03.異界への導き
「 ――――――――― 何を、していた?」
暗闇に響いた声が幾重にも反響し、ふと、獣…ティーダは視線を上げた。
冷たい石畳の牢獄の鉄柱越しに、黒衣に身を包んだその影は、ゆったりと笑みを浮かべている。
緩やかな曲線を描く身体は、黒衣の影が艶かしい"女"であることを示した。
胸元に流れる髪は、アメジストよりもなお深い、紫紺。赤い、紅い、朱い、その唇が一層闇に映えた。
鮮やかに濡れた色に嫌悪を抱き、ティーダは目を細めると顔を背ける。まるで、その姿を視界に入れることすら、拒むように。
そんなティーダの態度に、黒衣の女はくつくつと喉を振るわせた。
「お前、本当に面白いよ。わたしの結界を、精神を切り離すことで潜り抜けたか ―――――― 」
言って、ふっと視線をティーダへ流す。
「そうして、ようやくこの地へ帰ってこられたのだろう? お前の可愛い主は…」
その言葉は、ティーダを激昂させるには十分だった。
凍るような冷たい視線で、ティーダは女を睨みつける。
「黙れ、千の民に背を向けた愚かな裏切り者よ…! ぬしごときが、主様を語るか。愚にも付かぬわ!」
喰らい付くように声を荒げたティーダに、けれど女は、更にくつくつと嗤笑した。
「おお、怖い…。けれど、今のお前に何ができよう? 力を封じられた今のお前に、何が?」
「 ――――― 黙れ!」
「ああ、黙ろうとも。せいぜい、そこで指をくわえて待っておいで? お前の可愛い主が、わたしの愛しい主人の下へ堕ちるのをね…」
くつくつ、くつくつ。
闇に浮かぶ女の瞳は、ティーダと同じ、セピアと翡翠のオッドアイ。
女は双眸を細め、笑い声は、牢獄の宙に響いて消えた。
ティーダは、未だ、女の消えたその位置を睨みつけたまま、顔を歪める。
ぎりっと、噛み締めた牙が音を立てた。
世界は混沌に満ちている。
そうして。
『神子』は、ようやくこの地へと舞い戻られたのだ ―――――――――
「 ――――――――― え?」
気が付けば、目の前には鬱蒼と生い茂る木々。
舞い戻った意識に、琴子が発した第一声は、そんな呆然とした呟きだった。
未だ見開いたままの瞳を左右へ動かし、辺りを見渡す。しかし、依然として目に映るのは青々とした木々のみで、他は何も見当たらなかった。
(起きればいいんだよね、あたし…)
ふと、自分が仰向けに横たわったままの格好であることを、琴子は思い出す。これでは、いくら視線を動かそうと、見えるのは木だけで当然だった。
(………何か、バカみたい)
なんとなく恥ずかしくなって、琴子は小さく息を吐いた。そうして、腕に力を入れると、身体を起こそうと試みる。
が、刹那、頭に鈍い痛みがはしった。
「つっ…!?」
低く呻き声を上げ、顔をしかめる。
自分は今まで一体何をしていたのだろう?
腕を額に当て、眉間を軽く摩りながら、順を追って思い出そうと記憶を探る。
(あたし、確か………)
異形の獣に、小道で出逢って… ―――――――――
琴子はそこで初めて、はっと瞳を瞬かせた。
そのまま、慌てて起き上がって、周囲に目を走らせる。頭の痛みは、もう微塵も気にならなかった。
右から左へ、左から右へ。けれど、獣の姿はどこにも見当たらなかった。
「いな、い…?」
なんだか、酷くがっかりして、けれど同時に、琴子は安堵のため息をついた。
それにしても…。
「ここ、どこ…?」
不安気に身体を自らの腕に抱き、琴子は改めてぐるりと辺りを見回した。
周囲を囲むのは、深い深淵に包まれた木々。背丈を軽く越す大木ばかりで、ごつごつとした幹は縦横無尽に地面を走っている。
根元には無数にコケが生えていて、長い歳月を感じさせた。
よほど深い森の中なのか、空気が冷たい。上を見上げてみれば、大きな枝から伸びる数多の葉が光を遮り、そこに存在しているはずの空をも隠している。
そうして、葉の隙間から零れる僅かばかりの月光は、森の中に無造作に光の線を描いていた。
「……だれか、いないの?」
呟いた言葉は、酷く小さく、けれど周囲に木霊する。
ありえない。先ほどまで、琴子は確かに竹林の小道にいたはずだ。それなのに、何故いきなりこんな森の中で倒れているのか…。
ふっと浮かんで消える、あの獣の姿…。
(まさか…)
自分は、あの獣に…"ティーダ"に、連れてこられたのだろうか?
無意識の内に、琴子自身が『行きたくない』と拒絶した、その場所へ。
胸を徐々に不安が覆い、思考は悪戯に混乱する。
(と、とにかく…、人を探そう…)
ひとつ頷いて、琴子はゆっくりと立ち上がると、歩き始めた。
行く先も、方向すらわからない。
けれど、このままでは気が狂ってしまいそうだった。
道は、まさに"獣道"と呼ぶに相応しいものだった。歩き始めて数十分後には、琴子の息は既に上がってしまっていた。
光を閉ざされた森は、暗闇の中を歩くようなもので。幾度となく樹木の幹に足をとられ、琴子は転倒する。その度、手足を擦り剥き血が滲んだ。
けれど、どれほど傷をつくろうとも、どれほど息が上がろうとも、琴子はその歩調を緩めようとはしなかった。
一刻も早く、人に会いたかったのだ。
獣の咆哮も、虫の音すら聞こえないこの森は、どこか異常だった。
それが、琴子には何より恐ろしく感じた。
そうやって、数時間歩き詰め、もはや琴子は身体中を痛めていた。
数度目の転倒で足首を捻り、跛をひいている。
手足も、顔も、高校のセーラー服も、泥と血で汚れていた。
次第に意識が遠のきそうになるのを、何とか気力だけで繋ぎとめる。
なだらかな傾斜の下に暖かな光を見つけたその時、琴子はついに、安堵の溜息と共に、その意識を手放していた。
重い身体を、地面へ投げ出して。
――――――――― ああ、ようやく助かったのだ、と。
そんな儚い、想いと共に。