
暗闇の中から、冷たい声が響いた。
声の主は、黒い長コートに白いマフラーの男。塾でこよりの吸印を横取りした、あの御堂の祓い人だった。
だが、様子がおかしい。
男のコートはところどころが引き裂かれ、マフラーにはべっとりと血が染み込んでいた。あの時見せた余裕は完全に消え失せ、荒い息を吐きながら壁に寄りかかっている。右腕を庇うように左手で押さえており、指の隙間から血が滲んでいた。
「お前……その怪我は」
「……見損なったぞ、三枝の連中。俺がわざわざ『界傷が広がり始めている』と教えてやったのに、来るのが遅すぎる」
男が吐き捨てるように言う。
「教えてやっただと? ふざけるな、お前が界傷を広げてたんじゃないのか!」
「俺が? 馬鹿を言え。俺の目的は、こいつを『使役』することだ。だが……」
男が視線を向けた先。
ロビーの奥、かつて受付だった場所の空間が、ぐにゃりと歪んでいた。
「……成長しすぎた。複数の界傷を繋ぎ合わせ、無数の感情を喰らった複合体。もはや、俺一人の『玄武』では抑えきれん」
ズズン、と。
建物全体が震えた。
歪んだ空間から這い出してきたのは、これまで俺が見てきたどの幽禍とも違う、巨大な異形だった。
形がない。無数の腕、無数の眼、無数の口が、泥のような黒い塊の中で絶えず蠢いている。動物の死骸から吸い上げた命と、街中から集めた負の感情が、完全に融合して一つの怪物と化していた。その体積は、ロビー全体を埋め尽くすほどだ。
俺はこれまで幽禍を何体か祓ってきた。猿の怪物、鑑定士の怪異、写真の中の糸、鳥頭の巨人。どれも強敵だったが、それぞれに「核」があり、「理屈」があった。
だが、目の前のこいつには、それがない。ただ喰い、ただ膨張し、ただ暴れる。それだけの存在だ。
「本当の敵は別にいる。この界傷を仕組んだ奴がな」
男が壁から背中を離し、青白い札を構えた。
「だが、今はこいつをどうにかするのが先だ。……おい、そこの二人」
「三上と蓮司だ」
「俺は御堂 朔。……不本意だが、手を組むぞ。お前たちの力が必要だ」
御堂が俺たちを睨みつける。
塾での一件がある。こよりを傷つけ、横取りしたこいつを信用できるはずがない。
だが、目の前の巨大な泥の塊は、俺たちが迷っている間にも確実に膨張を続けている。
「……終わったら、一発殴らせろ」
「生きていればな」
俺は界喰を抜き、蓮司は六角棒を構えた。
こより不在のまま、かつてない強敵との、最悪の共闘が始まった。
*
「ガァァァァァァァァァッ!」
複合幽禍が咆哮を上げる。
それだけで、ロビーの窓ガラスが粉々に砕け散った。
無数の腕が鞭のようにしなり、俺たちに向かって襲いかかってくる。
「『拒』!」
御堂が叫ぶと同時に、彼の影から半透明の巨大な盾——封使『玄武』が展開された。
鞭のような腕が玄武に直撃し、凄まじい衝撃音が響く。塾でこよりの攻撃をあっさりと弾き返した玄武だが、今回は違った。
盾の表面に亀裂が走る。
「くっ……! 重すぎる……!」
御堂が顔を歪める。攻撃を反射する性質を持つ玄武ですら、その質量を完全に弾き返すことはできないらしい。
「蓮司!」
「わかっている!」
俺が阿伽で宙に舞い上がるのと同時に、蓮司が六角棒で床を叩き割った。
瓦礫が舞い上がり、幽禍の視界を遮る。その隙を突き、俺は天井付近から急降下して界喰を振り下ろした。
刃が幽禍の表面に触れた瞬間、ぞわりと悪寒が走った。
こいつは、何かを喰わせようとしても、すぐに別の部分が再生してしまう。一つの感情を断ち切っても、別の感情が補填される。複合体というのは、そういうことだ。
「何を喰わせる……!」
こいつは複合体だ。「模範解答」のような明確な理屈がない。
ただ無差別に感情と命を貪るだけの、混沌の塊。
「——三上! あいつの『目』だ!」
下から蓮司が叫んだ。
「あいつは、自分に向けられた敵意に反応して攻撃の軌道を変えている! 『見られている』という理屈を喰え!」
俺は界喰の切っ先を、泥の塊の表面に浮かび上がった巨大な眼球に向けた。
「見んじゃねえよ!」
界喰が眼球を貫く。
視界という理屈を喰われた幽禍が、一瞬だけ動きを止めた。
「今だ、御堂!」
「命令するな!」
御堂が青白い札を三枚同時に投げ放つ。
札が幽禍の身体に突き刺さり、青白い炎となって燃え上がった。
「『縛』!」
玄武の盾が形を変え、幽禍を囲む巨大な檻となって展開される。
だが、幽禍は檻の中で激しく暴れ回り、今にも結界を突き破りそうだった。
「だめだ、抑えきれん……!」
御堂の声に、珍しく焦りが滲んでいた。
「……お前のその刀は、何を喰うんだ」
幽禍の腕が玄武の檻を叩き続ける轟音の中、御堂が問いかけてきた。
「境を喰う。名を喰う。理屈を喰う」
「理屈か……」
御堂が何かを考えるように目を細める。
「こいつは、複数の界傷を繋いで生まれた複合体だ。本来なら別々に存在すべき幽禍が、一つに融合している。つまり、こいつの根幹にある理屈は——」
「『繋がっている』こと、か」
俺は界喰を握り直した。
そうだ。こいつは「一つである」という理屈の上に成り立っている。複数の感情、複数の命、複数の界傷が「一つの怪物である」という理屈を信じているから、再生できる。補填できる。
「蓮司、無畏を俺に!」
俺は着地と同時に叫んだ。
蓮司が六角棒を俺の背中に当てる。無畏の力が流れ込み、体力が一時的に底上げされる。
「もう一撃、深く喰わせる! 御堂、結界を開けろ!」
「正気か! 開けたらお前ごと……!」
「いいから開けろ!」
俺は阿伽の風を足元に集中させ、爆発的な加速で幽禍の懐へ飛び込んだ。
御堂が舌打ちをして結界の一部を解く。
俺は界喰の柄を両手で握りしめ、幽禍の核——無数の感情が渦巻く中心へと刃を突き立てた。
「お前らが『一つ』だって理屈、喰ってやる!」
界喰が、複合体の「繋がり」そのものを噛み砕く。
轟音とともに、泥の塊が内部から崩壊を始めた。
複数の感情が分断され、複数の命が切り離され、「一つの怪物」という理屈が根本から崩れていく。
俺は衝撃で後方に吹き飛ばされ、床を転がった。
「……やった、か」
全身の骨が軋む。無畏の底上げがあっても、限界を超えた一撃だった。
蓮司が駆け寄り、再び無畏をかけようとするが、彼の顔も青ざめていた。回復能力の使いすぎだ。
「……お前が言った通りだったな。『繋がり』を喰うとは、なかなか面白い使い方だ」
御堂が、珍しく感情のこもった声で言った。
「褒めるな、気持ち悪い」
俺は床に手をついて立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
ロビーの中央では、巨大な幽禍が黒い灰となって崩れ落ちていく。
その莫大な残滓。
俺は立ち上がろうとしたが、足が動かない。
「——助かった」
冷たい声。
見上げると、御堂が青白い札を手に、残滓の前に立っていた。
「おい……待て」
俺の声は、かすれていた。
「言ったはずだ。俺の目的はこいつを使役することだと」
御堂が札をかざす。
シュゥゥゥ……と、莫大な量の黒い灰が、青白い札へと吸い込まれていく。
あれだけ苦労して、命懸けで倒した幽禍の力が、またしてもこいつの手に渡っていく。
「ふざけんな……! 一緒に戦っただろうが!」
俺が声を絞り出すが、御堂は振り返らなかった。
「戦ったからこそだ。お前たちの甘さがよくわかった」
御堂は札をコートのポケットに収め、足元の玄武を影に戻した。
「界傷を仕組んだ『本当の敵』が誰なのか、俺もまだ掴んでいない。だが、この街の異変はこれで終わりじゃない。……次は、邪魔をするなよ」
「待て! 本当の敵って何だ! お前は何を知ってる!」
俺は床を蹴って立ち上がろうとした。だが、膝が笑っていて、まともに力が入らない。蓮司が肩を支えてくれなければ、その場に倒れていた。
「……今のお前たちに、話しても意味がない」
御堂がようやく振り返った。
その目は、俺たちを見下しているわけじゃなかった。どちらかといえば——諦めに近い、冷たい光をしていた。
「三枝の巫女が復帰したら、また会う機会もあるだろう。その時に、お前たちが今より強くなっていれば、話してやる」
御堂はそう言い残し、夜の廃病院から姿を消した。
追いかける体力は、俺にも蓮司にも残っていなかった。
「……また、持っていかれたな」
蓮司が六角棒を杖代わりにして、悔しそうに呟く。
「ああ」
俺は床に仰向けに倒れ込み、割れた天井から覗く月を見上げた。
こよりの仇を討つどころか、利用された挙句に横取りされた。二度目だ。
しかも今回は、あいつに「今より強くなれ」と言われた。それが一番腹立たしかった。
「三上」
蓮司が静かに言った。
「あいつは、俺たちを試している。そして、三枝さんが戻るのを待っている。それだけは確かだ」
「……わかってる」
わかってる。でも、それが余計に悔しい。
俺は界喰を鞘に収め、ゆっくりと立ち上がった。
廃病院の割れた窓から、夜風が吹き込んでくる。
この街の裏側で、何かが着実に進行していた。御堂の言う「本当の敵」が誰なのか、俺たちにはまだ何もわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
こよりが戻るまでに、俺たちはもっと強くならなければならない。
重い足取りで、俺たちは神社への帰路についた。




