第70話 教育という名の最大利潤取引
王都の遥か南、王国の果樹園と謳われるオデール伯爵領。
温暖な気候が育むオレンジの香りに満ちたこの地は、暴れ川「黒竜川」の脅威に晒され続けている。
昨年の大氾濫がもたらした被害は、今なお果樹園の隅々に爪痕を残し、領民の暮らしを蝕んでいた。
窓辺に立ち、黒竜川を睨みながら、オデール伯爵は静かに呟いた。
四十半ばを過ぎた美丈夫である彼は、白髪の混じる黒髪や鋭い目元に疲労の影を落としている。
だが、その瞳の奥には、領主として背負う重圧が色濃く沈んでいた。
「……この黒竜を鎮めきれない限り、この領地はいつまで経っても砂上の楼閣だな」
伯爵は低い声で独りごち、窓枠を強く握りしめた。指先が白くなるほど力を込めながら、視線を黒竜川から外さなかった。
その時、扉の外から慌ただしい足音が響き、家臣が声を上げた。
「閣下! 北に放っていたマルコが、ただいま帰還いたしました!」
伯爵は即座に振り返る。
「おお、マルコか……すぐに通せ」
疲れた目元に期待の火が灯る。
扉が開き、埃にまみれたマルコが入室してきた。
腹心の男は疲弊しきっていたが、その瞳にはどこか安堵の色が浮かんでいる。伯爵は一瞬、息を飲んで問いかけた。
「どうだった? あの『沈まぬ道』の噂……本物だったのか?」
「……申し上げます。まず、道は本物でした。フェルメール領にて捕縛されましたが、処刑は免れました。それどころか、フェルメール卿より、技術提供に関する正式な契約の提案をいただきました」
伯爵の眉がわずかに上がる。
「……捕まった? それなのに、向こうから契約を持ちかけられただと?」
「はい。条件は……技術指導料として金貨百枚。我が領より『研修生』を派遣し、あちらの道路工事に実習生として参加させること。……そして、習得した技術の、他国や第三者への漏洩を厳禁とすることです」
伯爵は一瞬、言葉を失った。疲れた顔に、驚きと疑念が混じる。
「……第三者への口外禁止、か。技術の独占権を我々に認めつつ、自身の優位性も完璧に守る気だな。だが……それにしても金貨百枚で、その技術を譲ると? フェルメールめ、正気か? もしや、偽りの技術を掴ませてこちらを欺くつもりでは……」
マルコは静かに首を振った。
「……偽りではございません。私は捕縛される直前、あの『沈まぬ道』に使っているであろう魔道具を、この目で確かめました」
「魔道具だと?」
「はい。泥靴村の領民たちからも証言を得ております。あちらは土木作業だけでなく、『ミスリルで作られた大槍』……すなわち、強力な魔道具を使用しておりました。それを地面に突き立てて魔法を放てば、泥濘が土のように固く変化するのだと」
伯爵は小さく息を呑み、そして深く頷いた。
「ミスリルの大槍……土を固める魔道具か。ふむ、やはり独自の魔法技術も使っていたというわけだ。その仕組みや運用法まで技術指導料に含まれるのなら、金貨百枚などむしろ安すぎる買い物じゃないか」
「ええ。それに、あの方々の目は真剣そのものでした」
伯爵は目を細め、息を吐いた。
「……だが、解せんな。フェルメールといえば、貧乏男爵家のはず。大槍ほどの質量のミスリルなど、伯爵家であるウチの蔵をひっくり返しても用意できるかどうか怪しいほどの代物だぞ。……一体どこから、そんな莫大な資金と材料を調達したというのだ?」
マルコは首を横に振った。
「私にも分かりません。ですが、村は活気に満ちており、とても貧乏な領地には見えませんでした」
「……ますます妙だな。だが……待てよ、背後に強力なパトロンが居て道作りを推しているのかもしれんな、それなら辻褄が合う」
伯爵は納得したように頷いた。
「それと、……恥を忍んで申し上げますが、私が処刑を免れ、この契約を得られたのは、フェルメール卿の傍らにいた幼い若様のおかげなのです」
「若様だと?」
「はい。カイト様という、まだ幼子でした。その子が私に同情し、私を助けるよう卿に懇願してくださったのです。……あの慈悲がなければ、私は間違いなく死ぬまで強制労働させられていたでしょう。命を救われた身として、あの親子の言葉に嘘はないと断言できます」
伯爵は静かに息を吐き、感心したように目を細めた。
「……フェルメール卿の武勇は聞いていたが、そこに慈悲深い跡取りか。まったく、末恐ろしい領地だな。……研修生として民を連れて行き、向こうの工事を手伝わせる……つまり、対価として労働力を提供させつつ、魔法技術を含めた本物のノウハウを確実に習得させるということか」
ふん、と伯爵の口元に疲れた笑みが浮かぶ。自嘲と希望が入り混じった笑みだ。
「実に巧妙だ。向こうは金を得ながら道路を完成させ、こちらは必死に働きながら技術を学ぶ。教育という名の、互いの利を最大化する取引……侮れんな」
だが、と伯爵は地図へ視線を落とし、鋭く目を細めた。
「……しかし、半年だ。半年間も百人を北に釘付けにして、春からようやく工事を始めたのでは、来年の秋の嵐にも間に合わなくなる恐れがある」
伯爵は顔を上げ、鋭い声で命を下した。
「誰か、内政官のウォルターを呼べ。お前たち第一陣に同行させ、正式な使者として立たせる」
「ウォルター様を、でございますか?」
「ああ。あちらに条件の変更を申し入れる。百人を一度に半年間預けっぱなしにするのではなく、一定期間で技術を習得した者から順次南へ帰還させ、代わりに新たな人員を北へ補充する『入れ替え制』の交渉だ」
伯爵は地図上のフェルメール領と自領を指で結ぶ。
「常に体力の余った新たな労働力を提供し続けると言えば、向こうの工事日程にとっても悪い話ではないはずだ。帰還した者から順次、黒竜川の治水工事に投入し、冬の間から並行して作業を進めるんだ」
「なるほど……! それならば、来年の秋の嵐には確実に間に合わせることができますね!」
「当然、先方もタダで条件変更には応じまい。魔法技術の開示に加え、この特例を飲ませるんだからな。技術指導料の金貨百枚に加え、さらに五十枚……いや、必要とあらばそれ以上積んで『色』をつけろ。交渉の裁量と金庫の鍵はウォルターに任せると伝えろ」
伯爵は立ち上がり、窓外の黒竜川を睨み据えた。
「なんとしてもこの条件を飲ませ、一刻も早く技術を持ち帰れ。……フェルメール卿に伝えろ。『この恩義、あますところなく労働と、十分な対価で必ずや返済する』とな」
マルコは深く頭を下げた。
「……承知いたしました。閣下、あの魔道具と治水技術があれば……黒竜川の脅威は、必ずや終わるでしょう」
顔を上げたマルコは、ふと思い出したように付け加えた。
「あっ、最後に泥靴……いや、フェルメール領には百人も泊まれる場所は無いので、そのつもりで来てくれと念を押されました」
伯爵は一瞬目を丸くし、やがてフッと呆れたような笑みをこぼした。
「やはり貧乏男爵家には変わらんか!ふん、端から客扱いされるとは思っていない。我らは這いつくばってでも技術を掴み取るために行くのだ。ウォルターに伝えろ。全員分の野営の準備と、当面の糧食も馬車に山と積んでおけ、とな」
伯爵は窓外の果樹園を見やり、静かに言葉を落とした。
「……今年の嵐の季節には、どう足掻いても間に合わん。今はただ、黒竜の機嫌を損ねぬよう神に祈るしかあるまい」
伯爵は悔しげに目を細めた。しかし、窓枠を握る手に力を込め、その瞳の奥には久しぶりに強い光を宿らせた。
「だが……来年の秋が深まる頃には。ようやく、この領地に真の安寧が訪れるかもしれないな」
そして、この半月後――。
大量のテントや野営道具を積んだ馬車列とともに、伯爵領各地から決死の覚悟を決めた百名を超える屈強な研修生(という名の土木作業員)たちが、泥靴村を訪れることになるのだった。
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