断章『レディ・オブ・ザ・ランド』
姫の名はリムレット。
かつてのギリシャ領の国で生まれた美姫だった。
その容貌と鈴のような透き通る声で、国民に向けていつも歌を歌っていた。
誰もが彼女を称賛し、その歌を喜んだ。
島に訪れる旅行者たちにも好評で、ついには島の外にもその名前が広がっていく。
リムレット姫は大人びた雰囲気を持つ少女だった。王が開く宴の席でも、上品かつ礼儀正しい立ち居振る舞いをし、国外の賓客も舌を巻いたものだ。
歌もマナーも振る舞いも、全てはリムレット姫の努力と献身の賜物。
周りの人々が彼女を愛すように、彼女もまた人々を愛しているから努力した。
『向けられた信頼には信頼を返す』
リムレット姫にとって、この理は当然だった。
そんな姫の美貌と称賛に醜い嫉妬心を燃やした魔女が居た。
魔女は国の近くにある森で隠居していた。
魔女が国にやってきたとき、リムレット姫の歌を聞き、国民の声を聞いた。
――美しいから。声が良いから。それだけで。
――愛されている。信じられている。
――妬ましい、羨ましい。憎らしい。
歌うことで喉を傷めた姫に、薬を持ってきたと偽って魔女は謁見した。
そして、リムレット姫に変身の呪いをかけた。
呪いの影響で、リムレット姫は醜いドラゴンへと変じてしまった。
しかし、声だけは姫のままだった。
魔女は目的と自らの過去を語る。
「姫。その呪いは、貴女を愛する者が口づけをしたときに解けます。
醜い見た目を人々は恐れるでしょう、ドラゴンである今の貴女を畏怖するでしょう。しかし、姫にはその鈴のような透き通る声がある。誰もが、醜いドラゴンである貴女をリムレット姫だと理解する。
国民は皆、姫を愛しておられる。どうぞ、その声で説明してください。そして、呪いを見事に解いてみせてください。
私は人のため、命を救う薬を作る魔女として生きた。だが、薬のために醜い姿となってしまった私を人々は恐れ遠ざけ、裏切った。
姫、貴女も同じ苦しみを味わうべきだ」
邪悪な魔女に、ドラゴンと化したリムレット姫は毅然と言い放った。
「私は誰もを愛して、信じています。
この醜い姿と恐ろしい力で人を傷つけないために、私は遠い孤島に隠れなければならないでしょう。
けれど、必ず私の呪いを解いてくれる方が島にやってきてくれます。
私はそれを信じています」
下劣な魔女の目論見は外れ、醜い姿となろうともリムレット姫の清廉さが失われることはなかった。
王は事態を知り、すぐに船を用意して姫を遠い孤島に隠すことにした。
「これはお前を守るためだ。必ず迎えを寄越す。だから、父を許しておくれ」
「気に病まないでくださいませ、お父様。私は大丈夫です。お父様を信じておりますもの」
ドラゴンのリムレット姫は国から見える孤島に置き去りにされた。
心配はなかった、信じているから。
すぐに王が自分に口づけをする勇気ある者を寄越してくれる。
きっと、自分はその方を好きになって国に帰り、皆に祝福される結婚をすることになる。子供は沢山じゃなくてもいい。元気で歌が好きな子供が欲しい。
孤島で待つ間、そんな幸せを夢想して過ごすリムレット姫。
「まだかなぁ」
知らせは届かない。
いつ勇者が来ても出迎えられるようにリムレット姫は孤島の浜で国の方を見るようになった。
魔女の呪いは特別だった。
ただ姫の身体を醜いドラゴンに変えた訳ではない。
食べ物を食べなくても、水を飲まなくても、傷を負っても。姫は死ねなくなっていた。
苦しいとさえ感じず、睡眠すら必要ない。
だから、一日中、浜で国からやってくる船が無いかと探し続けた。
何度、昼と夜を越えただろうか。
リムレット姫はすっかりドラゴンの身体に慣れて、尻尾を自由自在に動かせるようになり、さらには翼を使って空を飛ぶこともできるようになっていた。
ふと、思い至ったことがある。
きっと、王は国民へ必死に説明している。しかし、やはり言葉では誰も姫がドラゴンにされたなどと信じられないのだ。
自分はなんと思慮が浅いのだろうか。考えれば当然のことだ。
姿を現さない姫がドラゴンになったなど、誰が信じられようものか。
国民のために、自分のために。
信じることで信じてもらえる。
信じてもらうために自分も努力しなければならない。
そう思い立った姫は覚えたばかりの飛行で海を飛び越え、懐かしさを覚える自分の故郷に現れた。
「皆、私です。リムレットです。王の言うことは本当なのです!」
姫は変わらぬ鈴のような透き通った声で国民に訴えかけた。
しかし、国民からしてみれば、醜く力強いドラゴンが急に現れ、姫の声で喋り出したのだ。驚かない方がおかしい。
パニックになった国民は逃げ惑う。
勇敢な者がドラゴンに石を投げつけ叫ぶ。
「姫を返せ! 私たちの姫を返せ、醜いドラゴンめ!」
「ちが、違う! 私はリムレット――きゃ!?」
大騒ぎとなり、ドラゴンは怯えて孤島に飛び帰った。
「どうして……どうして、誰も……」
自分が悪かったのだと、リムレット姫は結論を出した。
急にドラゴンが現れれば驚くのも当然だ。
きっと、王も娘がドラゴンになったなんて、悲しくてまだ国民に話せていなかったのだ。
だと言うのに、自分が逸って国民を怖がらせてしまった。
申し訳ないことをしたと、リムレット姫は己をいましめた。
「まず国民に、この姿の私を知ってもらおう。恐ろしい存在ではないと知れば、きっと私のために動いてくれる。
それに、怖がらせてしまったことを償わなければ」
夜中、また姫は国に飛んだ。
今度は人々の生活圏から離れた場所に降り立ち、そこで国民が好いてくれていた歌を歌った。
謝罪の気持ちと、自分を忘れないで欲しい/助けてほしいという想いを混ぜて。
何度も、何度も、何度も。
リムレット姫は国民に歌を届けた。
すると、国民たちはドラゴンを悪い存在じゃないと思うようになり、美しい歌を歌う心優しいドラゴンを敬意を込めて、「|レディ・オブ・ザ・ランド《島の女主人》」と呼ぶようになった。
昼間、リムレット姫がいつものように浜から国を眺めていると、一隻の船がやって来るのが見えた。
「やっと、やっと来たんだわ。信じていたもの、お父様が皆が救ってくれるって! 信じているのだもの!」
いつぶりか知れないが、とにかく姫は身支度をしなければと島に建てられていた城に戻った。
化粧をしても醜いドラゴンの顔は変わらない。せめて、良い服を着て精一杯のオシャレをして客人を迎えようとした。
船が着き、一人の騎士が島に降り立った。
騎士はリムレット姫の話を王から聞き、彼女と結婚するという条件で志願して島にやってきた勇敢な者だった。
孤島の城館に到着した騎士が戸を叩く。
すると、中からリムレット姫の声で「どうぞ」と声がした。
騎士が城館に入ると、そこには美しいドレスを着た醜いドラゴンが鎮座していた。
期待を込めた瞳をドラゴンが騎士に向ける。
すると、騎士はその悍ましい表情に恐怖を感じ、悲鳴を上げて逃げ出した。
「ま、待って!? どうして、どうして逃げるの!」
リムレット姫が鈴のような透き通る声を上げても、逃げ腰の騎士が止まることはない。
――ピシリッと、リムレット姫の中で何かが音を立てて、ひび割れた。
姫は、悲しみ/怒り/困惑/苦しみ/怒り/怒り/怒りが溢れて。
猛々しく咆哮/叫び、溢れ出る想いのまま駆ける。
ドラゴンの俊敏さですぐに騎士を捕らえ、怪力できつく締めあげる。
苦しむ騎士にリムレット姫が顔を近付けると、騎士はまた悲鳴を上げる。
「――!!!」
レディ・オブ・ザ・ランドは騎士を力一杯に握り殺し、海に投げ捨てた。
リムレット姫も呪いのことをよく理解し始めていた。
呪いの特性は三つ。
死ねない身体になったこと、歳をとらないこと。
そして、任意で人の姿に戻れること。
騎士の一件があってから、姫は浜で船を待つのを止めた。
今ではほとんどの時間を人の姿で生活し、夜にたまに国へ飛んで歌を歌う。
『忘れるな、忘れるな。私はここ居る』
そういう想いを込めて。
一人の青年が孤島にやってきた。
青年は少年だった頃、リムレット姫の歌声と姿を見て、姫に身分違いの恋をした。
姫が姿を消して、少年だった青年は深く悲しんだ。成長し、その事情を知ったとき、自分がやらなければならないと決意して、誰にも告げずに孤島にやって来たのだ。
国では、もう誰もリムレット姫を助けようとしてはいなかった。
むしろ、リムレット姫という名前は忌むべきものとされ、レディ・オブ・ザ・ランドの名だけが残っていた。
青年は孤島の城館に忍び込んだ。
そして、幼い頃に恋したリムレット姫に出会ったのだ。
しかし、姿に違いがある。
ドラゴンの角と尻尾が生え、ドラゴンと人が混じったような顔をしていた。
「何者です?」
リムレット姫は青年に気付き、警戒する。
「あ、あの。オレ、貴女を救いに……来たんです」
青年の言葉を、リムレット姫は鵜呑みにはしなかった。
初めは疑い、追い返そうとした。
けれども、青年がしつこく何度もやって来るので、遂にはリムレット姫の方が根負けした。
姫は青年に自分の呪いのこと、その解呪方法を伝えた。
「私に口づけをする。ただ、それだけです」
「き、キスですか……そんな、恐れ多い」
「そう。出来ないのならば、今すぐに島から出て行って頂戴」
ぴしゃりと言い放つリムレット姫。
まるで冷たい氷のような、取り付く島もない態度だった。
本当に青年の前から姿を消してしまいそうで、青年は慌てて声を上げた。
「で、出来ます! だって、ずっと貴女様とその、恋仲になりたいと夢見ていたのです!」
「……そう」
雪解け。そんな言葉が似合うような、朗らかな笑みをリムレット姫は浮かべていた。
「私の歌を聞いた少年が、こんな姿になってもそう言ってくれるのは、夢心地のように嬉しいわ」
「……リムレット様!」
青年は意を決して、姫の肩を掴む。
二人の視線が交わる。
遂に夢見た恋が成就し、呪いが解けるとき。
しかし、――
「うぐっ!?」
突如として青年が苦しみ始めた。
リムレット姫は倒れてもがき苦しむ青年をただ見下ろしていた。
「あ、が……!」
「……言ったでしょう。説明した筈よ。私の息はドラゴンの毒と同じ。だから、アナタは毒気を吸い込んだの。ほら、続きをしましょ?」
淡々と必要な説明だけを話し、一変してリムレット姫は熱に浮かされたような紅潮した顔を浮かべている。
「私、初めてなのよ? アナタのような情熱的な恋を聞かされたのも、恋をするのも初めてよ。
ドキドキして、アナタとしたい沢山のことが思い浮かぶわ。アナタこそ、私を救ってくれるんだわ。ええ、そうよ。間違いない。
だって、こんなにも恋しいんだもの。アナタが恋しいわ。
アナタもそうでしょう? だって、少年だった頃から今になるまで、ずっと私と私の純潔を夢見てたのよね?
私もそうよ。ドラゴンにされてから、一度裏切られてからも、ずっと私の勇者様を夢見てた。アナタこそ、私が夢見た勇者様!
……ねえ、どうしてキスしてくれないの?」
リムレット姫の心はどうしようもなく歪んでいた。
裏切りによって凍り付いた心の奥では、怪物が大口を開けるような貪食な女の性が潜んでいた。
恋が自分を救うと信じて、信じて、信じて、――
恋に狂信した姫は青年に顔を近付ける。
青年は近付いてくるレディ・オブ・ザ・ランドの顔――爛々とした瞳と醜いドラゴンと人間の混じり合ったそれ――に、恐れおののいた。
「ひっ、ば、化け物……」
ピタリと、レディ・オブ・ザ・ランドの動きが止まった。
あと少しで青年の唇と触れる距離だった。
「――――」
レディ・オブ・ザ・ランドは顔を離し、咆哮/泣いた。
生物の生存本能を脅かすような悍ましい叫び声が孤島に響き渡る。
――姫の心で、何かが音を立てて崩れ去った。
レディ・オブ・ザ・ランドが青年を捕まえて、毒の息を吹きかけた。
青年は泡を吹いて苦しみ、終いには血を吹いて死んだ。
死体を捨てて、レディ・オブ・ザ・ランドが自分に言い聞かせるように語る。
「信じるな。男など、糞と欲が詰まった肉袋だ。
信じるな。言葉など、全てウソだ。
信じるな。恋など、現実には何の役にも立たない。
信じるな。人間など、ウソを吐き裏切るだけの醜い肉塊だ」
信頼は裏切られる。
恋は現実を変えられない。
人間は醜い。
レディ・オブ・ザ・ランドは仮面で顔を隠し、人々の前から姿を消した。
お読みいただき、ありがとうございます。
『レディ・オブ・ザ・ランド』は実在する伝承を元に作りました。ジョン・マンデヴィル『東方旅行記』を調べていただけましたら、元とさせていただいたレディ・オブ・ザ・ランドの伝承を知れます。