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覇狼、地を貫く  作者: 神箭花飛麟
使節

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Ⅰ 故郷

時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。

1280年、春。

大都。

雪解けの水が、街路を流れていた。

クビライが、舜を呼んだのは、その朝のことだった。

謁見の間に、文官たちが並んでいた。

耶律鋳やバヤンがいた。

遼海も、端に座っていた。

「舜」

クビライが言った。

「はい」

「日本のことを、話してくれ」

「書物ではなく、お前の言葉で」

舜は、しばらく考えた。

「日本は、東の海の向こうの島国です」

「知っている」

クビライが頷いた。

「だから、お前に聞く」

「日本は、どういう国だ」

「小さな国です」

舜が答えた。

「しかし、独自の文化を持っています。大陸から学びながら、自分たちのものに変えていく力がある」

「漢字を、自分たちの読み方で読む」

「仏教を、自分たちの形に変える」

「そういう国です」

「強いか」

「軍事的には、強くはないが、精神的には、非常に頑固です」

「頑固か」

クビライが、少し笑った。

「お前も、頑固だな」

「はい。そういう民が生んだ国で、俺にもその血は入っています」

クビライは、黙って舜を見ていた。


「軍を出すべきか、という声がある」

バヤンが言った。

「一度、大軍を送っている。だが、嵐に遭って、引き返した」

「次に送れば、勝てるか」

「分かりません」

舜が答えた。

「海は、予測できない。嵐は、いつでも来る」

「たとえ勝っても、得るものが少ない」

「日本には、大陸ほどの農地はない。人口も、多くはない」

「征服した土地は、統治しなければならない」

「日本を統治するには、海を越えた補給が必要だ」

「それは、膨大な費用がかかります」

「では、どうする」

クビライが聞いた。

「交易です」

舜が言った。

「日本に、物を売る。日本から、物を買う」

「征服よりも、はるかに利がある」

「だが、日本は俺たちの使節を、なぜ無視し続けるのだ」

「恐れているからです」

舜が言った。

「征服されると、思っている」

「一度、軍が来ている。それが、証拠だと思っている」

「そうではないと、伝えれば」

「俺が、行きます」

クビライは、沈黙した。

耶律鋳が、小声で言った。

「陛下、舜殿は最も適任です」

「日本語が分かる。日本の心が分かる」

「しかも、この帝国を七十年、見てきた男です」

クビライが、頷いた。

「舜、お前を大元国信使に任ずる」

「日本との交渉の一切を、任せる」

「一つだけ、約束してくれ」

「何でしょう」

「日本が、最終的に交易に応じなくても」

「お前は、必ず帰ってこい」

舜は、少し驚いた。

「はい。必ず帰ります」

「お前の記録が、まだ途中だ」

クビライが言った。

「お前の記録は、この帝国の歴史だ。途中で終わらせてはならない」

「承知しました」

舜は、深く頭を下げた。


家に戻ると、遼希が待っていた。

「父上、俺も行きます」

「ああ。一緒に来てほしい」

「何をすればいいですか」

「翻訳、交渉の手伝い、記録」

「全部、お前にやってもらう」

「はい」

「それと」

舜が続けた。

「向こうで、日本の人間と仲良くなってほしい」

「官僚や武士だけでなく、商人でも僧侶でも」

「普通の人間と、話してほしい」

「はい。やってみます」

「それから、もう一つ」

「向こうに残ってもらうことになるかもしれない」

「残る?」

「しばらくの間だ」

舜が言った。

「日本と元の間に、橋が要る」

「お前が、その橋になってほしい」

「覚悟は、できているか」

遼希は、しばらく考えた。

「はい。できています」


星歌が、二人の話を聞いていた。

「遼希まで、行くのね」

「そうだ」

「遼海は中原、遼西は西方、遼高も別の任務だ」

「これで、みんな、散らばってしまう」

「そうだな」

舜が言った。

「だが、みんな生きている。それは、変わらない」

「あなたは、何歳になりましたか」

星歌が、舜を見た。

「七十をとっくに過ぎた」

「日本まで、体は持ちますか」

「持たせる」

舜が、静かに言った。

「この使命を果たすまでは、死ねない」

星歌は、何も言わなかった。

ただ、舜の手を取った。

しっかりと、握った。

「帰ってくるのよ」

「帰る。必ず帰る」


出発の前夜。

遼海が来た。

「父上、俺も行けたら」

「お前は、ここにいろ」

舜が言った。

「クビライ様のそばで、記録を続けろ」

「俺がいない間、この帝国のことを書き続けてくれ」

「はい」

遼海が、遼希を見た。

「気をつけろよ」

「はい、兄さん」

「父上を、頼む」

「はい。任せてください」

遼海が、舜を見た。

「父上、無理はしないでください」

「俺は、無理をしなければここまで来られなかった」

「でも、体が」

「大丈夫だ」

舜が言った。

「まだ、筆は持てる。書けるうちは、動ける」


翌朝。

副使の阿剌罕が来た。

大柄な、武骨な男だった。

「阿剌罕殿、よろしくお願いします」

遼希が挨拶した。

「こちらこそ」

阿剌罕が答えた。

「俺は、戦なら分かる。だが、交渉は苦手だ」

「その分は、舜殿と遼希殿に任せる。俺は、護衛として同行する」

「ありがとうございます」

七星の者も、二人、同行することになった。

日本の情報を集めるためだった。


船に乗る前、泉州の港に寄った。

南宋の旧港だった。

今は、元の支配下に入っていた。

港には、アラビアや東南アジアの船が並んでいた。

「賑やかですね」

遼希が言った。

「そうだ。交易というのは、こういうものだ」

舜が言った。

「戦をしなくても、人と物が集まる」

「日本に、これを伝えるんですね」

「そうだ」

港の男が、声をかけてきた。

「お客さん、どこへ行くんですか」

「日本へ」

「日本か。遠いですね。気をつけてください」

「ありがとう」

阿剌罕が首をかしげた。

「あの男の言葉は、何語だ」

「閩語です。福建の言葉です」

遼希が答えた。

「俺には分かりません」

「俺にも分からない」

舜が言った。

「だが、日本語は、半分は分かるはずだ。それだけで、十分だ」


船が、港を離れた。

東シナ海が、広がった。

舜は、甲板に立った。

風が、顔に当たった。

(日本)

(何十年ぶりになるだろう)

(俺はもう、向こうの記憶が薄れてきた)

(だが、言葉だけは、まだ残っている)

(それだけを、頼りに行く)

遼希が、甲板に出てきた。

「父上、緊張していますか」

「していない」

「七十年以上、緊張したまま生きてきた」

「もう慣れた」

遼希が、小さく笑った。

「父上らしいですね」

「お前は、緊張しているか」

「しています」

「正直だな。それでいい」

舜が言った。

「緊張しない者は、大事なものを見落とす」

「緊張しながら、書け」

「はい」

遼希は、記録帳を開いた。

「1280年春、舜と遼希、大都を出発。副使阿剌罕、同行。目的地、日本」

書き終えた。

大都が、はるか遠くなっていた。

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