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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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17/23

第九話 真珠は沈黙を抱く(前編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第九話「真珠は沈黙を抱く」前編です。

神戸に残る月森宝飾の跡を訪ねた玲央と律は、灰原家の翡翠が本来返されるはずだった人物、御影真珠子の名に辿り着きます。


翡翠と真珠。

緑の石と白い沈黙が、律の父・成瀬真澄の失踪へつながっていきます。

神戸へ向かう新幹線の窓に、灰色の空が映っていた。


横浜を出たときには細かな雨が残っていたが、車窓の外の景色が流れるうちに、雨は少しずつ遠のいていった。


灰原律は、通路側の席で封筒を見つめていた。


中には、父から母へ送られた最後の手紙が入っている。


詩乃へ


戻れなくなりました。


翡翠は、まだ私が持っています。

白河に渡すわけにはいきません。


この石は、宝石ではありません。

証拠です。


いつか律が自分の名前を知りたがったら、月を探してください。


私は名乗れない父になります。

それでも、あの子が生まれることを、私は心から望んでいます。


真澄


律はその文字を何度も読んだ。


成瀬真澄。


父の名前。


知ったばかりの名前なのに、もうずっと前から自分の中にあった空白の形をしているようだった。


水城玲央は、隣の席で古い写真を見ていた。


月森宝飾の前で撮られた集合写真。


若い成瀬真澄。

若い白河周吾。

灰原千鶴。

そして、月森宝飾の看板。


三日月の印。


裏には、短くこう書かれていた。


月森にて。翡翠を返す前日。


玲央は写真を見つめたまま、静かに言った。


「写真の中の灰原千鶴さんは、白河さんを嫌っている顔ではありませんね」


律は顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「少なくとも、この写真を撮った時点では、同じ場所にいることを拒んでいない」


「後から嫌うようになった可能性もあります」


「ええ」


玲央は頷く。


「むしろ、そう考えるほうが自然です」


律は写真を受け取り、祖母の顔を見た。


灰原千鶴。


厳しい人だった。


律の記憶の中の祖母は、いつも背筋が伸びていて、声も硬かった。


けれど、怒鳴る人ではなかった。

無駄なことを言わない人だった。


律が子どもの頃、緑色のビー玉を持って帰ったときだけは違った。


捨てなさい。


そう言った祖母の声を、律は今でも覚えている。


理由は教えられなかった。


ただ、そのときの祖母の顔には、怒りよりも恐怖があった。


今ならわかる。


祖母は、緑色そのものを嫌っていたわけではない。


翡翠を恐れていたのだ。


「祖母は、何を知っていたんでしょう」


律が言うと、玲央は写真の裏を見た。


「少なくとも、翡翠を返す前日に月森宝飾にいた」


「誰に返すんですか」


「そこが問題です」


「成瀬真澄が持ち出した翡翠を、白河に返す前日?」


「それなら、白河も一緒に写っているのは自然です」


「でも父の手紙には、白河に渡すわけにはいかないとあります」


「時系列が合いませんね」


律は目を細めた。


「では、祖母たちが返そうとしていた相手は白河ではない」


「おそらく」


玲央は窓の外を見る。


「翡翠の本来の持ち主が、別にいる」


新幹線がトンネルに入った。


窓の外が黒くなり、二人の顔がガラスに映る。


律は、その反射の中の自分を見た。


父の顔を知らずに育った自分。

父の名前を知ってしまった自分。

そして、今、その父が消えた理由を追っている自分。


刑事としてではない。


息子として。


それが、律には少し怖かった。


玲央が言った。


「灰原さん」


「何です」


「無理に平気な顔をしなくていいと思います」


律は反射越しに玲央を見た。


「していません」


「しています」


「あなたに何がわかるんです」


声が少し鋭くなった。


自分でも、それがわかった。


玲央は、怒らなかった。


「わかりません」


彼は静かに答えた。


「父親の名前を知ったばかりの人の気持ちは、私にはわかりません」


律は黙った。


「ただ、わからないまま横にいることはできます」


律は、封筒を握る手に力を込めた。


「そういう言い方は、ずるいです」


「よく言われます」


「誰に」


「主にあなたに」


律は小さく息を吐いた。


トンネルを抜ける。


窓の外に、白い空が戻った。






月森宝飾があった場所は、神戸の古い商店街の外れにあった。


海から少し離れた坂の途中。


今はもう、宝石店ではない。


一階には小さな喫茶店が入っていた。


木の扉。

古い硝子窓。

入口の横には、控えめな看板。


しかし、よく見ると、建物の上部に古い三日月の飾りが残っている。


月森宝飾の名残。


律は立ち止まり、三日月を見上げた。


「ここが……」


玲央も見上げる。


「月を探してください」


「父の手紙ですね」


「ええ」


喫茶店の扉を開けると、珈琲の香りがした。


店内には、古い木のテーブルがいくつか並んでいる。

壁にはモノクロ写真が飾られ、窓際には小さな観葉植物が置かれていた。


カウンターの奥に、白髪の女性がいた。


七十代ほどだろうか。

背は小さいが、姿勢がよく、目がはっきりしている。


女性は二人を見ると、穏やかに微笑んだ。


「いらっしゃいませ」


玲央が一歩前に出る。


「突然すみません。こちらは、以前、月森宝飾だった建物でしょうか」


女性の目が、わずかに変わった。


「そうですが」


「月森宝飾について、お話を伺いたくて」


女性は二人を順番に見た。


「あなた方は?」


律が警察手帳を出そうとしたが、玲央がわずかに手で制した。


「私は横浜で宝石店を営んでいます。水城玲央と申します」


それから、律を見る。


「こちらは、灰原律さんです」


女性の目が律に止まった。


「灰原……」


律の表情が変わる。


「ご存じですか」


女性はしばらく黙った。


そして、静かに言った。


「千鶴さんのお孫さん?」


律は息を止めた。


「祖母をご存じなんですか」


女性は、カウンターの奥から出てきた。


「私は月森紗代。月森直政の娘です」


月森紗代。


月森宝飾の創業者の娘。


玲央は軽く頭を下げた。


「お時間をいただけますか」


紗代は、店の奥の席を指した。


「珈琲でよければ」


二人は奥の席に座った。


紗代は珈琲を三つ運んできて、自分も椅子に腰かけた。


「月森宝飾のことを尋ねてくる人なんて、もうほとんどいません」


「灰原千鶴さんとは、どのようなご関係だったのですか」


玲央が尋ねると、紗代は懐かしそうに目を細めた。


「千鶴さんは、父のお得意様でした」


「ブローチを注文した?」


「ええ。銀細工に真珠をあしらったブローチですね。中央に翡翠を留めたもの」


律が鞄から写真を出す。


石のないブローチの写真。


紗代はそれを見て、すぐに頷いた。


「これです」


「覚えているんですか」


律が聞く。


「ええ。特別な注文でしたから」


「特別?」


紗代は珈琲に視線を落とした。


「千鶴さんは、翡翠を持ち込まれました。古い帯留めから外した石でした。とても美しい石でね。濃すぎない、淡い緑。光を含むと、内側から静かに明るくなるような翡翠でした」


「なぜブローチに?」


「お嬢さんに渡すためだと聞きました」


律が小さく言う。


「母に……」


「はい。詩乃さんへの贈り物だったのでしょう」


玲央が尋ねる。


「その翡翠は、もともと水無瀬家のものだったのですか」


紗代は首を振った。


「いいえ」


律が顔を上げる。


「違うんですか」


「千鶴さんは、水無瀬家に預けられていたものだと言っていました」


「預けられていた?」


「ええ。持ち主は別にいる、と」


玲央と律は目を合わせた。


やはり。


翡翠には、本来の持ち主がいた。


「その持ち主の名前は?」


玲央が聞くと、紗代は少しだけ迷った。


「昔の話ですし、私も子どもでしたから、はっきりとは覚えていません。でも、父が何度かその名前を口にしていました」


「何という名前ですか」


紗代はゆっくりと言った。


「真珠子」


律が眉を寄せる。


「しんじゅこ?」


「人の名前ですか」


玲央が尋ねる。


「はい。漢字で、真珠の子と書いて、真珠子。名字は……たしか、御影」


「御影真珠子」


玲央は繰り返した。


真珠。


その名だけが、話の奥から白く浮かび上がるようだった。


「その方は、何者ですか」


紗代は首を振った。


「そこまでは。ただ、父はその翡翠を“真珠子さんに返さなければならない石”と言っていました」


「翡翠なのに、真珠子」


律が呟く。


紗代は少しだけ笑った。


「不思議でしょう。でも父は、よく言っていました。あの翡翠には、真珠みたいな沈黙がある、と」


「真珠みたいな沈黙」


玲央が繰り返す。


紗代は頷いた。


「真珠はね、傷を抱いて育つでしょう」


玲央は静かに聞いていた。


「貝の中に入った異物を、何層もの真珠層で包み込む。綺麗なものに見えるけれど、その中心には痛みがある」


律は黙った。


紗代は続ける。


「父は、あの翡翠も同じだと言っていました。美しい緑の中に、何か言えないものを包んでいる、と」


玲央は、詩乃の言葉を思い出す。


知っても、戻らないものがある。


真珠は沈黙を抱く。


この話の題にふさわしい言葉が、喫茶店の静けさの中に落ちた。


律が尋ねる。


「祖母は、その翡翠を真珠子さんに返そうとしていたんですか」


「おそらく」


「でも、ブローチに仕立てた」


「ええ。父も不思議がっていました」


「なぜ返すべき石を、ブローチに?」


紗代は珈琲を一口飲んだ。


「千鶴さんは言っていました。返すには、形を変える必要がある、と」


「形を変える」


玲央が言うと、紗代は頷いた。


「そのまま返せば、また奪われる。だから、詩乃さんのブローチとして隠す。そういう意味だったのかもしれません」


「奪われる相手は、白河周吾ですか」


玲央が言った瞬間、紗代の表情が硬くなった。


「やはり、その名前が出ますか」


「ご存じなんですね」


「ええ」


紗代は静かに答えた。


「白河さんは、月森宝飾にも来ました」


「いつ頃ですか」


「ブローチを作った少しあとです」


律が身を乗り出す。


「何をしに?」


「翡翠を見せろ、と」


「祖母が持ち込んだ翡翠を?」


「はい」


「なぜ白河が知っていたんですか」


紗代は首を振る。


「わかりません。ただ、父は断りました」


「それで?」


「店の空気が変わりました」


紗代の声は低くなった。


「白河さんは怒鳴るような人ではありません。むしろ、最後まで穏やかでした。でも、帰ったあと、父はしばらく何も話しませんでした」


玲央には、その光景が想像できた。


白河周吾の穏やかな声。

丁寧な言葉。

柔らかな笑み。


そして、そこに含まれる冷たさ。


怒鳴らないからこそ、相手の心に深く残る圧力。


「その後、成瀬真澄さんが来ましたか」


紗代は律を見た。


「あなたのお父さんですね」


律の指が少し動いた。


「知っているんですか」


「ええ。真澄さんは、月森でしばらく働いていました」


「父が?」


「若い頃に。修復の腕がよくて、父も信頼していました」


「白河の弟子だったと聞きました」


紗代は苦い顔をした。


「そうです。でも真澄さんは、白河さんのもとを離れたがっていました」


「なぜですか」


「本物の修復がしたい、と言っていました」


「本物の修復?」


玲央が聞く。


紗代は頷く。


「白河さんのもとで求められるのは、直すことではなく、見せ方を変えることだったそうです」


玲央は黙った。


見せ方を変える。


白河のやり方そのものだった。


本物を偽物に見せる。

偽物を本物に見せる。

欠けたものを、最初から欠けていなかったように見せる。


修復ではない。


演出だ。


紗代は律を見た。


「真澄さんは、優しい人でしたよ」


律は何も言わなかった。


その言葉を、受け取り方に迷っているようだった。


父が優しい人だった。


そう言われても、律にはまだ、その優しさの置き場所がないのだろう。


「成瀬さんは、翡翠を持って消えたと聞いています」


玲央が言うと、紗代は目を伏せた。


「そうです」


「何があったのですか」


紗代は、しばらく答えなかった。


喫茶店の時計が、小さく鳴った。


店内に客はいない。

外の商店街を、誰かの足音が通り過ぎていく。


やがて、紗代は言った。


「真珠子さんが来たんです」


律が顔を上げる。


「御影真珠子さんが?」


「はい。ある雨の日でした。年齢は、当時で三十代半ばくらいだったと思います。白い手袋をして、黒い帽子をかぶっていました」


「何をしに?」


「翡翠を返してほしい、と」


「それなら、返せばよかったのでは」


律の声には少し苛立ちがあった。


紗代は静かに首を振る。


「返せなかったんです」


「なぜ」


「ブローチはすでに千鶴さんの手元に戻っていました。そして、翡翠は詩乃さんへ渡されていた」


律は言葉を失った。


玲央が静かに問う。


「そのとき、御影真珠子さんは何と言いましたか」


紗代は目を閉じる。


「母の沈黙を返してください、と」


「母の沈黙」


「ええ」


「翡翠は、御影真珠子さんのお母様に関わるものだった?」


「おそらく」


紗代は続けた。


「でも、父は何も言えませんでした。店には白河さんの影がありましたし、千鶴さんも、真澄さんも、詩乃さんも関わっていた。誰か一人に返せば、誰か一人が危なくなる。父はそう考えたのだと思います」


「だから沈黙した」


「はい」


「真珠子さんは?」


「泣きませんでした。ただ、真珠の指輪を置いていきました」


「真珠の指輪」


玲央が繰り返す。


紗代は立ち上がった。


「まだあります」


彼女はカウンターの奥へ行き、小さな木箱を持ってきた。


古い箱だった。


蓋を開けると、中には一つの指輪が入っていた。


銀色の細いリング。

中央に、小さな真珠。


大粒ではない。


しかし、柔らかな白い光を持っている。


真珠は完全な丸ではなかった。

少し歪んでいる。


玲央は白い手袋をはめ、指輪を見た。


「古い真珠ですね」


「父は、それをずっと保管していました」


「御影真珠子さんは、なぜこれを置いていったのですか」


紗代は、真珠の指輪を見つめる。


「父は、こう言っていました」


彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「これは、沈黙の代金だと」


律の表情が硬くなる。


「代金?」


「返せないなら、せめて沈黙を買ってください。そう言って置いていったそうです」


玲央は、真珠を見た。


真珠は、宝石の中でも少し特殊だ。


鉱物ではない。

生き物が作る宝石。


痛みや異物を、何層にも包み込んで生まれる光。


沈黙の代金。


これほど苦い言葉に似合う宝石は、他にないかもしれない。


律が低く言った。


「真珠子さんは、今どこにいるんですか」


紗代は首を振る。


「わかりません」


「生きていますか」


「それも」


「調べます」


律は即座に言った。


玲央は律を見る。


「灰原さん」


「何です」


「急ぐ気持ちはわかります。ただ、この件はまだ事件として見えていません」


「父に関わっています」


「はい」


「祖母にも、母にも、白河にも」


「はい」


「なら調べます」


律の声は硬かった。


玲央は、少しだけ黙った。


そして頷いた。


「わかりました」


ここで止めることはできない。


止めれば、律は一人で行く。


それは、あまりよくない。


玲央は真珠の指輪を見た。


「紗代さん。この指輪を、一時的にお借りできますか」


紗代は迷った。


「父の遺品です」


「もちろん、丁寧に扱います」


「それを調べて、何がわかりますか」


「この指輪にも刻印があるかもしれません」


玲央は指輪の内側を示した。


「それに、真珠そのものにも、産地や年代の手がかりが残っている場合があります」


紗代はしばらく指輪を見つめていた。


それから、静かに頷いた。


「お願いします」


律が言った。


「ありがとうございます」


紗代は律を見た。


「真澄さんに似ていますね」


律は、少しだけ固まった。


「父に?」


「ええ」


「顔が?」


「顔も少し。でも、それより」


紗代は穏やかに言った。


「知りたいことから逃げないところが」


律は何も言わなかった。


ただ、指輪を見つめていた。


玲央は、その沈黙に触れなかった。


真珠は沈黙を抱く。


けれど、抱かれた沈黙が永遠に沈黙のままだとは限らない。






その日の夕方、玲央と律は、神戸の港近くにある古いホテルに部屋を取った。


調査は翌日に続く。


月森紗代から借りた真珠の指輪は、玲央が携帯用のケースに入れている。


律はホテルの窓辺に立ち、港の灯りを見ていた。


横浜とは違う海。


けれど、どこか似ている。


海は、人を運ぶ。

宝石を運ぶ。

秘密も運ぶ。


そして、ときどき人を消す。


玲央はテーブルの上で、真珠の指輪をルーペで確認していた。


「刻印があります」


律が振り返る。


「何と?」


「M.M.」


「御影真珠子?」


「おそらく」


「他には?」


玲央はリングの内側をさらに見る。


「小さく、日付があります」


「いつですか」


玲央は少しだけ眉を寄せた。


「昭和四十三年、六月」


律が近づく。


「祖母がブローチを作った時期と近いですか」


「資料では、その前後の可能性があります」


「つまり、翡翠のブローチと真珠の指輪は、同じ頃に動いている」


「ええ」


玲央は真珠を光にかざした。


表面に細かな傷がある。


長く使われていた指輪だ。


単なる代金として置いていったものではない。


大切なものだったはずだ。


「おかしいですね」


玲央が言った。


「何が」


「沈黙の代金として置いていくには、この指輪は個人的すぎる」


「つまり?」


「御影真珠子さんは、ただ怒って置いていったのではない。何かを残すために置いていった可能性があります」


律が息を止める。


「指輪にも何か隠されている?」


「確認します」


玲央は携帯用ライトを当て、真珠の台座部分を見る。


真珠は接着と爪で留められている。


外すには慎重さが必要だ。


「外せますか」


律が聞く。


「できます。ただ、紗代さんに許可を取ってからです」


「電話します」


律はすぐに携帯を取り出した。


短いやり取りのあと、許可が出た。


ただし、破損の可能性があるならやめてほしい、とのことだった。


玲央は白い手袋をはめ直した。


「慎重にやります」


真珠は柔らかい。


傷つきやすく、酸にも弱い。


ダイヤモンドやサファイアのようには扱えない。


玲央は細い工具で爪を少しずつ起こした。


力を入れすぎれば、真珠の表面に傷がつく。


少しずつ。


呼吸を浅くしないように。


律は隣で黙って見ていた。


数分後、真珠が台座から外れた。


その下に、小さな紙片が入っていた。


律が息を呑む。


玲央はピンセットで紙片を取り出す。


あまりにも小さい。


しかし、文字がある。


玲央は拡大鏡の下に置いた。


そこには、たった一行だけ書かれていた。


『翡翠は、声を閉じ込めている。』


律がその文を読む。


「声……」


玲央は紙片を見つめた。


宝石ではありません。

証拠です。


真澄の手紙。


翡翠は、声を閉じ込めている。


真珠子の指輪。


声。


「録音ですか」


律が言った。


玲央は頷く。


「可能性があります」


「でも、翡翠の中に録音?」


「石そのものではなく、翡翠の台座や裏側に小型の記録媒体が仕込まれていたのかもしれません」


「昭和の時代に?」


「小型とはいっても、今ほどのものではないでしょう。音声記録というより、音声を示す別のものかもしれません」


「例えば」


「レコード片、磁気テープの一部、あるいは音声の記録場所を示す暗号」


律は、紙片を見つめた。


「父は、それを持って消えた」


「はい」


「白河に渡すわけにはいかなかった」


「ええ」


「御影真珠子は、それを母の沈黙と呼んだ」


玲央は静かに頷いた。


「おそらく、翡翠には御影真珠子さんの母親の声に関わる何かがある」


律は窓の外の港を見た。


「次は御影真珠子を探す」


「はい」


「生きていれば」


「生きていれば」


玲央は紙片を見つめた。


翡翠は、声を閉じ込めている。


真珠は沈黙を抱く。


そして、失われた翡翠の中には、誰かの声がある。


白河周吾が欲しがったのは、石ではなかった。


その声だ。


玲央は、静かに紙片をケースへ入れた。


夜の神戸港に、灯りが滲んでいる。


遠くで汽笛が鳴った。


その音は、海の向こうから届いた古い証言のように聞こえた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第九話では、真珠を「沈黙を抱く宝石」として扱いました。

翡翠に閉じ込められているという“声”は、誰のものなのか。


次回、御影真珠子の行方と、成瀬真澄が守ろうとした証拠に近づいていきます。

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