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鯛もひとりはうまからず

6 鯛もひとりはうまからず


班長は、北新地からお初天神商店街に向かっていた。


足取りは、軽くない。


梅雨前の湿気のせいではないことは、自分でもわかっていた。


店を出てから、頭の中に残っているのは、さっきの席だった。


背筋を伸ばしてグラスを作る澪さん。


その向かいに座る、モデルのような男。


静かに会話をする二人。


派手な店の中で、そこだけ妙に落ち着いて見えた。


似合っていた。


悔しいとか、腹が立つとか、そういう単純なものではなかった。


ただ、自分がそこに座る絵だけが、どうしてもうまく浮かばなかった。


「そりゃそうやろ」


さっき呟いた言葉が、まだ喉の奥に残っている。


後輩ちゃんに電話をかけようとして、班長はスマホを開いた。


LINEの通知が一件、表示されている。


誰からか確認して、開こうとした瞬間。


画面が着信に切り替わり、スマホが震えた。


後輩ちゃんだった。


班長は小さく息を吐いて、通話ボタンをスワイプした。


「まーだーですかー、班長さーん」


耳元に、元気すぎる声が刺さった。


「もう着くわ」


班長は商店街の入口あたりを見た。


「あっ、見えてきたやろ」


「どこですかー?」


「お前、逆見てるやんけ」


遠くで、後輩ちゃんが反対方向を一生懸命探しているのが見えた。


その周りには、思っていたより多い人数が固まっている。


班長はその時点で、少し嫌な予感がした。


「お前……やったな」


「え?」


「全員はあかんって言うたやろ」


後輩ちゃんは、電話越しでもわかるくらい堂々と言った。


「はい。選抜してきました」


「何の選抜やねん」


班長は思わずため息をついた。


「んで、何人おんねん」


「八人です」


班長は近づきながら、実際に人数を数えた。


「もう数えたわ。俺入れて九人や」


そう言って、反対方向を見続けている後輩ちゃんの後頭部を、軽く小突いた。


「いたっ」


「こっちや」


「あ、班長さん!」


「電話切れ」


「はい」


後輩ちゃんは通話を切って、すぐに笑った。


「来てくれると思ってました」


「来るって言うたからな」


「ラーメンの神様です」


「財布やろ」


「近いです」


「ほぼ正解やろ」


周りの若手たちが、口々に挨拶する。


「班長、お疲れさまです」


「すみません、ごちそうになります」


「ありがとうございます!」


「まだ奢るって決まってへん」


班長がそう言うと、後輩ちゃんがすぐに手を挙げた。


「決まってます」


「お前が決めるな」


「多数決なら勝てます」


「数の暴力や」


班長はもう一度ため息をついた。


けれど、商店街の中で九人が広がっているのは、さすがに邪魔だった。


「とりあえず、こんな広がっとったら邪魔なるわ。店入ろか」


「やったー!」


「声でかい」


後輩ちゃんたちは、ぞろぞろとラーメン屋へ向かった。


金曜の夜のお初天神商店街は、人通りが多い。


酔った会社員。

二軒目を探す男女。

看板の前で迷うグループ。

店先から漏れる湯気と、油の匂い。


さっきまでいたラウンジの、柔らかい照明とはまるで違う。


狭くて、明るくて、少し騒がしい。


それでも班長には、こっちの方が落ち着いた。


ラーメン屋に入ると、店員が少し驚いた顔をした。


「九名いけます?」


班長が聞く。


「少し分かれてもらえたら」


「それでお願いします」


後輩ちゃんがすぐに言う。


「班長さんの近くがいい人ー」


数人が手を挙げかける。


「やめろ。合コンみたいにすな」


「ラーメン合コンです」


「聞いたことないわ」


結局、班長は端の席に座り、後輩ちゃんが当然のように隣に座った。


「なんでお前が隣やねん」


「幹事なので」


「いつからや」


「今からです」


班長はメニューを見た。


「好きなん頼め。ただし替え玉は一回まで」


「太っ腹なのに細かい」


「九人おるんやぞ」


「餃子は?」


「一皿ずつ分けろ」


「半チャーハンは?」


「お前は何を遠慮してる顔で攻めてきてんねん」


後輩ちゃんはにこにこしている。


若手たちは、楽しそうに注文を始めた。


醤油。

豚骨。

味噌。

チャーシュー麺。

餃子。

唐揚げ。

半チャーハン。


班長は途中で数えるのをやめた。


「これ、選抜したんやんな」


「はい」


「食べる量で選抜したやろ」


「将来性です」


「胃袋の?」


「はい」


「正直でよろしい」


しばらくして、ラーメンが運ばれてきた。


湯気が上がる。


狭いテーブルの上に、丼が次々と置かれる。


「うまそう!」


「いただきます!」


「班長、ごちそうさまです!」


「まだ食べてへんやろ」


笑い声が広がる。


後輩ちゃんは箸を割りながら、班長の顔を見た。


「班長さん」


「なんや」


「ラーメン、味してます?」


「してるわ」


「まだ食べてないのに?」


班長は箸を持ったまま止まった。


「うるさいな」


「今、麺じゃなくて遠く見てました」


「湯気見てただけや」


「湯気に人生映してました?」


「どんなラーメンやねん」


後輩ちゃんは少しだけ笑って、それ以上は聞かなかった。


班長は麺をすする。


確かにうまい。


熱いスープ。

濃いめの味。

飲んだ後の体に、わかりやすく染みる。


周りは楽しそうだった。


後輩たちはよく食べ、よく喋った。


仕事の愚痴。

上司の真似。

今日のカラオケで誰が何を歌ったか。

誰が音を外したか。


後輩ちゃんは、話の中心にいたり、端で笑っていたり、忙しい。


班長は時々ツッコミながら、財布の中身を少しだけ心配した。


それでも、こういう時間は嫌いではなかった。


誰かが腹を空かせていて、食べて、笑っている。


それを見ていると、自分の中の面倒くさい気持ちが、少しだけ遠くなる気がした。


けれど、完全には消えなかった。


スマホが気になった。


さっき見かけたLINE通知。


開こうとした瞬間に、後輩ちゃんから電話が来た。


誰からだったのか。


班長はスープを一口飲んでから、スマホを取り出した。


画面を点ける。


未読メッセージが一件。


澪さんからだった。


班長の手が止まった。


開く。


返信遅くなってすみません。

今日は来てくださってたんですね。

お席につけなくてすみません。

もしまだお近くでしたら、少しだけご挨拶できたら嬉しいです。


店を出る少し前に届いていた。


班長さんは、画面を見たまま固まった。


「……うわ」


隣の後輩ちゃんがすぐに反応した。


「どうしました?」


「いや」


「いや、の顔じゃないです」


「なんでもない」


「なんでもない人、ラーメンの前でそんな顔しません」


班長はスマホを伏せた。


けれど、すぐにまた表に返す。


もう一度読む。


少しだけご挨拶できたら嬉しいです。


見間違いではない。


自分は勝手に、彼女はあの男と楽しそうで、自分なんか席に行かない方がいいと思った。


だから店を出た。


後輩ちゃんたちにラーメンを奢ると言って。


でも、彼女は送っていた。


少しだけご挨拶できたら嬉しいです。


「班長さん」


後輩ちゃんの声が、今度は少しだけ静かだった。


「戻ります?」


班長さんは一瞬、顔を上げた。


後輩ちゃんは、ふざけた顔をしていなかった。


「……いや、ってかお前、人のLINE読んだやろ今」


「勝手に見えました。戻らなくていいんですか?」


「もう店出てるし、こっちも連れてきてるし」


「私らは大丈夫ですよ」


「いや、ほんまにええ」


班長は返信欄を開いた。


しばらく指が止まる。


何を書けばいいのか、すぐにはわからなかった。


店を出てしまいました。


すみません。


会いたかったです。


少しだけ話したかったです。


そんなことは書けない。


結局、送ったのは短い言葉だった。


すみません。

今、気づきました。

もう店を出てしまいました。

こちらこそ、ご挨拶できずすみません。

今日はありがとうございました。

無理せんといてください。


送信する。


既読はすぐにつかなかった。


班長はスマホを伏せた。


目の前のラーメンは、少しだけ伸び始めていた。


「班長さん」


「なんや」


「伸びますよ」


「わかってる」


「ラーメンも、タイミング大事です」


「急に名言っぽく言うな」


「恋も?」


「黙って食え」


後輩ちゃんは、少しだけ笑った。


でも、それ以上はからかわなかった。


班長は麺をすする。


さっきより少し、味がわからなかった。


周りでは、若手たちがまだ楽しそうに食べている。


「替え玉いっていいですか?」


「一回までや言うたやろ」


「ありがとうございます!」


「まだ許可してへん」


「顔が許可してます」


「今日は俺の顔、勝手に読まれすぎや」


笑い声がまた上がる。


班長も少しだけ笑った。


けれど、その笑いの奥には、さっきの未読が残っていた。


食事は賑やかだった。


ラーメンはうまかった。


後輩ちゃんたちは楽しそうだった。


それでも班長さんは、何度かスマホを見た。


既読は、まだついていなかった。


その頃、店では。


澪がようやく席を離れ、ポーチからスマホを取り出していた。


班長さんからの返信が届いている。


すみません。

今、気づきました。

もう店を出てしまいました。

こちらこそ、ご挨拶できずすみません。

今日はありがとうございました。

無理せんといてください。


澪は、その文字を見て少しだけ目を伏せた。


会えなかった。


ほんの少しだけでも話せたらと思った。


でも、もう彼は店を出てしまっていた。


それなのに、最後の一文だけが、胸に残る。


無理せんといてください。


同じ言葉。


何度も、彼はそれを言う。


店に来てくださいとは言わない。

責めもしない。

待っていたとも言わない。


ただ、無理をするなと言う。


澪は、短く返信を打った。


ありがとうございます。

班長さんも、飲みすぎないでください。


送信して、スマホをポーチへ戻す。


席へ戻らなければいけない。


笑顔を作らなければいけない。


お酒を作らなければいけない。


けれど、さっきより少しだけ、息がしやすかった。


ラーメン屋では、班長のスマホがまた震えた。


後輩ちゃんがすぐに見た。


「来ました?」


「見るな」


「見てません。聞いただけです」


班長さんは画面を開いた。


短い返信を読む。


少しだけ、肩の力が抜けた。


「飲みすぎないでください、やって」


「誰ですか、優しい」


「うるさい」


「班長さん、今ラーメンですけどね」


「酒はもう飲んでへん」


「だからセーフですね」


班長は少し笑って、スマホを伏せた。


目の前のラーメンは、もう少し伸びていた。


でも、まだ食べられる。


賑やかな後輩たちの声の中で、班長はもう一度箸を取った。


鯛もひとりはうまからず。


たぶん、ラーメンも少しだけそうなのだと思った。


誰かと食べているのに、心のどこかが一人なら。


けれど、誰かから一言届くだけで、伸びかけた麺でも、少しだけ味が戻る。


班長はスープを飲んだ。


熱さが、少し遅れて体に広がった。

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