第4回|標本番号 A-07
王都の夜は、だいたい二種類に分かれる。
ひとつは、酒場の灯りが通りへ溶け、馬車の音が遠ざかり、城壁の上を巡回の足音だけがきれいに滑っていく、たいへん普通の夜。
もうひとつは、研究棟の窓という窓に灯がともり、伝令が廊下を走り、学会長が寝間着の上から外套を羽織って怒鳴り込み、庭の雑草が月明かりの下でやたら元気に繁茂している、たいへん落ち着かない夜だ。
そして本日の王都は、後者だった。
「雑草って、どうして危機のたびに張り切るのかしら」
「雑草だからでは?」
「答えになってないようで、すごく答えになってる」
私は研究棟の窓辺に立ち、外の中庭を見下ろした。
第3回のあの一件以降、A-07の周囲では異常が加速している。花は枯れ、芝は褪せ、見知らぬ草だけが図々しく増えた。王宮付き庭師は本日三度目の失神をしたらしい。気持ちはわかる。
室内では蒸留器具ではなく、記録用の机が主役になっていた。観察手帳、濃度計、魔素波形の記録紙、乾燥標本箱、封蝋の済んでいない報告書。今夜必要なのは中和でも駆除でもない。観測だ。
「学会長、まだ文句言ってる?」
ノーラが問う。
「言ってるわ。『学術的には稀有だが政治的には最悪だ』って」
「その通りすぎて反論できないね」
「でも正しいものは正しいの」
「君、そういう時だけ目が輝くよね」
目はともかく、方針は定まっていた。
A-07はもう“排除すべき対象”ではない。世界の免疫反応によって、すでに自壊過程へ入っている。ここで人為的に手を加えれば、現象の本質がわからなくなる。残酷だが、残酷であることと誤りであることは同義ではない。
私は記録紙をまとめながら、王宮から届いた最新の数値を読む。
魔素出力、断続的に逆流。
周辺植生の壊死、半径拡大。
本人の脈拍、不安定。
体温、低下傾向。
「綺麗に壊れていくわね」
「綺麗って言い方やめてよ、ぞっとするから」
「現象としては美しいのよ。理屈が通っているもの」
「理屈が通ってる悲劇って、だいたい始末が悪いんだよなあ」
その通りだ。
扉が開き、レオナルトが入ってきた。
今夜は王子の正装ではなく、動きやすい濃紺の上着に剣だけを下げている。相変わらず顔はいい。顔はいいが、ここ数日はずっと眉間に皺が住み着いていた。
「中庭の結界を一段強めた」
「ありがとうございます」
「礼を言う顔ではないな」
「観察条件が安定するので」
「そこだ。今の返答がまず冷たい」
私は少しだけ首を傾げた。
冷たいと言われることには慣れている。慣れているが、レオナルトに言われると、標本ピンの先でちくりと刺される程度には痛い。
彼は机の記録類を見て、ため息をついた。
「本当に、最後まで見届けるつもりなんだな」
「ええ」
「助ける方法はないのか」
「環境適応に失敗している以上、外側からの補助は一時しのぎにしかなりません。むしろ反応を悪化させる可能性が高いです」
「……そうか」
彼はそれ以上、理屈では反論しなかった。
たぶんもう理解しているのだ。私が見ているものを。A-07が置かれている状態を。理解して、なお感情が納得していないだけで。
それは健全なことだと思う。
王宮への移動は、夜半を少し回ってからになった。
中庭は仮設の結界柱に囲まれ、衛兵たちが神妙な顔で配置についている。もっとも、足元では例の雑草が結界柱にまで絡みついており、神妙さが若干減っていた。ひとりの衛兵が必死に草を剥がしている。任務内容の想定と違いすぎるだろう。
「ご苦労さま」
私が声をかけると、衛兵は半泣きで敬礼した。
「はっ! ただいま敵性植物を……!」
「植物に敵性という表現を使うのは少し慎重に」
「今は慎重でいられません!」
気持ちはわかる。
中庭の中央、白い石のベンチにA-07は座っていた。
昨日までの“聖女”らしい整い方が、明らかに崩れている。白金の髪は艶を失い、肌は透けるほど白く、呼吸は浅い。それでもなお、美しいことは美しい。標本にしたらさぞ映えるだろう、などと考えた自分に少しだけ嫌気が差す。
彼女の足元では、草が伸びては枯れ、枯れてはまた別の草が伸びている。
世界が、彼女を押し出しながら調整している。
私は結界の内側へ入った。
ノーラが後ろで記録板を構え、レオナルトは境界のすぐ外で止まる。
「近づきすぎるな」
「必要距離です」
「毎回そう言う」
「毎回正しいです」
A-07が顔を上げた。
瞳の色はまだ綺麗だったが、その奥に宿っていた“誰かを惹きつけるための光”はもうほとんど消えていた。代わりにあるのは疲労と、ひどく人間的な不安だけだ。
「……来てくださったんですね」
「観察対象が終末期に入ったので」
「言い方」
後ろでノーラが小さく突っ込む。
「事実よ」
「今この場で精度を優先するの?」
優先する。
私はA-07の正面に膝をついた。
彼女は笑おうとして、少しだけ咳いた。咳と一緒に淡い光が漏れる。体内の魔素循環が破綻している証拠だ。想定通り。想定通りなのに、胸の内側が妙に重い。
「苦しい?」
「ええ。でも……少し、静かです」
「魅了も干渉も、ほとんど出ていない」
「もう、うまくできないんです」
彼女は自分の指先を見下ろした。
細い。白い。人を惑わすには都合のよい手だっただろう。今はただ、弱っている若い女の手に見える。
「ねえ、エレオノーラ様」
「何」
「あなた、最初からずっと、私を怖がらなかったですね」
「必要がなかったので」
「普通はもう少し言葉を選びません?」
「今さらです」
A-07が、かすかに笑った。
その笑い方は、今までで一番自然だった。
「わたし、ずっと聖女でいなきゃいけないと思ってました」
「そう」
「愛されれば、この世界でも大丈夫だって……なんとなく、思ってたんです」
「雑な適応戦略ね」
「ほんとにひどい」
「でも正確よ」
彼女はまた笑った。
泣くより笑うほうが楽な場面はある。
私は手帳を開く。
時間、脈拍、呼吸、出力の揺れ。記録欄を埋めていく。A-07はそれを見て、ふと静かな声で言った。
「最後まで、書くんですか」
「ええ」
「嫌じゃないんですか」
「嫌よ」
自分でも驚くほど、即答だった。
A-07が目を見開く。
後ろでノーラがペンを止め、レオナルトがわずかに顔を上げる。
私は続けた。
「嫌だけれど、書くの。見たものを残さなければ、次に似たものが来た時、誰も対処できないから」
「……次も来ると思うんですか」
「世界というのは、驚くほど同じ失敗を繰り返すものよ」
A-07は少し黙り、それからぽつりと問うた。
「じゃあ、私は……何だったんでしょう」
「現時点では、外来性魔素適応失敗個体」
「最後までそれ?」
「それが一番正確だもの」
「そうじゃなくて」
彼女の声が、わずかに震える。
初めて“聖女”ではなく、一人の人間としての問いだった。
「私、ちゃんと……人、でしたか」
夜風が吹く。
結界柱の布札が鳴り、雑草がさわさわと揺れる。ぜんぜん雰囲気が締まらないのに、その問いだけがまっすぐ胸へ入った。
私は少しだけ考えた。
精度を落とさず、誤魔化さず、そして必要以上に残酷でもない答えを。
「ええ」
「……ほんとに?」
「本当に。厄介で、危険で、環境には最悪だったけれど、それでもあなたは一個の人間だったわ」
A-07の目尻が、じわりと濡れた。
泣くと、やっと年相応に見える。もっと早く泣ければ、少しは楽だったのかもしれない。
「それ、最初に言ってほしかったです」
「最初は確認が足りなかったので」
「学者ってそういうところありますよね」
「私が特にひどいだけよ」
光が、また逆流する。
彼女の肩が小さく跳ね、呼吸が浅くなる。時間が近い。
私は手帳の余白へ、波形の乱れを追記する。
ノーラのすすり泣きを、後ろで衛兵がどう慰めるべきか迷っている気配がする。やめなさい。余計に場が妙になる。
その時、境界の外からレオナルトが一歩前へ出た。
「エレオノーラ」
「何ですか」
「もう十分だ」
「まだ脈拍が――」
「そうじゃない」
彼はまっすぐ私を見た。
いつもよりずっと静かな目だった。
「君が見届けることは、もうわかった。だから、終わったらこちらへ来い」
私は眉を寄せる。
ずいぶん曖昧な指示だ。
「なぜです」
「君のその頭では一生わからないかもしれないが、迎えに行くという意味だ」
「……そう」
後で考えよう。今は無理だ。
A-07の指先から、細い光が零れ落ちた。
地面へ触れた瞬間、それは消え、足元の草だけが一斉にしおれる。さっきまで異様に元気だった雑草が、急にしょんぼりと頭を垂れた。最後だけ行儀がいい。もっと早くそうしてほしかった。
「エレオノーラ様」
「何」
「その……記録、ちゃんと残してくださいね」
「もちろん」
「変なふうに書かないで」
「努力はする」
「今の間は何ですか」
「表現の精度を考えていたの」
「そういうとこです」
彼女は最後に、少しだけ笑った。
笑って、息を吐く。
次の呼吸は、来なかった。
中庭が静まる。
風だけが吹き、結界札がかすかに鳴る。
私は数秒待ち、脈を確認し、瞳孔反応を見た。
終わり。
記録欄の最後に時刻を書き込む。手元はぶれていない。ぶれていないのに、なぜか妙に字が硬い。
「観察終了」
声にすると、現実が固定された。
ノーラがとうとう泣き、後ろの衛兵が「泣いておられる女性にどう対処すれば」と本気で困っていた。知らない。私も今、それどころではない。
標本処理は夜明け前に完了した。
A-07の遺体は学会の規定に従って保全され、魔素残渣の測定、体表変化の記録、環境影響範囲の最終確認が進む。私は徹夜のまま、論文の清書に入った。
魔態系学会大講堂。
朝の光が高窓から射し、磨かれた演壇の上に細く落ちる。
居並ぶ学者たちは皆、寝不足の顔で神妙ぶっていた。学術的快楽と寝不足は相性がよい。嫌な集団である。
私は演壇に立ち、論文を開いた。
「報告題目。王都魔素環境における外来性精神干渉個体の適応失敗と世界側免疫反応について」
ざわめき。
よろしい。題名で勝てる論文は強い。
私は順に述べた。
観測開始。
フェロモン様作用の検出。
一次中和剤の散布。
二次能力への変異。
世界側免疫反応の発見。
自壊過程の記録。
そのすべてを、余計な情緒を削ぎ、必要な精度だけを残して並べていく。
最後の頁で、会場は完全に静まり返っていた。
「以上の観測結果に基づき、当該個体は魔態系学会報へ標本登録される」
私は紙をめくり、最終行を読んだ。
「標本番号A-07」
誰も声を出さない。
学者が沈黙する時は、だいたい感動しているか、嫉妬しているか、その両方だ。
発表を終え、演壇を下りる。
学会長が重々しく頷き、同僚たちが道を開ける。ノーラは目を赤くしながらも、なぜか誇らしげだった。気恥ずかしいからやめてほしい。
講堂の外へ出ると、廊下の窓際にレオナルトが立っていた。
朝の光の中で見ると、彼は昨日までより少しだけ柔らかい顔をしている。
「終わったか」
「ええ」
「どうだった」
「静かでした」
「君らしい感想だな」
私は答えず、壁にもたれた。
徹夜明けの脚は正直だ。今さら少しだけ震える。
レオナルトが近づく。
いつものように何か理屈を返そうとして、私は先に口を開いた。
「……無事でよかったわ」
彼が一瞬、目を丸くする。
何だろう。そんなに珍しいことを言っただろうか。いや、言ったのだろう。たぶん。
「エレオノーラ」
「何ですか」
「今、私を固有種と呼ばなかったな」
「呼びません」
「なぜ」
「そういう気分ではないので」
彼は少し笑った。
私は視線を逸らし、それから、ぎこちなく彼の名を呼んだ。
「……レオナルト」
たったそれだけで、彼の表情が驚くほどほどけた。
名前というのは不思議だ。分類よりずっと曖昧なのに、たぶん時々、あらゆる定義より正確だ。
「どうした」
「少し、手を」
「手?」
「体温を確認したいの」
彼は笑いながら、掌を差し出した。
触れる。あたたかい。脈は安定。生きている固有種――ではなく、レオナルトの手だ。
私はその温度を、妙に長く感じていた。
廊下の向こうで、ノーラが同僚にひそひそ話している。聞こえている。「次の外来種もだいたいあんな感じなのかな」「いや、もっと小型で凶悪なのもありうるよ」「やめて、眠れなくなる」。失礼な会話だが、間違ってはいない。
私はレオナルトの手を離し、講堂の扉を振り返った。
中ではもう、次号の学会報に載せる図版の相談が始まっている。学者は切り替えが早い。嫌な集団である。本日二回目だが事実だから仕方がない。
「次の研究対象、探さないと」
「休め」
「半日は」
「一日は休め」
「善処します」
「君の善処は信用ならない」
もっともだ。
窓の外では、中庭の雑草がようやく完全にしおれ、庭師が震える手でそれを集めていた。平和が戻ると、人はすぐ掃除を始める。良い習性だと思う。
私は歩き出す。
学会報第47号には、標本番号A-07が載る。
そして、その次の頁か、そのまた次の号か、いずれまた別の“外から来たもの”が記録されるのだろう。
世界は閉じていない。
だから研究は終わらない。
魔態系学会報 第47号──次号、新種報告。




