第26話 妥協を許さぬ鬼の検品
泥靴領に、初夏を思わせる爽やかな風が吹き抜ける頃。
ロラン騎士爵が、再びフェルメール男爵領の館を訪れた。今回の彼は、いつもの実用的な旅装束ではなく、騎士としての品格を感じさせる正装に近い身なりだった。
「アルベルト殿、カイト殿。……早いもので、お披露目パーティまであと三ヶ月だな。準備も本格化する頃だろうと思い、少し早いが祝いの品を持参した」
ロランが取り出した小箱の中には、細工の細かい『樫の葉を模した銀のラペルピン』が収められていた。ロラン家の紋章である樫は「不屈と信頼」の象徴だ。
「これは、我がロラン領とフェルメール領が『湿地の道』を共にする、固い同盟の証だ。……カイト殿、パーティではこれを身につけて、君の知恵を皆に示してほしい」
「わあ! おじちゃん、ピカピカ! ありがとー!」
カイトは無邪気にはしゃぎながら、そのピンを受け取った。
(ククク。銀細工か。ロランのおっさん、『この神童は、わしが一番に唾をつけた』と周囲に宣言するつもりじゃな。……よかろう、宣伝部長としての役割、果たしてやろうじゃないか!)
ロランが帰り、館に平穏が戻った夜。
母エレナは、机に向かって羽ペンを走らせていた。宛先は実家、ベルノー子爵家である。
これまでも「元気にしています」「第二子が産まれました」といった、近況報告は送っていた。だが、今回ばかりは彼女の「親バカ」の堰が切れた。
『……お父様、お母様。カイトは本当にとんでもない子に育っております。
泥沼に道を通しただけでなく、あのハルバード伯爵様と対等に渡り合い、融資を引き出したばかりか、カイトの考案した「気泡管」という道具で共同事業まで始めたのです……。ロラン様も、カイトを自分の領の賓客として扱うと言って、片時も離したくない様子で……』
それは、単なる報告を超えた、誇らしさに満ちた「自慢」だった。
数日後。北の穀倉地帯に位置するベルノー子爵邸。
届けられた手紙を読み終えたベルノー子爵は、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……なんだと? 泥靴領で道を作った? 伯爵を唸らせて商売を始めた!?
我がベルノーの血を引く孫が、まだ五歳にもならんというのに、そこまでのことを……!」
隣で手紙を覗き込んでいた子爵夫人も、ハンカチを握りしめて目を輝かせている。
「まあ……! 泥に塗れて苦労しているかと思えば、そんな素晴らしいことになっていたなんて。お披露目には、可愛いハンカチでも送ろうかと話していましたが……」
「そんなもので足りるかッ!」
子爵は即座に執事を呼びつけた。
「ハンカチは中止だ! いや、それも送るが……メインは別だ!
蔵から、あの『蒼い魔石をあしらったアスコットタイ』を出せ! 我が家の家宝だが、カイト以上に相応しい主はいまい!」
「旦那様、お待ちください。あれを五歳の子供に……?」
「黙れ! お披露目パーティで、我がベルノーの血を引く天才が、見窄らしい格好などさせられん! ハルバードのタヌキやロランの若造に、格の違いを見せつけてやるのだ!」
こうして、カイトのあずかり知らぬところで、実家の「孫バカ」が爆発した。
フェルメール家の家宝を軽く凌駕する、とんでもない至宝が泥靴領へと向かうことになったのである。
そんな事などつゆ知らぬカイトは、粗朶道と風呂場の工事と、ハルバード伯爵から送られてきた気泡管の校正と検印で忙殺されていた。
フェルメール領の執務室。カイトは踏み台に乗り、完全に水平を出した石板の前に陣取っていた。目の前には、伯爵の工房から届いたばかりの、木枠に収められた水準器が並んでいる。
「……これ、ぷくぷく(気泡)がちいさすぎ。だめ」
カイトは一本を手に取り、不合格の山に分けた。
(……液体の量が多すぎる。これでは気泡が小さすぎて、わずかな傾きに反応せん。ただの不良品じゃ)
「……あ、これはぷくぷく(泡)がひだりに、よ(寄)ってる。こっちの足を、ちょっとだけ、けず(削)って」
カイトは、右側の底面に「ここを削れ」のサインである×印を書き込んだ。
その次の水準器にも同じように×印を書き込んだ。
(……底が平らでも、中の管がわずかに傾いて固定されとる。ならば、フレームの底を削って、全体の水平を合わせるしかねぇ。職人の野郎ども、この『手直し』の細かさに、今頃泣き言を言っとるだろうな)
カイトは淡々と不合格品を仕分け、ようやく納得のいく一本を手に取った。
「……これは、おっけー」
カイトは、『銀の烏口』の軸を手に取った。石板の上で気泡がピタリと中心に止まったのを確認すると、慎重に、だが迷いなくガラスの表面へ鋭い二本の線を刻み込む。
(……この二本の線こそが、水平の基準。この傷がなければ、ただの液体の入った棒に過ぎん)
校正が済むと、カイトは合格した水準器を隣の作業台へと回した。
「パパ! これ、ペッタンしていいよ!」
指示を受けたアルベルトが、熱せられた「焼印」を木枠の側面に押し当てる。
じゅわっという音と共に、フェルメール家とハルバード伯爵家の紋章が合わさった印が刻まれた。
(……これでよし。ワシが刻んだガラスの傷と、この焼印。この二つが揃って初めて、これが『計測器』として完成するわけじゃ)
アルベルトは、完成した水準器に熱せられた焼印を押し当てながら、目の前で淡々と作業を続ける小さな息子を見つめ、圧倒されていた。
領民が一年かけて納める税にも匹敵する価値が、この一瞬の「校正」に宿っていると誰が信じるだろうか。
「……金貨、一枚。この、わずかな傷を付けるだけでなぁ……」
アルベルトがまだ震える手で焼印を握りしめている間に、カイトはさっさと踏み台から飛び降りた。
「パパ、おわり! 二十もあったのに五つしかおっけーにならなかったね。カイト、つぎのげんばにいってくるよ! バイバーイ!」
「えっ、おい、カイト! まだ話が……!」
背後でパパが何か言っているが、現場監督に立ち止まっている暇はない。トテトテと短い足で廊下を駆け抜け、屋敷を飛び出した。
(パパの驚く顔も面白いが、今は金より湯気じゃ。職人たちが「泥沼と一緒」などと抜かした、あのお風呂場の仕上がりを確認せねばならんからな!)
村の広場の隅では、木製の貯水タンクの下で、バルカスが作った鉄の釜が泥炭の炎を浴びていた。
「おじちゃん! おゆ(湯)、でた?」
「お、坊ちゃん! 今まさに一番風呂の準備が整ったところだぜ!」
ゴドーが栓を開けると、湯気を立てた熱い湯が、新しい木の香りがする浴槽へと注ぎ込まれていく。
(……よし。給湯の勢いも十分。バルカスの釜も、泥炭の熱をしっかり伝えておる。ここは合格じゃ)
カイトは満足げに頷くと、すぐに踵を返した。
「ゴドーおじちゃん、あついお湯に入っちゃだめだからね。次はおみちを見てくる!」
「ええっ!? 入らねぇのかよ坊ちゃん!」
驚く職人たちを置き去りに、カイトは完成間近の粗朶道へと向かった。
湿地を貫く直線ルート。そこでは村の男たちが、枝の束を並べる作業を続けていた。
(……ここが正念場じゃ。新しいお風呂見たさに、みんな作業が早くなっとる。だが、急ぐあまりに枝の結束が甘くなれば、道が沈む。精度こそが命じゃ!)
「おじちゃん! そこのえだ、もっとギュッってして! ゆるゆるだと、くずれちゃうよ」
「あ、はい! 坊ちゃん、すぐやり直します!」
夕暮れの湿地に、カイトの指示と、それに応える男たちの威勢のいい声が響き渡っていた。
こうして、この世界で一番忙しい四歳児の日常が過ぎていった。
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