02.異形の獣
響いたのは、鈴の音だった。
響いたのは、深い、深い声だった。
覚えているのは、長く伸びる、人の影と。そして ―――――――――
ちりん ―――――― 、と耳に響いた音に、琴子はハッと顔を上げた。
同時に、沈みかけた思考を浮上させる。
竹林に囲まれた物寂しい小道は、バイト先への近道として常日頃から重宝していた。ほとんど人通りのないこの場所で、琴子はいつの間にか足を止めていたようだ。
ふと視線を走らせれば、夕闇に染まる砂利道に、長い影が伸びていた。
自分のものではない、他人の ――――――――― 。
どくん、と鼓動がひとつ、耳の奥で木霊した。
(やだ、痴漢、じゃないよね…?)
動かない影を凝視する。視線を上げて、その影の持ち主を確認することが酷く恐ろしく思えた。
この小道は、明るい昼間に良く使用していて、こんなに薄暗くなってから通ったことはなかったのだ。
そう、人通りがない = 危ない と言うのは、昔からの不文律だ。琴子とて女なのだから、女としての危機感を持っていないわけは無い。
だからこそ、普段は明るいうちにしかこの道は通らなかったと言うのに。
(うっかりしてた…。考え事をしながら歩いてたから、気づかなかったんだわ…)
未だ、どくん、どくん、と心臓は早鐘を打つ。
影は、動かなかった。
いつまでたっても微動だにしない影を不審に思いつつ、もしかして自分の勘違いだったのだろうか、と微かに息を吐いた、その刹那だった。
「 ――――――――― み つ け た 」
声は、恐ろしいほどに、低く。
しかし、恐ろしいほどに、聞き覚えのあるものだった。
(え?)
聞き覚えが、ある?
否。
そんなはずは無い、自分は、こんな深い…深淵のような声に、聞き覚えなどあるはずがなかった。
けれど、そんな琴子の思考とは裏腹に、記憶の中で、自分の深いところで、誰かが(もしかしたら、琴子自身が)それを否定しているような気がした。
そう、琴子は確かに、この声に全く聞き覚えがなく、しかし、酷く聞き覚えがあった。
視線をせわしなく彷徨わせ、狼狽する。
訳が、分からない。
けれど、背筋を這うような恐怖と安堵が、同時に全身を襲った。
( ――――――――― なに?)
この感覚は、何なのだろう?
混沌、と呼ぶに相応しい、陰と陽を織り交ぜたような、不思議な感覚だった。
「 ――――――――― かような…かような地に、おられたか」
再び響いた『こえ』に、びくりと身体が強張った。
ひゅーっ、ひゅーっ、と、か細い呼吸が自らの喉から紡ぎだされる。
息苦しい。胸が詰まる。歓喜と、悲哀。
なぜか視界が涙で歪んだ。
カタカタと小刻みに震える身体を、自身の両腕で包み込むように抱く。
そのまま、琴子は意を決して、影をなぞるように目線を上げた。
ゆっくり。
しかし、確実に。
視線は、影から、影の持ち主へ。
「 ――――――――― っ…!」
息を呑むほどの、戦慄だった。
(な、に…?)
ごくり、ひとつ唾を呑み込んで、そのまま無意識に一歩後退する。目の前にいるのは、琴子の身体の半分ほどの大きさの、『獣』だった。
―――――― そう、人の形をした影を持つその主は、けれど、人ではなかったのだ。
夕闇に煌く、鮮やかな、セピアと翡翠のオッドアイ。その視線は真っ直ぐ琴子に向けられ、瞳の奥には滲み出る歓喜の色が窺える。
姿かたちは、まるで豹か虎のようだ。
しなやかな手足と、長い尻尾を持っている。ふんわりとした毛並みは、金に近い、琥珀色。
一見すれば、普通の動物にも見えるその獣の額には、鋭い一本の角が宙を貫いていた。
見たこともない、異形の獣。
(怖い…怖い、はず…なのに……)
じりっと、足元の砂利が音を立てる。
それ以上、琴子の足は、一歩とて動かすことができなかった。
「主様…主様……、どれほど、お会いしたかったか…」
獣の瞳から、一粒、涙が零れ落ちた。
「っ…!」
胸が、痛い。
獣が涙を零すと同時に、琴子の瞳からも、同じように涙が溢れた。
(なん、で?)
獣の悲しみが、痛いほど分かった。獣の喜びが、哀しいほど理解できた。
琴子もまた、獣に出逢えたことを、欣喜していたのだ。
これ以上ないほどの、畏怖を携えて。
ぼろぼろ、瞳から、幾つも、幾つも涙が頬を伝う。
「彼の地へ、共に帰還致しましょう、主様…」
獣が一歩、前へと進み出る。けれど、琴子の足は、自然、一歩後ずさった。
そんな琴子の行動に、獣は傷ついたように瞳を揺らす。
「 ――――――――― ご、ごめん…」
声が。
無意識の内に、獣に謝罪の言葉を紡ぐ。
「あたしっ…行きたいけどッ…行けない……!」
半ば、叫ぶように言えば、獣がびくりと身体を震わせる。
「ずっと…ずっとあなたに会いたかった…。けど、会いたく、なかったよ…っ、 ――――――――― ティーダ…」
嗚咽と共に零れた言葉に、獣も、そして琴子自身も、瞠目した。
そう…、獣の名は、『ティーダ』だ。
きりっと、鋭い痛みが、頭に響く。
痛い、痛い、痛いっ…!!
―――――― 頭が、割れそうだ。
「っ…?!」
立ち尽くすことすら困難で、思わずその場に座り込む。
「主様!!」
獣が叫び、こちらへ駆け出した。
しかし、琴子は怯えるように目を瞠る。
「来ないで!!」
そう、来ないで。…来ないで。
「そっちには、行きたくない…! 行きたくないの…!!」
喉から搾り出した悲痛な声に、獣が再び、瞳を揺らす。
困惑、戸惑い、躊躇い。
けれど、すっと向けられた真っ直ぐな視線が、決意に満ちて ―――――――
(ダメ ―――――― )
獣は、自分を連れてゆくだろう。
漠然と…、琴子は自身の直感に戦いた。
ズキン、ズキン…。
鈍い痛みは、未だ、衰えを知らない。
「主様…どうぞお許しください…、時間がないのです」
一歩、一歩、獣が琴子へ歩み寄るのと同時に、痛みはますます鋭さを増す。目を開けることすら苦痛で、琴子は硬く瞼を閉じた。
意識が混濁する。眩暈と吐き気が、琴子を襲った。
硬く閉ざした瞼の奥。
漆黒の闇の中、石造りの冷たい部屋が浮かぶ。
天蓋付きのベッド。アンティーク調の家具。小さな小窓に揺れる、カーテン。
窓の外に、ゆったりと立ち上る、黒煙と ―――――――――
ダ メ 、 コ レイ ジ ョ ウ 見テ ハ イ ケ ナ イ ! !
真っ赤なシグナルが。
(っ…!!!!)
警鐘を鳴らした。
ふと気づけば、目の前に気配を感じる。
おそらく、あの獣なのだろうと、遠ざかる意識の中で琴子はぼんやりと悟った。
(もうっ、ダメ…)
痛みが絶頂を迎えた、その刹那。
ふっと、額に暖かな吐息を感じる。同時に、あれほど酷かった頭の痛みが、すっと溶けるようになくなったことに、琴子は喫驚した。
驚きに目を丸め、眼前の獣を見据えようと顔を上げる。けれど、途端、目映い光の洪水に襲われた。
ちりん、とひとつ、鈴の音が耳の奥に響く。
同時に、琴子の意識は、漣のように遠のいていった。




