“主人公”の困惑
* * *
――――自分がゲームの世界に転生したと気づいたのは、果たしていつのころからだったか。
俺だけじゃない。双子の妹のエムブラも転生者だ。どうしてわかったのかというと、キーワードのようなものがあったからだ。態度が変だったので、何となくそうかもしれないと思った俺は、ある日エムブラにこう言ってみた。「しゅけしゅか」と。結果はビンゴ、エムブラは奇声を上げて飛びついてきた。
俺もエムブラも、この世界を知っていた。
シミュレーションRPG『終焉の獣と祝福の鐘』、通称『しゅけしゅか』。それは、長ったらしい横文字の(意味どころかそもそもスペルの読みもわからない)名前の同人サークルが出しているフリーゲームだ。プレイヤーは舞台となる二つの国のうちのどちらかを選び、そこで両国の戦争――――ひいては世界の滅亡にまつわる動乱に巻き込まれていくことになる。
転生者と言っても、自分達の前世についてはおぼろげだ。この世界ではないどこか別の世界に生きていて、『終焉の獣と祝福の鐘』をやりこんでいた誰か。それが、“俺達”が俺達になる前の“俺達”のすべてだった。
『終焉の獣と祝福の鐘』を出していたサークルについても多くは知らないし、他の作品もやったことはない。たまたまSNSで『終焉の獣と祝福の鐘』の布教画像が流れてきて、どうせタダだしパソコンにインストールするだけだし、暇つぶしぐらいにはなるかと始めたのがすべてのきっかけだった。……思ったよりのめり込んでしまっただけで。
エムブラの話では、どうやら件のサークルは、ジャンルを問わずいくつものフリーゲームを開発しているらしく、あげく漫画や小説も発行しているようだった。
結構大掛かりなものらしく、実はどこかの企業がかかわっているんじゃないかなんて噂もあるが……開発スタッフ陣はおろか登用声優すらもまったく不明の、謎の多いサークルのようだった。もともと俺がその同人サークルの大ファンだったとしても、中の人達についての知識はこのレベルどまりだっただろう。
『しゅけしゅか』は、大きく分けて三つのルートがある。そこからさらに様々なエンディングに分岐していくから、スチルやらイベントやらアイテムやら全回収しようと思えば一徹二徹じゃ到底足りない。よくパソコンのスペックが耐えられたものだ。
というか、無料でやっていいクオリティでもないはずなんだが……やっぱりバックに企業がついてるのか? それとも石油王の道楽なのか?
ユーザーの合言葉は「お金はどこに振り込めばいいですか?」。グッズだとか設定資料集だとか、そういうものを出してほしいと公式に嘆願した剛の者もいた。俺も出した。結局その願いが届くことはなかったが、正直『しゅけしゅか』に転生できたんだからもう死んでもいい。いや死んだら駄目だ。
フリーの同人ゲームということもあってジャンルとしてはマイナーだったが、その分根強い人気を誇っていたのだ。ちょっとSNSを調べればファンアートがざくざく出てくるし、規模こそ小さいものの夏冬の大きなイベントで同好の志が集まることもよくあった。
どうして『しゅけしゅか』が、ごくごく限られた界隈とはいえ熱狂的な信者を獲得していたのか。それはストーリーが、この間抜けな響きかつ絶妙に言いづらい略称から連想できるものとは真逆だったからだ。初めにこの略称を考えた奴は絶対そのギャップを狙っていたと思う。
まず、戦争が主題ということもあって人がとても簡単に死ぬ。それはもうばかすか死ぬ。主人公でさえよく死ぬ。頼れる兄貴分も、可愛いヒロインも、クールなイケメンも、ちょっと目を離した隙に死んでいる。選択肢次第で回避できる死ならまだいいが、どうあがいても確定で死ぬキャラのほうが絶対に多い。
そして、誰が死んでもその死を(色々な意味で)惜しみたくなるほどみんなキャラが立っている。なんというか……敵も味方も、みんな生きているのだ。主人公を導いてくれるバルドル爺とかゼードパイセンとか、主人公の説得に胸を打たれて祖国に反旗を翻すジェレゴさんとかファムちゃんとか。主要キャラにはみんなそれぞれ熱い見せ場があるし、AIで動くNPCとは思えないほど人間らしかった。
あとは……そうだな、ゲームとしてやっているだけでも十分楽しい操作性と、BGMや絵が綺麗なことだろうか。細かい背景までよく描き込まれている。いやほんとよくスペック足りたな……。他のゲームであそこまでグラフィック再現できたことないのに……。
ダークな『しゅけしゅか』の世界は、刺さる奴にはとことん刺さっただろう。俺なんてみごとツボを貫通された。
主人公ルートの皇国編や主人公ルートの王国編はもちろん、隠しルートの神域編も徹底的にやり込んだ。多分、コンプリート率は百パーセントなんじゃないだろうか。費やした時間はプライスレス。
今の俺の身体は二歳だ……と思う。孤児なのではっきりはしないが、次の誕生日が来れば三歳になるという認識だ。前世の記憶のせいか、身体が思考に追いついていかないなぁと思うことはあるが、それはそれ。あと十五年後には『しゅけしゅか』が始まる。この世界が辿るエンディングを決めるのは、俺とエムブラだ。
あと五年も経てば、シグルズ王子が即位するだろう。そしてシグルズの命令で、皇国への侵攻が始まる。そこで俺とエムブラは生き別れになるが……ゲーム通りなら、俺もエムブラもきっとうまくやっていけるはずだ。
シグルズは最悪の暴君であり、『しゅけしゅか』の中ボスだ。皇国編や王国編ではシグルズがラスボスとして描かれているが、ラスト付近で真の敵――――終焉の獣の存在が示唆される。そこでキャラ達は新しい絶望に震え、プレイヤーはさらなる強敵の予感にわくわくするという寸法だ。
終焉の獣と実際に戦えるのは神域編だけだが、神域編にはシグルズのイベントがある。これまでずっとラスボス張ってたシグルズがあっさり終焉の獣に噛み砕かれて壮絶に死んだあのシーン、ガチの絶叫をした人もそれなりにいるんじゃないだろうか。俺は別にシグルズ推しというわけでもなかったが、その俺ですら呆然としたし。
シグルズは、要約すればドSでマザコンのかませ犬だ。強キャラのオーラを漂わせているし、実際攻略サイトでも苦戦報告が並ぶほどには強いのだが、しょせんは中ボスでしかない。終焉の獣のほうが強いし、弱点がないわけではないのでそこさえ突くことができれば、被害も少なく勝てる。そのせいか、ファンアートではネタキャラにされがちだった。
とはいえストーリーでの所業は、吐き気を催すほどのクズだ。シグルズのせいでたくさんのモブが、そして誰かの推しキャラが死んだり苦しめられたりしている。だからしょっちゅう、怒りのままガチパーティを組んだプレイヤー達に容赦なく叩きのめされたり、最短何ターンで倒せるか競われたりされていた。……あれ? 結局ネタ扱いなのか?
そんなシグルズは、手の施しようのない悪役や、変態のイケメンが好きなお姉様がたにはめちゃくちゃ人気で、屈折した愛情表現をされてるらしかった。
『しゅけしゅか』で一番ファンの調教され具合と変態ぶりと性癖がやばいキャラは誰かと問われたら、俺は間違いなくシグルズだと即答するだろう。
今のところ、この世界のシグルズの悪い噂はまだ聞かない。それもそうか。貧民街で暮らす幼児の耳にまで悪評が届くようなら、いくらなんでも王様考え直せよ……とさすがに言わざるを得ないからな。
ただ、一つだけ気になることがある。シグルズは、王様の子だけれど継承権がないという複雑な立場だ。そこでゲームの中でのシグルズは、異母兄に当たる第一王子を暗殺して王位継承権を得た。現実においても、その第一王子様とやらはとっくに死んでいた。こうしてシグルズは王様のたった一人の子供になった――――それなら、エイル王女っていうのは一体誰だ?
エイルなんてキャラ、『しゅけしゅか』にはいなかった。たとえ回想であっても存在が語られたことはないし、モブキャラとしてであっても存在を匂わせるようなものすらない。あそこまで作りこまれたゲームで、中ボスの妹が完全な空気扱いを受けるなんてことがあるのか?
でも、現実にはそういう名前の女の子がシグルズの同母妹として確かに実在している。俺が実際にその王女様を見たことがあるわけでもないし、王宮の話がちゃんと耳に届くこともない。だから何かの間違いだとは思うんだけど……なんとなく、引っかかるものがあった。
それに先週、大公オレルスが死んだというのも変な話だ。ロリコン紳士のオレルスは、シグルズの叔父という立場ながらシグルズの圧政を終わらせるために主人公に協力してくれる。変態の俗物で、一筋縄ではいかない腹黒なところもあるけど、なんだかんだで味方キャラだ。そんなオレルスがゲーム開始前に死ぬというのも考えづらい。
オレルスがいた宮殿で火事が起きて、噂に尾ひれがついてオレルスまで死んだことになっているだけだとは思うんだけど、ちょっと心配だ。だってゲームと違うことが起きたら、どう対処すればいいのかわからない。
もうちょっとオレルスの宮殿で起きた火事について知りたかったんだが、貧民街ではろくな情報も集まらなかった。王族に連なるお貴族様の事故死よりも、今日食べるパンのほうが大人にとっては大事らしい。どうせならトゥルールートである神域編を目指したいから、そのためにもイベントの取りこぼしはしたくないんだが……。
神域編のアンロック条件は、王国編と皇国編でどちらもベストエンドを迎えること。そうすることで、次の周回に神域編への分岐が生まれる。王国編のベストエンドは革命を起こしてシグルズではなくオレルスを王にすることで、皇国編のベストエンドはシグルズに囚われたイルザ姫を奪還して戦争に勝利することだ。
この世界は現実だから、周回という概念はないとしても……神域編でも、一度シグルズから王位を奪う必要があるんだよな。だけどもしもオレルスがいないなら、革命軍の旗印は誰にすればいいんだ?
「アスク、難しい顔してどうしたの? そろそろ消灯の時間よ?」
「現実はゲーム通りにいかねーなって」
「当たり前じゃない、もうここはゲームじゃないんだから」
エムブラの言っていることは正しいんだけどさ。でもどうしても、俺は『しゅけしゅか』を基準にして考えてしまうわけで。『しゅけしゅか』の通りにやっていればベストエンドを迎えられるはずなのに、知っているルートと違う展開になったらどうすればいいんだろう。
「ほら、ろうそくがもったいないわ。夜更かししたら先生にまた怒られちゃうし、もう寝ましょ」
食い下がろうとしたけど、他の子供達が来てしまったせいでエムブラと話しづらくなる。しぶしぶ薄い布団の中に潜った。この孤児院では、子供も先生も眠るのは同じ部屋だ。貧乏なこと以外は優良経営の孤児院だけど、『しゅけしゅか』についてエムブラと秘密の話ができる時間が限られているのはいただけない。
目が覚めたのは、妙に熱くて苦しかったから。
変な音がする。変な臭いがする。夏の暑さとはまた違う、地獄の業火に焼かれているような――――火事だ!
飛び起きる。火の手はどんどん大きくなっていった。こんなイベント知らない。主人公が幼少期、火事に見舞われていたなんて聞いていない。
「みんな起きろ! 火事だ!」
叫んだけれど、それで動いたのはほんの数人。だってもう、何人も、火の中に。
そうだ、エムブラは? エムブラは……まだ無事だ! 泣きながら「アス――」俺の名前を呼んでこっちに来るはずだったのに。
あれ? なんで、エムブラの上に、柱が?
倒れてきた柱はめらめら燃えていて、エムブラの声は何も聞こえない。どうしよう、どうしよう。主人公は剣の才能があると言われていたけれど、本物の剣なんてまだ握ったこともない。俺は、俺には、なにもできない。だって燃え盛る孤児院と、みんなを飲み込んだ炎と、どんどん焼けていく妹を前に、一体何をすればいい?
結局できたのは、燃える瓦礫の隙間を縫って外に出ることだけだった。煙を吸い込んでしまわないよう、なるべく姿勢を低くして。それでも肺は焼けつくように痛む。俺は、みんなを見捨てて一人で逃げ出したんだ。
孤児院の外は地獄だった。何もかもが燃えている。酒場も、ボロ長屋も、うらぶれた路地も、廃墟も、掘っ立て小屋にも似た誰かの家も。孤児院が燃えただけなら、火の不始末だったのかもしれない。でも、貧民街全体が燃えているなんて。炎がすべてを包んでいる。生きている人はいなくて、みんなみんな黒焦げで、それで。
「なんだよ……なんだよ、これ……?」
ゲームでも、貧民街が地獄絵図に変わったことはあった。皇国が侵攻してきたからだ。一度は城下を陥落すかと思われた皇国軍だったけれど、結局皇国軍は敗退していった。戦死した王様に代わって、シグルズが指揮を執ったからだ。勝利を目前に油断した皇国軍は、あっという間にシグルズ率いる王国軍の反撃を食らった。
王国編の終盤で、その時の皇国軍の侵攻が、シグルズの手引きだった可能性が示唆されて。はじめは英雄王ともてはやされていた暴君が打った芝居は、主人公が背負う過去の闇になる。だけど、だけど、それにはまだ早すぎる。皇国軍が城下に迫るのはだいぶ先の未来の話のはずだ。まだノルンヘイムとイズンガルズの戦争は始まっていないんだから。
「生き残りか?」
「ッ!?」
物陰からぬっとあらわれたのは、黒い影だった。けれど黒焦げの死体が立ち上がっているわけじゃない。十三、四歳ぐらいの男だ。
「君のほかに生き残りは?」
「お、おれ……自分一人だけ、逃げて……みんな、きっともう、燃えて、それで、」
「落ち着きなよ。……そうか、生きているのは君だけなんだな」
目の前の黒い人が生きている人間であると認識して、俺はようやくそいつを見た。そいつもじっと俺を見ていた。
「みんな、みんな、焼けて、真っ黒で、あっちもこっちも死体だらけで、」
「それは僕も見てきた。火に焼かれれば、誰だって同じように爛れるんだ。もう個人の区別なんて付けられないぐらいだった」
そいつはまるで夜そのものみたいな、ゆったりとした黒いローブを羽織っていた。
フードとマスクに隠されていて、顔はよく見えない。わずかに垣間見えるのは病的な白い肌と白い髪。金の瞳だけがじっとこっちを見ている――――その姿に、既視感があった。
「世界のすべてがこうなれば、僕が嗤われることもなくなるのか? でも……それで昼に素肌を晒して出歩けるようになるわけじゃないから、結局何も変わらないか」
それは『しゅけしゅか』に出てくる敵だった。ゆったりとした白いローブを纏う、不健康そうな青年だ。年は確かぎりぎり三十の手前ぐらいで、実はイケメンなのに全身にひどい火傷を負っていて、いつもフードやマスクで顔を隠している陰気な魔導師。暴君シグルズの側近、宮廷魔導師カイ。この黒いローブの少年は、そのカイにどこか似ていた。
『しゅけしゅか』の開始は今から十五年後だ。逆算すれば年齢は合う。この黒ローブこそ、少年時代のカイだって。
でも、カイがこんなところにいるわけがない。カイといえば、あまりにもシグルズに忠誠を誓いすぎているせいで(公式でBL描写があったわけではないものの)二次創作だと七十パーセントの確率でクレイジーサイコホモ扱いされているような奴だぞ。残りの二十パーセントはぎりぎりブロマンスで、最後の十パーセントはヤンホモだ。
シグルズ命で貴族の子息でもあるカイが、シグルズのもとを離れて貧民街にいるのは違和感がある。
……違う。一つだけ、考えられる可能性があるじゃないか。
なんのためかはわからないけど――――もしもシグルズが、カイに貧民街へ行くよう命じたのなら。
だって、聞いたことがある。魔導師は、自分の放った魔術で怪我をすることはない、と。
俺だってところこどろに火傷を負っている。それなのにカイは涼しい顔だ。あんな動きづらそうなローブ姿なのに、焦げている様子すらない。もしこの火事が自然界の炎によるものなら、そんなことはありえないのに。
「へぇ……君のそれ、なんだかエイルと似てるな。元観客の役者って、エイル以外にもいたのか。……でも、君とエイルは全然違う」
「え……?」
「君は“綺麗”だ。エイルは清々しいほど歪んでるけど、君はどこも歪んでないから。僕から見ても、羨ましいくらいに」
それは独り言のようだった。その意味のわからない言葉の説明をする代わりだというように、カイはぽんと俺の頭に手を置いた。
「珍しいものが視えたところで、どうせ殺すから関係ないけど。皆殺しにしてくれって言われてるし。……それに、さ」
背筋が凍る。逃げないと、今すぐ、こいつから、
「――無垢なものは、無知なまま終わったほうが幸せだろ?」
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