第130話 バッカスの悪寒と冷徹な経理
走り去る黄色いヘルメットを見送りながら、バッカスは頭を抱えた。
――ゾクッ……!!
突如として、バッカスの背筋に氷を当てられたような、恐ろしい悪寒が走った。
(なんだ、今……あの忌まわしい『絨毯に臭せぇ油を撒き散らされた時』と全く同じ、特大の嫌な予感が……?)
彼の脳裏にハルバードに残してきた自分の魔導工房――その応接室の光景がフラッシュバックした。
油に沈む前の、在りし日の美しい東の国の絨毯。
そこからゆっくりと視線が上に上がっていくと、壁には今までバッカスが己の技術の粋を集めて作り上げてきた、自慢の魔道具たちが飾られている。
装飾が見事なミスリルのチェーン。
魔石の繊細な刻印を模して織られた美しいタペストリー。
そして、そのさらに上……応接室の一番高い特等席に鎮座している、自分が丹精込めて彫り上げ、ピカピカに磨き上げた『二メル超えの美しき黒檀の杖』の姿。
その杖が泥沼に刺さり、圧密魔法を流され、木っ端微塵に砕け散る幻視をみた。
――ゾクゾクッ……!!
(……い、いや、まさかな。いくらなんでも、遠く離れたハルバードにある俺の『私物』まで、あの悪魔の坊主の毒牙にかかるわけがねぇ。それに、買い出しに行くのは王都の商会だ。……ハハハ、考えすぎだ)
バッカスは無理やり引きつった笑いを浮かべ、不吉な予感を頭から全力で追い出そうとした。
だが、カイトの無茶振りに巻き込まれ続けて研ぎ澄まされた『職人の勘』が、激しく警鐘を鳴らし続けている。
「……大師匠? どうしたんスか、顔色真っ青ッスよ?」
「バッカス、嫌な汗かいてるぜ。サウナの熱気にあてられたか?」
メリダとダグラスに不思議そうに声をかけられ、バッカスは「な、なんでもねぇよ!」と誤魔化しながら、なぜか滝のように止まらない冷や汗を必死に拭うのだった。
***
「――ぐふっ……!!」
執務室に駆け込んできたカイトから『黒檀の使い捨て爆買い計画』を聞かされた瞬間。アルベルトは顔を青ざめさせ、ボフッとデスクに突っ伏して胃のあたりを強く押さえた。
「き、金貨一枚の高級木材を……使い捨ての杭にするだと……? しかも、何十本も……?」
アルベルトからすれば、金貨一枚は大金だ。それをたった数発の魔法で木っ端微塵にするなど、金貨を泥沼に捨てるようなものだ。とても正気の沙汰ではない。胃酸が逆流しそうなストレスに、アルベルトは震える声でカイトを諭そうとした。
「カ、カイト……さすがにそれは……いくらお前の頼みでも、予算というものが――」
クラークは一瞬、手元の帳簿に目を落とし、損害額と投資額を指で追いながら眉を寄せた。
「アルベルト様。私はその投資、十分に『アリ』だと存じます」
アルベルトの言葉を遮ったのは、横で冷静に帳簿を見つめていたクラークだった。彼は手元の書類をトントンと揃える。
伯爵から全権を任されて出向してきているハルバードの超優秀な内政官の言葉に、アルベルトは弾かれたように顔を上げた。
「ク、クラーク殿!? 正気ですか!? 金貨一枚の杖を何十本も使い捨てるんですよ!?」
「極めて正気です。現在、ウドのローラー作業を止めれば、村に通じる旧道の整備が遅れます。そうなれば、ハルバード領から運ばれてくるであろう大量の資材を積んだ馬車が立ち往生し、村の物流が完全に死にます」
クラークの冷徹な声に、アルベルトが息を呑む。
「さらに、重機不足で新道(粗朶道)の工事がストップすれば、我がハルバードから派遣している職人たちの待機時間が増え、莫大な人件費が丸々無駄になります。工期の遅延によって我々が被る全体損害は、軽く金貨数百枚規模に膨れ上がるでしょう」
(おおう! さすがはクラークじゃ! 現場の足を止めるのが一番の『大赤字』だということを、完璧に理解しておるわい!!)
内心でガッツポーズを決めるカイトを横目に、クラークは淡々と結論を告げた。
「数百万の損害(赤字)を垂れ流すくらいなら、金貨二、三十枚で黒檀の木を『使い捨ての消耗品』として買い叩き、強引に工期を間に合わせる方が、圧倒的に安上がり(黒字)です。伯爵閣下から現場の管理を任されている私の権限において、この経費は通すべきだと判断します」
「うぐっ……!! 理屈は……理屈は痛いほど分かるが……っ!!」
「よって、直ちに王都の商会へ早馬を出し、黒檀の杖の在庫を買い占めます。……同時に、ハルバードにあるバッカス殿の工房へも使いを走らせましょう」
「バッカスの工房にもですか?」
クラークは眼鏡の奥の目を光らせ、ニヤリと合理的な笑みを浮かべた。
「ええ。王都からの大量発注品が届くには数日かかりますが、現場は一日たりとも止められません。
バッカス殿ほどの超一流の魔導刻印師ならば、自身の工房に黒檀の在庫を『一〜二本』は確実にストックしているはずです。
それを至急接収し、本命の資材が届くまでの『繋ぎの重機』として最前線に投入します。……よろしいですね、アルベルト様」
「あ,ああ……頼む……。あぁ、胃が……私の胃が……」
大スポンサー(伯爵)の代理人であるクラークの完璧な論理と、バッカスの私物まで現場の資材として組み込む容赦のなさに完全に押し切られ、決裁書類に力なくサインをするアルベルト。
クラークは「では、至急手配して参ります」と一礼して部屋を出て行く。
「パパ、ありがとう!」
カイトは無邪気に笑うと、机の上でぐったりしているアルベルトにトテトテと近づき、その背中をぽんぽんと優しく叩いた。
(すまんのぅ、パパ。じゃが、現場監督とハルバードの経理の『そろばん』が一致した以上、領主には泣いてもらうしかないんじゃよ)
「さーて! 木が来たら、バンバン うつぞー!」
カイトは黄色いヘルメットを揺らしながら、意気揚々と深沼の現場へと戻っていくのだった。
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