エピローグ
赤の色彩を帯びた陽光に樹木が長い影を伸ばす。
潮の匂いが混じる大運河の畔には、心地よい風の通る木陰の席がある。リゼットはゴンドラ乗り場の階段に座り、景色を眺めていた。
紺碧の水面に白や赤レンガの建物が映えている。
この大運河を辿っていけば海へと出られる。春になれば交通手段であるゴンドラが行き交い、ウェーベルンも賑わうと聞いた。
リゼットが西海国で暮らし始めて――【黄金の暁】の同志となって半月が過ぎた。
作戦が入っていない時は自由なこのレジスタンス。各々が国の仕事や、鍛錬に励む中、リゼットはまず道を覚えることを課題として地上を散策していた。
ウェーベルンは細く入り組んだ道が多く、街全体を網羅するように流れる水路には至るところに小橋が架かっている。大運河沿いを一歩外れたら地図なしで歩くことは難しい。
リゼットは道に迷うこともあったが、自分の住居から【黄金の暁】組員の溜まり場になっている屋敷までの道程は覚えることはできた。
今日は金曜の夜。若者たちは地下の広間でボードゲームに興じるらしい。
リゼットも何人からか顔を出すように誘われているがどうするか迷っていた。
こういう組織に所属する以上、人付き合いにも慣れなければならないということは分かる。けれど、リゼットは苦手だった。
ヴェノムとして爪弾きにあった幼少の記憶もあり、集団というものに苦手意識があった。
軍ならば仕事と割り切ることができたが、ここは違う。自分の意思で参加したレジスタンスだ。勝手な振る舞いで空気を悪くすることもできないので、早く溶け込めるように努力するしかない。
信頼関係が成り立たず、作戦時にミスを引き起こすようなことはあってはならない。
リゼットのそういう面を考慮して、瑠璃はレナードを北方での作戦に参加させずに国へ残したのだが、レナードはリゼットのことなど放って仲間と鍛錬に励んでいる。レナードに必要以上に構われることのないリゼットは清々と、心穏やかに過ごしていた。
夕暮れが押し迫り、落陽の赤が街を染めていく。
ひんやりとした夕風を受けながらリゼットは青い水面を見ている。
そうしていると耳に入った。
人間よりも聴覚や嗅覚に優れているヴェノムは気配に敏感だ。リゼットが首をもたげると、黒髪青目の彼が大運河沿いの道を歩いてくるところだった。
清らかな音の正体は彼が耳につけた銀の飾りがぶつかるもの。着けている本人すら気にならない極小さな音色は、リゼットには彼を認識する一つの材料となっている。
「――ラピス」
「もうここには慣れたか」
「それなりには」
瑠璃は妹のアクアマリンのところへ行くつもりだったのか得物を持たず軽装だ。
リゼットもアクアマリンには数度会っている。住んでいる場所が近いので自然と関わることになった。
目があまり良くなく外に出ずに育ったという少女は無垢だ。
いつかもこんなことがあったような気がする。そう、翡翠と出会った時だ。あの時のようにリゼットはアクアマリンを突き放せないでいた。
「ゴンドラは乗ったか?」
「揺れるのは苦手だ」
「それは残念だな」
他国者には人気なんだが、と瑠璃は惜しむ。
リゼットの住居は地下街の西区にあるので、アジトのある北までは運河を渡す渡し船に乗った方が早い。だが、船酔いをするリゼットはゴンドラに乗ることはしない。
代わりというように運河の畔から、人々を運ぶゴンドラを見送るばかり。
風がさやさやと吹いて、不揃いの髪が頬を撫ぜる。
「翡翠と琥珀のこと、私からも礼を言う」
リゼットが西海国に残るということを聞いたアプロディーテ姉弟もまた国に滞在することを決めた。
しかし、【黄金の暁】組員でないのに世話になる訳にもいかずに困っていた。そんな姉弟に瑠璃は、組員の使わなくなった住居――今は地下街で暮らしているらしい――を貸した。
ウェーベルン西部には森が広がっていて、自然に囲まれて育った二人にとっては過ごし易い場所だ。そこで翡翠は妖精学者として開業し、琥珀は私塾に通いながら【黄金の暁】の手伝いもするらしい。
セレン島にいた頃のように一緒に暮らす訳ではないが、リゼットの暮らす場所の近くに地上への出口があるので、姉弟の住まいは目と鼻の先とも言えた。
「ありがとう」
リゼットは礼を言い、柔らかな笑みを浮かべた。
僅かに細められた目元にいたいけな女性らしさが滲む。
「……礼……言えるんだな」
怒った顔と不機嫌ともとれる無表情しか見ていなかった瑠璃は、その顔に浮かぶ微笑に面食らってついこぼしてしまう。
「もう二度と言わない」
笑みの名残もなく冷えきった唇はぽつりと呟く。
瑠璃にはレナードとは違う意味で苛立つ時がある。それは悪気なくこういうことを言うところだ。
礼なんて言うのではなかった、とリゼットは目を伏せた。
ふと、風に乗って声が運ばれてくる。
――例の人殺しってあれか?
――そうそう、魔族のハーフなんだって
――なんであんな奴を引き込んだのかな
――怖いわよね。襲われたらどうしよう……
恐れと嫌悪に染まった声は市民のもの。
リゼットは反応することはない。
人殺しや化け物と蔑まれることは慣れていた。受け入れてくれる者は極少数だ。拒絶されるのが殆ど。寧ろそちらが普通の反応である。
「気にするな。あんただけが人殺しってわけじゃない」
「一緒なものか。お前たちは大義を掲げて戦い、私は憂さ晴らしの為に人を殺したんだ」
全く違う。自分と彼等は【同士】ではない。
その言葉を聞く眼差しは静か。冷ややかさとはまた違う、清洌と呼ぶのが相応しいような色だ。
「私は――」
「あんたは何を言っているんだ?」
先を紡ぐ言葉を遮ったのは、皮肉げな声。
「復讐だ弔い合戦だと言っても、所詮は生きてる奴の気晴らしではないか。どんな思想があろうと他人を殺めれば人殺しだということに変わりはないだろう」
瑠璃は悪びれた様子もなく、淡々と言葉を紡いだ。その声は常の彼とは違う。
普段悪ぶって話しているものよりも抑揚も響きも低い。
「お前も俺も人殺しだ」
それは、王の子としての言葉だった。
深く青褪め、強張った表情でリゼットは瑠璃――いや、ラピスラズリを見上げた。だから彼はその顔を跡形なく消す。
「何だよ、その目は」
「……べつに」
陰りを知らない太陽かと思えば、ふっと姿を変える。
リゼットにとって瑠璃もまた厄介な人物だ。
彼は内心舌打ちする彼女と少し間を置いて座った。
けれど、リゼットは顔を背ける。思いきり避ける様子に瑠璃はやれやれと息をついた。
(さっさと行けば良いのに)
人が二人も座ればきつくなるような場所に並んでいたくはない。琥珀やレナードには慣れてしまったが、瑠璃は駄目だ。リゼットは基本的に男嫌いである。
階段を一段下りようとして爪先に水がかかった。
風が水面を薙いで、波が打ち寄せている。
「あんたは何人殺したんだ?」
「……百人以上」
過去に同じ問い掛けをされた覚えがある。彼の用心棒だという赤髪の男にだ。
やはりどちらも厄介だと苛立っているリゼットに、瑠璃は波を立てるような言葉を向ける。
「なら、人殺しだな」
「だから私は人殺しだと言ってるじゃないか!」
何度も繰り返されなくともしっかりと理解している。
最低最悪の人殺しだ。おぞましい化け物だ。人間に害をなす魔族だ。
リゼットは眦を吊り上げる。赤い双眸には獣のように細長い瞳孔がくっきりと現れた。
「一人殺したらただの殺人犯だが、千人殺したら英雄だ」
唇を歪めることも皮肉を乗せることもなく事実を告げた瑠璃はリゼットを見た。
座る位置と身長差から見下ろされることになる。
殺意に染まった赤い目を平然と見返されたことでリゼットは反抗心を封じられ、言葉を失くした。
「俺もお前も人殺しだ。他人にどう詰られても仕方ないことを沢山やっている。だが、もう俺たちは後戻りはできない。前に進むしかないんだ」
淡々とした口調で呟いて彼は瞼を伏せる。
長くはないが優美な睫毛の線。その影に潜むのは憂いと後悔。そして――――。
「シュトレーメル、お前も付いてこい」
「……ラピス……」
「共にヒオウを倒そう」
彼女の腕を取り、彼は掠うように云った。
夕闇に侵食されていく世界に風が吹く。
青いふたつの瞳は綺羅星のように鋭い光を宿している。真っ直ぐ見据えてくる瑠璃に、リゼットは己が身の罪も心も暫し忘れた。
握られる右手は熱い。
ひんやりとしていて労るような優しいぬくもりではなく、ただ熱く力強いぬくもり。
この人ならば自分を何処か違う場所に連れて行ってくれるのではないかと、そんな思いを抱かせる力強さに心がざわめいた。
日はとうに落ちて、夜気が街を包む。
今日は月も星も見えない。
「……また、雪」
キャラメルブロンドの髪が風にあおられて靡く。
灯りのない道には風と足音だけが響く。ひとり歩くリゼットは考える。
スレイドの死から始まった戦いに終わりは見えない。進むほどに鎖の重さが増して、別の鎖と絡まりあう。
時は停まらずに進んでいく。彼を過去に置いて、同族と契約を交わし、人間と夢をかさねた。
頬に落ちた雪はすぐに溶ける。もう少しでリゼットの嫌いな季節が終わる。
冬は嫌いだ。冷たく閉ざされた世界など抜け出したい。新しい世界を見てみたい。
夜空になごり雪が舞う。
風が吹いた。
**初出…2009年9月18日
一幕完結。二幕改稿中です。




