僕の忠誠
* * *
シグルズに呼び出されたのは、よく晴れた夜のことだった。指定されたサロンには誰もおらず、バルコニーに続く窓が大きく開けられている。夜空の明かりを頼りに目を凝らせば、ガーデンテーブルセットの傍に佇むシグルズが見えた。
どうやらシグルズはヴァイオリンを弾いているらしい。誰にも邪魔されたくないからだろう、風の魔術を応用して設置された防音効果のある結界がバルコニーに張られているようだ。声をかけながらゆっくり近づき、結界の中に入る。僕に気づいたシグルズは演奏をやめないまま、僕に座るよう目だけで指示を出した。言われた通り椅子に座ってシグルズを待つ。心に融けていくような旋律が終焉を迎えた時、僕は自然と拍手をしていた。
「よく来たな。エイルはもう休んだか? エイルの様子はどうだった?」
「呆れるぐらいに爆睡してる。体調は安定してるみたいだし、元気そうだよ」
向かいの席に座り、僕の返答を聞いたシグルズは満足そうに微笑んだ。戦争の事後処理のせいで、最近のシグルズは何かと忙しい。イズンガルズから持ち掛けられた停戦条約も受理することに決めたので、国内外の有力者と毎日何かを話し合っているし、少しでも時間が空けば国内の視察や民の意見陳述に充てていた。お兄様は政務をこなしてばかりだと、エイルも寂しそうにしてたっけ。
とはいえ、シグルズが政務に打ち込むのはいつものことだろう。今日は、身代金を支払われなかったイズンガルズ側の同盟国の捕虜達の一斉処刑を見学していたはずだ。恨むなら身代金を払わなかった祖国を恨んでほしい。ちゃんと支払った国の捕虜達はきちんと解放したんだから。
一方の僕と言えば、日がな一日エイルにこき使われているだけだった。エイルの散歩に連れ回されて、エイルのお茶の時間に付き合わされて、やれ本を持ってこいだのやれ食べ物をよこせだのと喚くエイルに注文通りの品を配達してやっている。普段のようにシグルズの傍に侍って補佐を務めることもなければ、宮廷魔導師の城で書類仕事に追われることもない。引きこもって魔術の研究ができないことは不満だったけど、事実上の休暇と言っていい状態だろう。
エイルの護衛は五日前にシグルズが言いだしたことで、それ以来ずっとこんな調子だ。僕だけこんな悠々とした時間を送っていいのか不安になる。まさかシグルズは、僕をお払い箱にしようなんて思っていないよな……?
「実は今、私はリーヴァとある遊びをしていてな。そのせいで、あまりお前達と私的な時間を過ごせんのだ。ふと気を抜けば、私はリーヴァに負けてしまう。許せ、カイ」
「遊び? まあ、あの型破りなリーヴァとなら、何をやってても驚かないけど……」
最近のシグルズの異変と言えば、僕やエイルを痛めつけてこないことだろう。犯罪者はあっさり死刑に処すし、反乱の芽がありそうな領地は早々に兵を向かわせて更地にする勢いで制圧しているから、丸くなったということはなさそうだけど。
「でも、ならなんで急に僕を呼び出したんだ?」
「いやなに、そろそろはっきりさせておこうと思ってな」
シグルズは微笑を崩さない。けれど圧が伝わってくる。嫌な汗がにじんだ。
日光を遮るために季節を問わず厚手の服を着こむ必要のある僕が一番初めに習得したのは、冷気を操るための魔法だ。水と風の応用である氷の魔術こそ僕の一番の得意分野だと言っても過言ではない。薄着をしていい夜とはいえ、今日のような蒸し暑い日も僕はひっそり冷気を纏っている。……だけど今僕が感じているこの寒気は、僕にだけしか感じ取れない魔術的な涼しさではないだろう。
「エイルがお前に身を委ねたのは、私も知るところだ。無論、お前がかねてよりエイルに想いを寄せていたこともな」
「ッ!」
「親友と最愛の妹がひそやかに結ばれたことは、私とて祝福しよう。エイルの伴侶を定めたのは私だが、それも些事に過ぎん。死別か離縁かわからんが、遅かれ早かれエイルは寡婦になるだろうしな」
「……何が言いたいんだ、シグ」
「私が憂いているのはその後のことだ。ヘズガルズの現王朝からエイルが実権を奪い取ったとき、お前はどうする? エイルの元へ行き、傍で我が子の成長を見守るか? それともこの国から出ずに、どこぞの令嬢を娶る気か?」
「僕は君の側近だ。何があっても僕はノルンヘイムから離れないし、誰とも結婚する気はない」
家族という存在は、僕には縁遠いものだった。それでも寂しいとか、悲しいとか、そんな風に思ったことなんてない。父さんや母さんや弟達とも違う、別の家族が欲しいと思ったことだってない。
ラシック家の次期当主は僕だけど、父さんは僕の後継者を上の弟かその子供にする気だ。他の貴族子息のように結婚活動にいそしむには、僕には悪評が立ちすぎたから。
引きこもりがちで陰気な性格、不気味な白い髪と金色の目に悪魔のような牙、陽の下に肌を晒せない特異な体質、数え切れないほど人間を殺した事実。魔術一辺倒の僕はどうあっても魔導師としてしかいられない。上の弟のように領地経営に意欲的になることも、下の弟のように社交界の人気者になることもできなかった。シグルズのおかげで表向き白髪金目や紫色素への差別意識は薄れていったけれど、まだ完全な意識改革には至っていない。それだけ差別の文化は根深かったし、なにより僕自身が周囲に長く心を閉ざしていた。
僕の魔術の才能と、シグルズの一番の側近という立場があれば、僕のように瑕疵だらけの男にも嫁いでくれるという奇特な令嬢も見つけられるかもしれない。だけど、それはきっと誰にとっても不幸な生活のはじまりだ。だって僕はきっと、妻になる人よりシグルズを優先してしまうし――――ふとした瞬間に、エイルの影を探してしまうから。
だから僕は、生涯独身を貫くつもりだ。僕のことを制御のできない失敗作だと思っている父さんと違って、僕にまだ道具としての新しい価値を見出そうとする母さんは“あわよくば”を諦めきれていなかったみたいだけど、僕と父さんの説得の甲斐あってなんとか引き下がってくれていた。僕の妻なんてものになる不幸な女性はいないし、シグルズとエイルが公表しない限り僕の血を引く子供は存在しないことになる。
「そうか、それがお前の答えか」
シグルズは、何かの答えを出したようだった。僕を見つめる魔性の瞳に、もう重圧は感じられない。
「そうそう、実は妃を迎えることにした。相手は無論リーヴァだ。臣下ではなく友として、まずはお前に伝えようと思ってな」
「それは……おめでとう? だけど、波乱を呼びそうな選択だね」
僕の記憶が確かなら、リーヴァは孤児で、しかも元聖鐘教徒だったはずだ。強豪国の次期国王の正妃になるには少し障害が多い。その座に収まりたがる令嬢は、それこそ星の数ほどいるんだから。
「だが、美談の作れる相手でもあるだろう? リーヴァ自身も馬鹿で単純な女だ、いくらでも承諾させる手はある。……それに、私に婚約者がいないのをいいことに、周囲があれこれとうるさくてな。このままでは十かそこらの小娘を王妃として押しつけられかねん。確かに皇女の身柄は手元に置きたいが、だからといって妻になどできるか」
苦虫を噛み潰した顔でシグルズはそう吐き捨てた。小娘……多分、イズンガルズの皇女のことだろう。シグルズがずっと探しているという、不老不死と蘇生の力を持つとされる禁断の秘宝。それはイズンガルズの皇家に伝わるものだ。イズンガルズ皇家に対する人質は取っておくに限る。
イズンガルズは自国の皇女をシグルズの妃として差し出すことで従順な敗戦国らしく振る舞いつつも、主導権を奪う機会をうかがいたいんだろう。人質が欲しいノルンヘイム側としては断りづらいやり方だ。でも、だからと言って子供に正妃の座を与えてやる必要はない。
「リーヴァとの婚約は、戦勝を祝う宴で発表するつもりだ。その時までにリーヴァを納得させる演説と、民に流布する美談を考えておかねばなぁ」
「君が楽しそうで何よりだよ……」
「宴にはお前も参加するのだぞ? 何せお前は我が国の勝利に最も貢献した英雄なのだからな」
「こうして君から褒めてもらえたんだ、それだけで十分さ。派手なねぎらいは、他の奴らにしてやって」
この前、シグルズは僕を「変わった」と言った。でも、僕から言わせればシグルズも、何かが少し変わったのかもしれない。
*
シグルズがリーヴァと結婚するという話を、エイルは荒れこそしたものの僕が思ったよりもあっさりと受け入れた。「物語よりも早く戦争が終わったからかしら……」小首をかしげた意味は、僕にはわからなかったけど。
ノルンヘイム側の勝利を記念して催された夜会の招待状は、僕の家にも届いていた。今日のエイルは盛装だけど、妊娠中でも着やすいようなゆったりしたドレスと、かかとの低い靴を身につけている。賓客に挨拶だけすれば下がっていいともシグルズから言われていたはずだ。……エイルが下がるころには僕も帰るか。僕はシグルズのためにできることをしただけで、有象無象からの称賛とかどうでもいいし。
今日の夜会には、ノルンヘイム側についた国家の有力者達が招かれている。当然、エイルの夫と義両親にあたるヘズガルズ王家の人間もだ。ルファル王子にエスコートされるエイルは、僕から見ても完璧な微笑を浮かべていた。……やっぱり、どこから見ても絵になる二人だ。どうしてエイルは頑なにあの王子を拒むんだろう。あの王子が馬鹿でも、掌の上でいくらでも転がせそうなものなのに。それこそ自分好みに教育したっていいじゃないか。
シグルズがエスコートするのはもちろんリーヴァだ。王太子が連れている桃色の髪の謎の美女に人々はざわついていたが、リーヴァは何も気にしていないようにまっすぐ前を向いていた。彼女のことを、シグルズはどう説得したんだろう。
夜会は順調に進んでいく。戦争の功労者達をシグルズが称え、リーヴァとの婚約を発表し。たとえうわべだけのものだったとしても、会場の大広間は祝福で包まれていた。
ダンスの時間になると、エイルがルファル王子に断りを入れて彼と別れてバルコニーに向かうのが見えた。僕もここに残る意味がなくなったので、予定通り大広間を後にする。廊下を歩いていると、不意に背後から呼び止められた。
「エイル? こんなところで何してるんだ? ファムはどうした?」
「下がらせました。誰にも邪魔されずに一人でいたい気分だったんですもの」
それはエイルだった。悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、エイルは僕のほうにやってくる。香水の甘い香りがした。
「外の空気は十分吸えましたから、そろそろ休もうかと思って。カイ、わたくしを部屋まで連れていってくださる?」
「誰かに見られたらどうする。ここにはヘズガルズ王家の人間も来てるんだぞ」
「大広間の外なのですから大丈夫です。誰もわたくし達のことなんて見ていませんわ。それに、わたくし達がどこにいようと、わたくし達の自由でしょう?」
拒否する言葉は喉まで出かかった。それなのに、せがんでくるエイルの手を振り払えない。結局、寝室までエスコートする羽目になってしまった。
おやすみなさいまし、とエイルが部屋の向こうに消える。扉が閉まろうとする刹那、物憂げな青い瞳が僕を絡めとった。
「わたくしがここにいる間、お兄様がどうしてわざわざ貴方をわたくしの護衛に指名したのか、貴方もわかっているでしょう? ……素直におなりなさい、カイ。わたくしばかりに言わせてずるいです。わたくしの慈悲深さにも限度というものがありますわ。それなのに貴方ときたら、いつまでもうじうじうじうじと卑屈なこと。中途半端にもほどがあるでしょう」
僕の返答を待たずに扉は閉まる。
……そんなこと、僕が一番わかってるさ。
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