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わたくしの安寧

 ヘズガルズをお兄様に献上するという仕事を無事に片付けたおかげか、心穏やかな日々が続いていました。

 政務の間を縫ってお兄様が開いてくださる秘密の演奏会に足を運んだり、カイを呼びつけて暇潰しをしたり。貴族の婦人や令嬢と社交をすることもありますし、アラーニェちゃんともたくさん遊んでいます。お腹の子が生まれたら、アラーニェちゃんとたくさん遊ばせてあげようかしら。そうすれば、わたくしのように毒に強い丈夫な子に育ってくれるはずです。


「ねえお兄様、明日もお忙しいのですか?」

「午前は閲兵の予定があってな。午後からは軍部と、次の出兵計画について話し合わねばならん。確認せねばならない書類も届くだろうし……お前と会えるような時間は作れないだろう。すまないな、エイル」

「いいえ、お兄様の邪魔をするわけにはいきませんもの。でも、無理は禁物でしてよ?」


 晩餐の時にお兄様の明日の予定を確認するのは毎日の恒例行事です。わたくしが唇を尖らせると、お兄様は苦笑しながら頷きました。


「けれど、次はどこに兵を向かわせるのです?」

「大陸解放軍の動向を掴んだのだ。目障りな羽虫は潰すに限るだろう?」


 ああ、敗戦国の残党が徒党を組んで結成したという、あの。おとなしく負けを認めてお兄様に跪けばいいのに、まったく度し難いこと。


「おっしゃる通りです、お兄様。一日も早くお兄様の憂いが取り除かれることを、エイルは心よりお祈り申し上げておりますわ」


 国家転覆をもくろむような逆賊は、みなお兄様に討ち取られてしまえばいいのです。


*


「あらあら……。貴方、こんなところで何をしてらっしゃるの? ドレスが汚れてしまうでしょう」

「外に出ろと先生に言われたから、外で本を読んでいるだけよ?」


 日傘をさしてアラーニェちゃんとお散歩をしていると、芝生の上に座り込むリーヴァがいました。その手元には分厚い外国語の本があります。確か今は王妃教育を受けているはずですけれど……教師はきっと、休憩がてら身体を動かしなさいと言いたかったのでしょうね。


「つまり、貴方はお馬鹿さんなのね?」

「どうして貴方達兄妹はわたしを馬鹿呼ばわりするのかしら……?」


 本気で言っているのなら、やはりこの女は底なしのお馬鹿さんなのでしょう。


「お人形の次はお妃様だなんて、ずいぶんな出世ですこと。それまで耐え忍んだ甲斐がありましたわね」

「わたしが妃になることで無辜の女性を守れるのなら、わたしはいくらでも彼女達の盾になりましょう。いまだに彼を改心させられていないのはわたしの不徳、そのツケはきちんと自分で支払います」

「畏れ多くもお兄様の妻の座を得ることを、何かの罰のようにおっしゃらないでくださるかしら!」

「それに、彼の愛の形を尊重できるのもわたしくらいのものでしょうし……もしも妃になる人が別にいたとして、神に与えられた使命を遂行したいだけのわたしに対してその人が何か勘違いをしてしまったら申し訳ないわ。これからも引き続きシグルズに人道を教えるために妃の地位が必要なら、甘んじて受け入れましょう。そのための努力は惜しまないわよ」

「むぅ……」


 ちょっと嫌味を言ってやろうと思ったのに、返ってきたのはまっすぐすぎる眼差しです。お兄様の寵愛を受けるこの女を虐めるような者はいないでしょうが、この分ならたとえ現れても大丈夫そうでした。

 認めるのは非常に腹立たしいことなのですが、お兄様はリーヴァをいたく気に入っています。おそらく、生者の中でわたくしとカイ以外に身内とみなされているのはリーヴァだけでしょう。わたくしやカイとは違った意味で、リーヴァはお兄様に寄り添えているのかもしれません。

 リーヴァは二十歳前後で、すでに適齢期を過ぎています。同じ女性としてはあまり使いたくない言葉ですが、貴族社会で言うところの年増の嫁き遅れです。ですが平民という元の身分を思えば、未婚であってもおかしくない年齢でした。王侯貴族と違って平民なら女性でも手に職をつけて働く必要のある者がほとんどですし、自分の家庭を切り盛りしていくにはそのぐらいの年齢経験を積んでいなければいけませんもの。宮廷ではリーヴァの年齢を疑問視する声もありましたが、その出自を鑑みればまったく問題ないものとして扱われていました。

 お兄様とリーヴァの婚約は、身分を越えた純愛という美談として民草に広められています。身分差をものともしないこの婚約は、差別の撤廃を謳ったお兄様の印象をさらに肯定的に固めるのに一役買っていました。元聖鐘教徒であっても本人の性質次第で許される、罪はあくまでも聖鐘教にあって元信者そのものは憎まれていない……王太子の婚約者リーヴァ・インステインを見て、民はそう解釈したのです。それは民にとって、お兄様の公正さと寛大さの証明でもありました。


「意図はどうあれ、お兄様にふさわしい妃になる意志があるのなら構いませんわ。精々、お兄様に恥をかかせないようにしてくださいましね?」


 お兄様はリーヴァをご自分の妃とすることで、民からの支持をさらに盤石なものになさったのです。それならば、わたくしの出る幕はないというものです。だからと言って、わたくしのお兄様を洗脳したり横取りしたりするのは許しませんけれど!


*


 季節はゆるやかに移り変わっていきます。ヘズガルズもすっかり新体制に馴染み、ノルンヘイムのいい連合国として円滑な関係が続いていました。交易で栄えるヘズガルズは、案の定ノルンヘイムのいい養分になってくれています。イズンガルズの皇女は、留学という形で再来週にはノルンヘイムに来るようでした。

 さすが終焉の獣(フロディ)の加護のある組織だと言うべきか、いまだに大陸解放軍はしぶとく世界を荒らしています。小規模の部隊で無差別に居住区や旅人を襲撃しては略奪を行う彼らのことは、お兄様だけでなく諸王にとっても頭痛の種のようでした。幾度となく殲滅作戦が決行されていますが、潰しても潰してもどこからともなく残党が湧いてくるので誰もが手を焼いているのでしょう。

 大陸解放軍のような少数部隊が相手であるせいか、カイはその作戦に参加せずにまだわたくしの傍にいました。今日もわたくしのお散歩に付き合わせています。カイの魔術は便利ですが、迂闊に使えば無関係の民まで巻き込んでしまいかねませんものね。


「この半年間が、人生で一番動いてる気がする……」

「だらしないですわよ、カイ。夜の間だけでも運動なさいな」


 子供のころはお兄様と武術の練習をしていたでしょうし、従軍経験だってあるのに。わたくしとお散歩するだけでへばるだなんて、情けないことです。


「エイルがあてもないままうろうろしたり、思いつきで目的地をころころ変えるからだろ! 君が転ばないように気を使うの、結構大変なんだからな!」

「だってこの子が欲しいというから、たくさん食べてしまうんですもの。その分運動もしませんと」


 子もお腹の中で健やかに育っているのか、わたくしのお腹はすっかり張っていました。動きづらくはありますが、お医者様からも散歩程度なら続けるほうが安産に繋がると言われているので今日もたくさん歩くつもりです。

 この子もきっと、もうすぐ生まれてくるのでしょう。男の子かしら、それとも女の子かしら。


「あれは奴らの罠だ、補給路は無視して北へ迂回しろ。奴らの真の目的は――――恐らくそこに奴らの本拠地が――――」


 回廊に、足早で規則正しい靴の音がいくつも響いてきます。それにお兄様の声も。きっと、次の殲滅作戦に向けての計画を練っているのでしょう。戴冠式はもうすぐそこまで迫っています。きっとその日までに、お兄様は国内の憂いをすべて取り除くおつもりなのでしょう。


「おおエイル、今日も散歩か。転ばぬように気をつけろよ」

「仰せのままに、お兄様。ですが、カイがいるので平気ですわ」


 案の定、角を曲がるとお兄様達がいらっしゃいました。お兄様はわたくし達に気づくと破顔して手を振ってくださいます。


「予定日が近いと聞いている。私はしばらく戦場に出向かねばならんから、お前の傍にはついていられないが……カイ、エイルの傍を離れるなよ。不在の私に代わってな」

「仰せの通りに」

「お兄様、出陣の際には必ずレーヴァテインを持っていってくださいな」

「わかったわかった。案ずるな、解放軍を名乗る逆賊共は残らず狩り尽くしてやろう」


 なんという心強いお言葉でしょうか。お兄様ならば、きっとやり遂げてくださるでしょう。物語の中でさんざんお兄様をもてあそんできたスルトが地に這いつくばる姿を見られないのは残念ですが、お兄様の口から武勇伝を聞かせていただくのを楽しみに待ちましょう。


*


 月のない夜でした。ひどい陣痛に襲われたと思ったら、気づいた時にはもう元気に産声を上げる赤子を抱いていたのです。出産時の記憶はほとんどないのですが、喉がひどく痛みますし、立ち会っていたカイとお医者様が何故か傷だらけになっているので、さぞ壮絶な戦いが繰り広げられたのでしょう。

 わたくしの腕の中で、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして泣いている男の子がいます。こんなに大きい命が、わたくしのお腹にいただなんて……。


「カイ、貴方も抱いてみますか?」

「……ちょ……待って……」


 どうしてカイはわたくしよりも虫の息なのでしょう。記憶がない間、一体何かあったのかしら?

 カイは呼吸を整えてから赤子を受け取ります。その腕は震えていました。


「重っ……!?」


 わたくしが無事に出産を済ませたことを伝えるため、お医者様は席を外しています。今この場には、お兄様から直々に名代を任されたカイしかいませんでした。


「ずっと考えてた、子供の名前。……ロキ。この子の名前は、ロキだ」

「あら、いい名前ですわね。この子も気に入ったみたい」


 ロキを壊れもののように抱えたまま、カイはぎこちなく――――けれどとても幸せそうに微笑みました。

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