19 飢えた少女に金を渡してはいけない
俺がパンとリンゴの袋を持ったままあとを追いかけ、少女のもとにたどり着いたときには、すでにリザエルは少女を抱き起していた。
少女はひどくやせて、顔も服も汚れており、足は裸足だった。うつろな目を、俺とリザエルとの間でさまよわせている。
俺とリザエルはあたりを見回したが、この少女の身内らしき者はいない。通行人も、他の避難民たちも、見て見ぬふりをするだけである。
「お嬢さん、名前は?」
「……ハンナ」
「一人なのか?」
「……うん」
俺が問うと、彼女は消え入りそうな声で答えた。
「父ちゃんや母ちゃんは……家族はどうしたんだ?」
「パパとママ……いないの。お姉ちゃんは魔族に捕まって……」
「なんということだ……」
リザエルは唇をかみ、ハンナと名乗った少女を強く抱きしめた。それに対して、少女の反応は弱い。全体的に生気がなく、命の灯が燃え尽きようとしているかのようだ。
「こんなに小さな子まで、戦争の犠牲になっているのか」
「戦争ってのはそういうもんだ。弱い奴ほど犠牲になりやすい。強い奴、金を持ってる奴だけが得をする」
「ネロウ、見ろ。この子はこんなにやせてしまって。少しばかり、私たちの金を分けてやってはどうだろう」
「金はダメだ」
「なぜだ」
「すぐ奪われるからだ」
俺が言うと、リザエルはハッとしてあたりを見回した。他の避難民は、見て見ぬふりをしているだけだと思っていたが……よく観察してみるとそうではない。彼らは俺とリザエルの様子を窺っていた。俺たちが慈悲の心をわずかにでも見せる瞬間、すなわち俺たちの手から金がこぼれ落ちる瞬間を、待ちかねているのである。
避難民は路地裏の奥に、大通り沿いに、いくらでもいる。10人、20人では済まない。
「分かるだろ? 瀕死の子に金を渡すなんて、オオカミの群れにブタを放り込むようなもんだぜ」
「そ、そうか……」
「それに、大人の命令で物乞いをさせられている子どもも多い。金を渡しても、腐った大人の手に渡るだけだ」
「ならば……ならば、そのパンをやればいい。この場ですぐに食べれば横取りの心配もない」
「ここにいる全員に配るのか?」
「うっ……!」
リザエルは言葉を詰まらせた。大通り、そして路地裏にいた避難民たちが、先ほどよりも近づいてきていた。こうしている今も、じりじりとにじり寄ってきている。素知らぬ顔をして、しかし着実に。
俺たちが「慈悲深い人間」であるかどうかを、見極めようとしているようだった。
リザエルはうつむき、唇をかみ……やがて言った。
「それでも、私は見過ごせない……!」
彼女は素早く、俺の手からパンの袋を奪い取った。止める暇もなく、彼女は袋から出したパンをハンナに握らせていた。
「ほら、これを食べなさい」
「え……?」
「すまない、私にはこんなことしかできないんだ」
リザエルの頬を、涙が一筋伝っていた。本心から、己の無力を呪っているのが分かった。
「誰かに奪われる前に、ここで食べなさい」
「あ、ありがとう……」
弱々しい声でそう答えると、次の瞬間、ハンナはものすごい勢いでパンを食べはじめた。一個目はすぐに胃袋に消えた。二個目は途中で喉に詰まったらしく、リザエルが水筒の水を分けてやることになった。三個目、四個目は無言で、ノンストップで食べた。人間というのは、これほど速く手と口を動かすことができるのかと、俺は感心してしまった。
パンをむさぼり食いながら、少女は涙を流していた。
「……バカだと思うか、ネロウ」
「いや、思わないな」
俺は首を横に振った。そして、ハンナがパンを食べ終えるのを見届けると、こう付け加える。
「あんたはそれでいいんだ。あとの面倒事は、俺が引き受ける」
俺はあたりを見回した。いつの間にか俺たちは、ボロボロの服を着た避難民たちに包囲されていた。彼らはみな、落ちくぼんだ目をギラギラと輝かせていた。彼らは飢えていた。
「旦那、あっしにもお恵みを……」
「どうかおねげえします」
「私にもパンを……」
避難民たちの輪が狭まってくる。リザエルがハンナをかばうように抱き寄せる。すでに避難民たちは数十人おり、今もなお増え続けている。もうあげられるものはリンゴくらいしかないと言っても、きっと納得しないだろう。いや、俺たちが有り金をすべて与えたとしても、それで事態が解決するわけでもない。そうなった場合、今度は数百人の避難民が俺たちのもとに集まり、もう金がないなら服をよこせ、それもなくなったらどこかで稼いできて払えと要求してくるだけだ。
彼らには失うものがない。
失うものがない人間は、どこまでも浅ましくなれるのだ。
だから、俺がとった行動は単純だった。
手のひらに魔力を集めて、呪文を詠唱したのだ。
「煙幕魔法」
ぼふんっ
間抜けな音とともに、真っ白い煙が一気に視界を埋め尽くした。俺とリザエルとハンナのみならず、避難民たちも煙に呑まれる。まるで牛乳の海に飛び込んだかのように、10センチ先さえも見えなくなった。
「なんだ、煙!?」
「火事か!?」
「行くぞ」
俺は、リザエルの黒い鎧に向かって声をかける。彼女がうなずいたかどうかも分からなかったが、俺は構わず、混乱する避難民たちの間を縫って駆けた。リザエルがぴったりと後ろについてくるのが、足音で分かった。
煙を抜けて振り返る。少女を背負ったリザエルも、一瞬遅れて脱出した。俺たち三人はとある路地裏に逃げ込んだ。白い煙の中からは、慌てふためく避難民たちの声が聞こえてきた。
ハンナにリンゴを袋ごと渡すと、俺とリザエルは彼女と別れた。少女は何度も何度も礼を言い、膝に額がぶつかりそうなほど頭を下げた。
リザエルは何度か振り返った。俺は振り返らなかった。
「……あの子は、今夜どこで寝るのだろう」
「野宿しかないだろう」
「くっ……」
「どうやら思った以上に、この国は疲弊してるみたいだな」
太陽は山の向こうに沈み、あたりは暗くなりはじめていた。俺とリザエルは大通りに出て、宿へと引き返す。晩飯までに戻ると言ったのだから、急がねばなるまい。
そして、他人の心配ばかりもしていられない。
明日はいよいよ、騎士団長に会いに行くことになるだろう。リザエルは罰を下されるのか。それとも許されるのか。俺には分からないし、本来であれば口出しができる立場でもない。俺はただ魔王軍と戦う力を得るために、騎士団とのコネが欲しいだけだ。騎士団長との面会がかなうなら、リザエルの処遇は関係がない。
しかしながら。
飢えた孤独な少女のために涙を流せる女が、理不尽な罰を受けることがないように、出来る限りの弁護はしよう。
空に瞬きだした星を見上げて、俺はそんなふうに思った。
――――――――――
「ああ……ナナ様……ナナ様……」
ボクの腕に抱かれ、首筋から血を吸われながら、その女の人は恍惚とした表情を浮かべていた。ボクは血を吸いつつ、傷口から魔力を流し込む。女性は――エレノアという名前だったか――ビクンと震えたものの、逃れようとはしなかった。さっきまではあんなに抵抗していたのに。
足元の絨毯の上では吸血鬼化魔法の魔法陣が、赤い光を放っている。
「ナナ様。準備が整いました」
そのとき、執務室の入口から声がした。振り返ると、部下の男が大真面目な表情で立っている(彼は下級吸血鬼だ)。
「そう、ありがと。すぐ終わるからちょっと待ってて」
ボクはそう言うと、そのエレノアという女の人に向き直った。魔法陣からあふれ出た魔力によって、彼女の肉体が、魂が変質していく。
変化はすぐに終わった。彼女の口元にはボクと同じような牙が生えている。ただ、ボクと違って下級吸血鬼だから翼はない。
ボクが体を離すと、エレノアはうっとりとして、自分の体を抱いた。
「生まれ変わった気分はどう?」
「ありがとうございます、ナナ様……。素晴らしい力が湧き上がってきます」
「あんなに嫌だ嫌だ、吸血鬼にはなりたくない、って駄々をこねてたのに」
「ああ、おっしゃらないでください……! あのときの私は愚かだったのです。もう思い出したくもない、人間だった頃の私……」
彼女は本気で申し訳なさそうに言うと、恭しくひざまずいた。魔法はうまくいったようだ。ボクは満足した。
「さて、キミには家族はいるんだっけ?」
「両親はこの戦争で死にましたので、今は妹が一人だけ……。他の避難民たちと一緒にモルヘンに向かったはずです。私が途中で、魔族の兵に捕らわれたので、はぐれてしまいましたが……」
「そうなの。悪いことしたね、ボクの部下たちが」
「い、いえ! そのおかげで私はナナ様に出会うことができて、吸血鬼にもしていただけたのです! 感謝してもしきれません!」
「ううん、一緒に捕まえてあげればよかった、って話。妹ちゃんも魔王城に招待したいね。部下を使って捜してみるよ。見つかったら、ボクの力で吸血鬼にしてあげる」
「あ、ありがとうございます! 妹の名はハンナと言いまして……!」
エレノアは、とても感激した様子であった。
ボクは彼女の首筋に――すでに牙のあとが消えたその場所にキスをすると、彼女を執務室から退出させた。
ボクはふかふかした椅子に腰を下ろし、直立不動で待っていた部下に視線を投げる。
「さあ、お待たせ。準備ができたんだっけ?」
「はい」
部下の男は、神妙な顔をしてうなずいた。
「魔法の発動に関しては、あとは向こう側次第です」
「分かった。じゃあプラム姫は? もうアーヴォント城に到着した?」
「はい。コウモリに確認させましたので、間違いなく」
「それなら問題なさそうだね。さっそく始めようか。鏡をここに」
「かしこまりました」
部下の男は敬礼すると、きびきびとした動作で部屋を出て行った。
ボクは机の上でじっと指を組み、考える。
偵察コウモリからの報告では、リズはすでにモルヘンに到着しているという。彼女は闇魔術師ネロウと行動をともにしているはずだが……ボクが今回の作戦を実行して、戦闘が起こったとき、はたして彼女は出てくるだろうか。ボクが戦場に姿を見せれば、会いに来てくれるだろうか。
そうだ、アーヴォント城は首都モルヘンから目と鼻の先。
きっとリズも、無視はできないはず。
「……楽しみだよ」
ボクはそうつぶやいた。そして、かつて吸わせてもらったリズの血の味、匂い、舌触りを思い出し、そっと唾を飲み込んだ。
次回は明日(11月21日(日))の午後に更新する予定です!
昨日の夕飯は納豆にきざみにんにくを入れたものや、20品目のバランスサラダなどでした。