1話
「お、はよう」
思わず声が裏返った。なまぬるい風が頬を撫で、そのまま彼女の髪を揺らした。光を含んだ薄茶色の大きな瞳に見つめられて、喉まで出かけた言葉は溶けてしまった。
「宿題、終わってないの?お揃いだね」
ふはっ、と少し眉を下げて笑う姿は、初めて話した時と変わらない。相変わらず無邪気に笑う。君が何を考えているのか、その笑顔の下に何を隠しているのか、わからないことに胸の奥がひりつく。踏み込めば壊れてしまいそうで、ただ曖昧に笑い返すしかなかった。
いつの間にか彼女は隣の席に腰を下ろしていた。タブレットには期限切れで赤く染まった提出ボックスが四つも表示されている。
「お前のほうがやってねーじゃん」
「今年の夏休みは忙しかったの!」
「大層な休暇をお過ごしのようで」
「まあね」
皮肉が通じないやつだな。どうやら今朝、人懐っこいことで有名な橋の下の子犬に嫌われたらしい。一瞬強い風が吹き、カーテンが舞い上がる。彼女のファイルから一枚が滑り、足元に落ちてきた。
進路希望調査。
締切日は七月二十日。
「あ、忘れてた!ちょっと出してくる」
視界の端に、第一志望の欄が映る。地元の国立大学。伸びてきた手に抜き取られ、そのまま教室から出て行ってしまった。二年の夏。そろそろ本格的に進路について考えないといけない時期だ。これからの受験勉強を考えると憂鬱な気持ちになる。そんなことを考えていると、風に乗って花の香りがふわりと広がった。
窓側の列の一番前。俺の四つ前の席。真っ白な花が薄桃色の花瓶に生けてあり、腰まである黒髪を一つに縛っているクラスメイトが立っている。
「善意からとは言え、机の上に置くのはあり得ない」
風が止み、風鈴のような涼やかな声が聞こえた。大きな声ではなかったのに、教室のざわめきは少しだけ収まる。大事そうに両手で花瓶を持ち、後ろの棚に向かってくるのが見えて課題に集中するふりをした。すれ違う一瞬、彼女がこちらを見たのはきっと見間違いだ。前方から聞こえる内緒話に耳を傾ける。
「宮野さんってさ、篠崎さんと幼馴染なんだっけ」
「そうそう、幼稚園からずっと一緒だって」
「うわぁ、じゃあ尚更辛いじゃん」
辛い。胸の奥に、重たい石を落とされたみたいだった。きっと、辛いのは宮野だけじゃない。
「え、なんで?」
「知らない?篠崎さん、宮野さんと二人で福岡旅行行った時に事故に遭って、それきり……ね」
その言葉の続きを誰も言わなかった。
宮野は、背筋を伸ばして机に座り本を読んでいる。真っ白な白百合がやけに眩しかった。明るい声が割り込んでくる。宮野に絡みに行っている。
「あれ、ムギおはよう!いつきたのさ」
さっきから全然宿題に集中できない。新学期早々心臓に悪い。
「ねえムギ聞いて聞いて!学校前の橋の下によくいる子犬。今朝、挨拶したら威嚇されてさ」
ひとりでずっとペラペラと話している。話題の豊富さにもはや脱帽だ。
「……てかムギ、きいてる?無視?ちょっと紬さーん」
宮野は、ため息をこぼし教室から出て行ってしまった。日光が反射した制服のセーラーが眩しい。入れ替わりで焦茶色のショートのクラスメイトが入ってくる。どうやら朝練終わりらしく、肩にはタオルが掛かっていた。
「あ、ちゅっちゅおはよう。ムギが無視するんだけどさ」
話している途中に、隣を通り過ぎていく。
「ちゅっちゅも無視?もう知らない!」
怒りを浮かべながらこちらへ向かってやって来る。何か知っているかと聞かれたが、こいつは本当に素で言っているのだろうか。こいつの真意がわからない。何がしたいんだ。半分は八つ当たりだった。
「悪い。俺にもよくわからない」
一瞬、目線が伏せられた。次に合った目の縁はいつもより濡れて光っている。そのまま荷物を持ってどこかに行ってしまった。後ろの席の友達が首を傾げる。
「さっきから一人でなに話してんだよ」
隣の席には、ずっと誰もいなかった。
やっぱり、あいつは俺にしか見えていないんだ。




