第5節:憧憬の丘
ほぼ真横になった船の中に入るのは、奇妙なものであった。壁と床が逆転しているのである。天井はやたらに高く、出入口は横に細長かった。元の廊下は這ってでなければ通れないため、壁に新しくドアが設けられていた。
薄暗い船内を想像していた我々を驚かせたのは、天井から吊された、煌々と光る電球であった。
「北の方にあるちょっとした岩場に、風力発電機を何台か据え付けてある。船内の照明には十分な出力が出せる」
舳先の方へと進みながら、博士は言った。
内部には、様々な道具が運び込まれていた。机や椅子はもちろんのこと、本棚、タンス、揚げ句の果てにはベッドまでが、軍用の狭い船室の中に置かれていた。
「どうかね? その気になれば、ここで暮らすことも不可能ではない」
博士は胸を張ってみせた。
「……しかし、飲み水や食べ物はどうします?」
改造された船内の様子に驚嘆していたザウテルが、不安げに尋ねた。
「水なら心配ない。船首には地下水が涌いている。船が地面に叩きつけられた時に、岩盤に亀裂が入ったのだろう。ちょっと、いいかね?……」
そう言って、博士はそばに据えられていたポンプのスイッチを入れた。けたたましい音と共に、蛇口から滔々と水が流れ出してきた。
「……後は沸かせば飲める。食糧の方は、地下から涌いてくるという訳には行かんが……ないこともない」
博士は、梯子を登って上の船室へと消えた。やがて戻ってきた博士の腕には、数個の缶詰が抱えられていた。そのうちの一つを、博士は私に投げてよこした。
「手の込んだ食事は望めないが 、栄養だけなら十分にある。牛肉、魚、豆類……果物もあったかな?」
年甲斐もなくはしゃぐ博士の姿は、まるで旅行に行く前日の子供のようであった。
船の中を一回りして、我々は外に出た。陸に上げられた軍艦は、まさしく博士の城にその姿を変えていた。
スクリューを見上げながら、私は尋ねた。
「しかし、これは博士がお一人で改造されたのですか?」
「まさか! 一人でここまでは出来んよ。私の仲間達が、ただの残骸をこうして利用できるまでに仕上げたのさ……」
博士は遠くを見るような目で呟いた。
「仲間?……」
私が言うと、不意に博士は我々四人を振り返った。
「彼らを紹介しよう。ついてきたまえ」
* * *
船から南の方へ五百リルほど行った時だった。目の前のなだらかな丘陵の上に、何かが見えた気がした。私は目を細めた。細長いものが幾つか立っていた。人だろうか?……
「……あれが仲間だ……」
ポツリと博士が言った。あれが?……
足を止める博士に構わず、私は丘へと登っていった。ザウテル、クリス、ラムも後に続いた。どうやら、柱か何かのようであった。その間から一つの黒い影が現れ、こちらへとやってきた。先刻の奇怪な老人であった。
「おいでなさったか……」
隻眼の老人シェダルは、炯々と光る左目で私の顔を見上げた。
「あれは一体?……」
私が丘を指すと、シェダルは奇妙な声で笑った。
「あれかね? あれは墓じゃよ……」
墓?!……
丘の上に立っていたのは、墓標だった。軍艦の甲板を引き剥がして作った粗末な墓標が、丘の上には何本も立てられていた。
そのうちの一本に近付いて、私はハッとした。そこには、『ガイル=デヴィーサイド』の文字が刻まれていた!
遅れて登ってきたクリスの手を強引に引いて、私はその前へと彼女を導いた。
「クリス、これを見てくれ!」
墓標の名前を認めて、彼女はアッと声を上げた。
「……ガイル=デヴィーサイドの墓だ。彼の墓がこんなところに……」
言いかけて、私は周りを見回した。
「まさか、ここにある墓は全部……」
「そう。鳥に憧れ、天空を目指して、散っていった先人達のものだ……」
後ろで博士が言った。
「では、仲間というのは?……」
「そうだ。ここ不浄の地は、飛ぶことに心を奪われた者にとって は、またとない実験場所だった。あの軍艦があそこに降ってきてからは、実験は更にやりやすくなった。我々は船の上に助走路を築いた。あの、船が砂をかぶった丘のことを我々は『憧憬の丘』と名付け、全員があの頂上から飛び立った。烏の栄光をその手につかむために……そして、誰一人帰ってきた者はいなかった……」
ひとしきり強い風が吹いた。墓標が悲鳴のような唸りを上げた。舞い上がった砂が、凍りついた空間の中で、ただ一人流れる時間の軌跡を描いていった。
どれくらいの時がたったのだろうか。それは、一分とも一時間とも思える重苦しい沈黙であった。
やがて、クリスがポツリと言った。
「……それでは、私の兄の墓もここに?……」
博士は、一瞬の躊躇の後で頷いた。
「……ああ、あれがそうだ……」
東の端にある、まだ新しい墓標の前には、慰霊のための白いファステリオルの花が捧げられていた。クリスはゆっくりと歩み出すと、兄の名前が刻まれたその墓標の前で跪いた。
「……済まない、クリス……私は今まで、どうしても君をここへ連れてくることができなかった。ここが不浄の地で、君が幼かったということ以外にも、私は、君をこんな厄介な事には巻き込みたくなかったのだ。確かに、君には何に対しても学ぼうという熱意があったが、事これに関しては、神説典の教えに抵触する事だったから……」
苦悩の表情で、博士は頭を下げた。
「……いえ、いいんです。私は……」
クリスの小さな背中が言った。
「……兄さん、私、来たよ……兄さんが望みを果たそうとした憧憬の丘に……私……」
彼女の震える声は、それ以上は続かなかった。
誰でもそうだろうが、悲しみに打ちひしがれる人を見るのは堪え難いものがあった。悲哀という名の強酸が、こちらの心の奥底まで蝕んでいくようで、私は唇を噛み締めた。ラムは胸の前で手を合わせると、祈りを捧げるように砂の上に跪いていた。そう、永久戦争を繰り広げているベル・ロニアの彼女にとって、人の死は、誰にも増して身近な出来事であっただろう。
「……何故です?……」
不意に、隣に立っていたザウテルが言った。
「何故、そうまでしてなお、空を飛ぼうとするんです?」
彼のまなざしは真剣だった。
博士は顔を上げたが、ザウテルを振り返りはしなかった。
「……空を飛ぶということは、主に背くということなんですよ。あなたはそれに何の抵抗も感じないのですか? 科学的に見たとしても、この墓標の群れが、それがいかに無謀であるかを証明しているではありませんか」
「ザウテル、あなたは……」
私は、図書館の前で言った彼の言葉の意味がわかったような気がした。博士はゆっくりと息をついた。
「……ザウテル君、君はラスティ君を連れ戻しに来たのだね?」
「ええ、そうです。死の危険に曝されている友人を、みすみす見捨てる訳にはいきませんから……。あなたが夢を追って亡くなるのは勝手ですが、それにラスティを巻き込まないで欲しいんです」
「それは違います、ザウテル! 僕は自分の意志で……」
「お前は黙っていろ!」
いつになく強い語気で、ザウテルは言った。
「……博士、あなたにお訊きしたい。命を捨ててでも飛ばねばならぬ価値が、一体どこにあるのです?」
沈黙が流れた。
「……価値などない……」
やがて、ザウテルをも驚かせるような答えを、博士は口にした。
「……ラスティ君、いつだったか、君と酒場で主について語ったことがあっただろう? あの時、私は、君の意見は主の存在を否定するには十分ではないと言った。しかし、例え完璧な証拠があったとしても、主を信ずる者にとっては、それは虚偽に過ぎないのだよ。……彼らが主を信じるのは、それが論理的に正しいからではない。彼らの『心』がそれを求めて止まないからだ……」
そう言うと、博士はザウテルを見た。
「私も同じだ。私は、主の存在を否定するために、あるいは科学の発展のために飛ぶのではない。私の『心』がそれを希求するからなのだ。例えそれが論理的に不可能であると実証されても、私は飛ばないではいられないだろう。……ザウテル君、理屈で人の心は縛れないのだよ。『理』は主の宮殿から盗んだものだが、『心』は人が持って生まれたものなのだから……」
博士の言葉に、ザウテルは衝撃を受けたようであった。
「……しかし……」
そう言いかけたが、その後は言葉にならなかった。
「……お前も、そうなのか?……」
やがて、ザウテルは私に向かって言った。私は黙って頷いた。
彼は顔をしかめて俯いた。
「……それでは……それでは、ラスティをやめさせるには、一体どうしたら……」
博士は目を閉じた。
「……一つあるとすれば、勇気だ……」
ザウテルは顔を上げた。私も博士を見た。
「ラスティ君に、もし諦める勇気があるのなら……」
「……諦める勇気……」
呆然と呟くと、ザウテルは首をうなだれた。彼はそれ以上言おうとはしなかった。
クリスは、我々にずっと背を向けたままだった。彼女はどう思ったのか、それをその背中から窺い知ることはできなかった……
* * *
馬車は、フィルソルフィアナ図書館の前で、博士とクリスとラムの三人を降ろした。不浄の地からの帰り際、博士がこう提案したのであった。……「ザウテル君、君とラムさんさえよければ、私が彼女を引き取ってもいい。私は、既に危ない橋に足をかけてしまっているからね。その方が、君も気を揉まずに済むだろう?」……結局、ザウテルは了承した。
その後の車内で、ザウテルは一言も口をきかなかった。
アティクの角を曲がり、私の家に近付いた時、彼はふと一人言のように呟いた。
「……しかし、よりによって空を飛ぶとはな……」
それがどういう意味なのか、私が知るのは、もっと後になってからであった。
薔薇が絡みついた格子の門の前で、私は馬車を降りた。ザウテルは窓から顔を出した。
「ラスティ、どうしたらお前を臆病者でなくすることができるんだ?」
私は苦笑した。
「僕にもわかりません……」
「……そうだな……」
苦悩の表情をしたザウテルを乗せて、エッセンニーカ家の公用馬車は宵の闇の中へ走り去った。
ザウテルが私のことを心配してくれるのは、痛いほどによくわかった。しかし、それでも私は諦める訳にはいかなかった。
「坊ちゃま! 今までどこにいらっしゃっていたんです?!」
背後からの声に、私は振り返った。下男のネカルだった。
「どうした、ネカル。そんなに慌てて……」
私は微笑んだが、彼はそれどころではないようであった。
「ただ今、ウィリアード様がアルキュオネ様とお見えになっております。どうかお早く中へ!」
「叔父上が?!……」
私の胸を、悪い予感が掠めた。




