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高校編・第12話「記憶という名の、薄れゆく輪郭」

七月。


朝、目が覚めると、喉がガラガラだった。


声を出そうとすると、かすれた音しか出なかった。


洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見た。


(……声が出ない)


前世では、こういうことはなかった。


獣王の咆哮は、森の奥まで響いた。


しかし今の体は、カラオケ一回で声を失った。


母が洗面所の前を通りかかって、凛を見た。


「凛、声ひどいわね」


「……昨日、カラオケに行った」


「あら、テスト終わって羽を伸ばしたのね」


「思う存分に歌った」


「どうりで」


母が、少し笑った。


朝食の席で、楓が凛の声を聞いてぱっと顔を上げた。


「お姉ちゃん、声どうしたの?」


「カラオケだ」


「カラオケ行ったの!?次は私も連れてってー!」


「……考える」


「絶対連れてってね!」


楓が身を乗り出してきた。


陸が「姉ちゃん、カラオケとか行くんだ」と少し意外そうな顔をした。


「みくびるな」


「いや、なんか意外で」


凛は黙って朝食を続けた。


昨日のことを、少し思い出した。


テストが終わった翌日、胡桃と真美と聖良の四人でカラオケに行った。


初めての場所だった。


薄暗い個室、大きなスクリーン、マイクを握る感覚。


最初は様子を見ていたが、胡桃に「凛も歌いなよ」と言われて、一曲入れた。


(……あれは、不思議な体験だった)


思う存分に歌い、思う存分に笑った。


とても楽しい時間だった。


(……楽しい)


その言葉が、するりと出てきた。


前世では、楽しいという感覚がどんなものかを考えたことすらなかった。


今は、わかる。


昨日がそうだった。



学校に着くと、胡桃が凛の顔を見て吹き出した。


「声、ひどいね」


「胡桃も」


「え、私もかすれてる?」


「ああ」


胡桃が、笑いながら喉を押さえた。


「でも楽しかったよね」


「……そうだな」


「凛、意外と歌上手かったよ」


「当然だ」


「なんで当然なの(笑)」


森の奥で暮らしていた頃、水のせせらぎを聴きながら、風音に声を乗せると、山の向こうからでも鳥たちが集まってきた。


共に唄った、あの感覚が手の内にあった。


「昔は、水のせせらぎを……」


「せせらぎを?」


「……せせらぎ……を」


凛は、口を止めた。


(……なんだ)


水のせせらぎ。鳥たちの声。風の中で唄った記憶。


輪郭はある。でも——


(……どんな音だった)


「どうしたの?」


胡桃が、少し心配そうな顔で凛を見た。


「……なんでもない」


凛は、静かに笑った。


午前中の授業が続いた。


夕方のホームルームで、担任が言った。


「みんな、前にも話していたけど、8月の地域協力ボランティア、クラスから二人お願いしたいんだけど、誰かやってくれないかな」


誰も返事をしなかった。


しばらく間があった。


「委員長夫妻でいいんじゃない」


誰かが言った。


「だなー、頼むよお二人さん」


クラスがざわついた。


凛は湊人を見た。湊人は、ため息をつきながらこめかみを押さえていた。それから凛を見た。


(……仕方あるまい)


凛は頷いた。


担任が嬉しそうに言った。


「ありがとう、じゃあお願いね」


放課後、胡桃が凛に寄ってきた。


「凛、いいの?」


「仕方あるまい」


「凛がそれでいいならいいんだけど」


胡桃が、少し笑いながら言った。


「ていうか、また委員長夫妻って言われてたね」


「気にするな」


廊下に出たところで、湊人が声をかけてきた。


「朝霧、ちょっといいか。頼みたいことがある」


「頼み事はもう聞いてやったぞ。ボランティアだ」


「いや、そうじゃなくて、別件だ」


二人は人気のない廊下の端へ移動した。


「不登校になっている佐伯、わかるか」


凛は少し考えた。


入学式の日、あの体育館にいた気配。


ずっと空席だった席。


顔は見ていないが——


「気配は覚えている」


湊人が、少し目を細めた。


「そうか、気付いていたか」


「入学式の気配は何となく覚えている」


「……そうか」


湊人は少し間を置いた。


「で、頼み事とはなんだ」


「また別の機会にする」


凛は少し考えたが、それ以上は聞かなかった。


「それより朝霧、今日は元気がないようだが。どうかしたのか」


「……少し、疲れているようだ」


湊人が、少し目を細めた。


「何があった」


凛は少し間を置いた。


「前世の記憶だ。森の音が、少し曖昧になった」


湊人は、何も言わなかった。


しばらく、二人とも黙っていた。


「……そうか」


湊人が、静かに言った。


「前世の記憶か」


「そうだと思う」


「初めてか」


「……ああ」


湊人は、窓の外を見た。


「俺にも、少しずつ曖昧になっているものがある」


「……そうか」


「焦るな」


凛は、その言葉を受け取った。


(……焦るな)


焦っているのか、自分は。


(……そうかもしれない)


前世の記憶が消えていくことを、覚悟していたつもりだった。


しかし、いざその瞬間が来ると——


「……悪い気分だ」


凛が言った。


湊人が、少しだけ凛を見た。


「そうだな」


それだけだった。


しかし、それだけで十分だった。


放課後、凛と並んで帰る胡桃が不意に質問をした。


「凛、なんか今日元気なかったけど、大丈夫?」


「……問題ない」


「本当に?」


「問題ない」


胡桃は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。



家に着いて、自室の机に座った。


窓の外を見た。夕暮れの空が、少し赤かった。


鳥たちと唄った記憶を、もう一度思い出してみようとした。


が、思い出せなかった。


輪郭だけが残って、ぼんやりと消えている。


何百年も共にあったものが、突然、霞んだ。


(……消えていく)


だが、その代わりに。


胡桃の笑い声は、昨日のまま思い出せた。


凛は、静かにそう思った。


悲しいとも、寂しいとも、うまく言えなかった。


ただ、何かが変わり始めていることだけが、確かにわかった。


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