現状把握とできること
「そう緊張されずともよい、今回の事は貴女にとっては不幸な事故であったはずだからな」
(無茶を仰る!!!)という言葉を辛うじて飲み込んで曖昧な笑顔を貼り付ける。
伊織は貴族制度のない現代日本人であるとはいえ、多数のフィクション本やゲームでその立場を勝手に補完していた。
とはいえ、「辺境伯」というのが爵位で三番目ほどというのはわかるが、それがどの程度の権力を有しているかは分からない。
現代に当てはめて市長だか県知事あたりだろうか。確か伯爵よりも実権としては上だったとかいう話を見た気もする。現代日本では多少の無礼も目零されるとしても、爵位制度が残る地での辺境伯位相手に下手なことはできない。
「いえ。…申し遅れました、御影伊織と申します。ええと、伊織が名で、御影が家名になります」
「…!」
アレクシスの背後からわずかに息を飲む音が聞こえたような気がしたが、目をそらすのも失礼に当たるかと思って確認はできなかった。
当のアレクシスはわずかの表情も変えず、微笑んだままでどうにも読めない。
尤も、伊織はそれほど人付き合いが得意な方ではないため、そもそも読むのが下手くそだということもあるが。
「ミカゲ殿…いえ、イオリ殿と呼んでも?」
「あ、はい。ヴェラー伯のお好きなように」
「では私の事はアレクシスと」
「ええ……?」
ファーストネームを互いに呼ばせる理由がよく分からないが、困惑の声は了承だと受け取られたらしい。
NOと言えない日本人体質としてはもう受け入れざるを得ない。
ということは、アレクシスの背後に立つ彼の弟も必然的にクリフォードと呼ばなければならないのだろうな、と痛んだことのない胃が痛んだような気がした。
「その……言っては何ですけど、私はそちらから見て侵入者に当たると思うのですが」
「ああ、そこは大丈夫。不幸な事故だと言っただろう?」
事故と聞いて、自分はあの後どうしたのだろうと伊織は思う。もちろん最初に倒れた後というか、こちらにきて最初に倒れていた後の話だ。
「ところでイオリ殿、失礼だが、イツキ・ミカゲという縁者がいないだろうか」
「……兄、ですが」
なぜその名前がこの場で出てくるのか。意味がわからなさすぎて眉を寄せる。
逆にどことなく目が輝いて見えるのはアレクシスの背後にいるクリフォードだ。伊織としては何故そんな反応をされるのかがわからない。
「色々説明すると長くなるのだけれどね、この話の初めには、イツキ殿がいるんだ」
アレクシスの話は、伊織にとっては何もかもが突飛もなかった。
まずこの世界はフィン・レーベンといい、やはり伊織の住んでいた日本どころか地球ですらないらしい。
何故それが確定しているかといえば、かつてこの国ヴァイセンガルトに災禍が訪れた時に転移してきたのが、他ならぬ斎であるというのだ。彼は出身地を日本だと言っていたし、この世界の常識も知らないと申告していたのだとか。
それがいまから60年ほど前の話なのだという。
【災禍訪れる時、勇者が遣わされる】という啓示をこのヴァイセンガルトが女神より受け、召喚の儀を行い、そして儀式は成功し、斎が現れたというわけだ。
わずか半年ほどという短い期間で、しかも圧倒的な力の差を見せつけるようにして災禍の根源を討ち滅ぼした斎は、女神との契約のもとに元いた世界へと帰っていったという。
胡散臭い、非常に胡散臭い。
そう伊織が思ったのは必然であろう。そうですかと素直に納得などできるはずもなく、かといって頭ごなしに「そんな馬鹿な」と言うわけにもいかず、とにかく微妙な表情をしていたはずだが、アレクシスは気にすることなく続ける。
今回の召喚については、災禍などは特に関わりはないらしい。伯爵位であるヴェラー家ですら女神の神託は把握はしていないし、そもそもフィン・レーベンはここ数年ほど大きな混乱もないという。
では何故転移などという現象が起こったか。
それはこのヴァイセンガルトから陸伝いに東にあるメールシャロルという国が原因である。
大陸中央部に位置するメールシャロルが何を目的にしたかは不明だが、つい先ごろ異世界人を召喚したのだという情報が入ってきていた。
だが、大陸中央部という位置はこの場合とてもまずかった。
この世界の神話では、この大陸は女神が創造したと伝えられている。さすがに神話であるため信憑性自体は疑われるものの、大陸には魔力の通り道と呼ばれるレイラインが確かにあるのだ。
まだ全てが把握されたわけではないが、大陸中を血管のように張り巡っているのだという。
つまり、大陸中央部というのは魔力が籠りやすいのだ。
その上召還の儀自体も、世界間の空間を繋ぐために多量の魔力を必要とする。
過剰なまでの魔力を注がれた召喚の儀が行われた結果、何が起こったかというと。
「つまるところ…そのレイラインを通じて召喚術の余波が、その…メールシャロルから、ということで?」
「そういうことだね。多分ヴァイセンガルトだけではなく、大陸にある他国にも及んでいると思う」
メールシャロルとしては誤算であったはずだ。目的も定かではないということは、どこかやましいものが含まれているのは予想できる。
(あれだ。メールシャロルのやつは、いわゆる「あかんタイプの異世界召喚」というやつか)
その結果が大陸中の空間をねじ曲げたことというのは、今後の大陸内での立場が心配になるところである。
自分と同じような境遇の人間が、この大陸にはあと何人かいると思っておいた方がいいだろう。大陸に何ヵ国あるのかはまだ知らないが。
それとは別にメールシャロルの異世界人にも気を配らなければならない。おそらくそこで召喚された人間は、いま伊織が聞いたような、周辺国で聞かされる事情とは違う事を聞かされるだろうから。
味方になるならそれでいいが、当面のところは敵に近い位置づけで警戒をした方がいいだろう。
「まあ、少なくともヴァイセンガルト国内で保護した者は悪いようにはしないだろう。一度は王都に行かねばなるまいが……」
アレクシスが一旦言葉を切ったところで、ぐぅ、と伊織はタイミング悪く自分の腹が鳴るのを感じた。他人事にしてしまいたいところだが、確かに自分の腹が音源である。
倒れてから一晩経つし、時間としては昼前だしお腹が空くのは当然であっておかしなことではない。強固に自分に言い聞かせるものの、鳴ってしまったものは取り消せないので顔が熱くなる。
「ふふ、これは失礼をした。昼食の時間も近いから休憩としよう。クリフ、マリアを呼んでくれ」
「承知いたしました」
アレクシスといい、クリフォードといい、顔色一つ変えないのは流石だと伊織は思う。
少しすると、朝方に伊織を呼びに来た年嵩のメイドがやってきた。なるほど、彼女の名はマリアというのか。
そのマリアについていくと食堂に通され、軽めの食事が提供される。
空腹状態のはずの伊織だが、そういえば肉類などの重いものが欲しいとはどうにも思えなかった。昼だからということもあるが、勧められるがままにリゾットなどの胃に優しそうなものを口に入れる。
軽めのものを、とアレクシスが言っていた通り、量はそれほど入りそうにもない。
どうして自分の食事量がわかったのかをマリアに尋ねると、返ってきた答えに驚くこととなる。
「イオリ様は丸一日寝ていらしたのですから仕方のないことでございます」
思わず「何だと…?」と声が出そうになったのを咄嗟に堪えた。




