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賀茂光栄 時空を駆ける  作者: 屯田 水鏡
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手術の朝

十四 手術の朝

朝日がカーテンの隙間から斜めに差し込んでいる。

「母さん、もう、家族待合室に行って休んだらどう。今回で三回目だから、もう手術には慣れちゃったわ、私のことは心配しないで」

「もう少し、ここにいるよ」

カーテンの間から朝日が差し込んで二人の顔を照らした。

なぜか、朱美のほほを涙が伝っている。

「朱美、泣いているの」

信子は少し驚き、その語気には咎めるような響きがあった。

「いえ、泣いてなんかいないわ」

朱美は急いで涙をぬぐった。手術は不安ではあるが、恐怖を覚えるほどの動揺はないと思っていた。

従って、涙の出る理由は思い当たらない。なぜ涙が出たのだろうか、朱美本人にも分からなかった。

そして、言いようのない暗い気持ちに沈んでいった。

二人は、申し合わせたように押し黙った。

この病院に伝わる古い迷信を思い起こさせたからである。

不安なとき、人は些細な出来事にも不吉なものを感じる。その不吉さに苛立ちを覚えたのだろうか、信子の語気はいつか咎める口調になっていた。

〈なぜ、涙を流すのよ〉

激しく叱り付けそうになる言葉を吐き出しそうになって慌ててそれを飲み込み、大きく息を吐いた信子の体は少し震えていた。

〈ああ、神様、どうしてなの、私たちの何がいけなかったのでしょうか、悪いことをした覚えはありません、ただ、世間の片隅でひっそりと生きている母と子がなぜこんな悲しみを背負わなければならないのでしょうか、教えてください〉

いつか底知れない、恐怖と悲しみに母娘は包まれていた。

手術の前に涙を流す患者は、生きて手術室を出られない、という古い言い伝えが、まことしやかに病院の看護師と患者の間で噂されていたのであった。

そんな時、部屋の外で女性達の話す声が二人の耳に飛び込んできた。

暫くして、看護師が数人、ストレッチャーを押してやってきた。

「さあ、手術室へ行きますよ。気分はいかがですか」

「気分は‥普通です」

気分など良いはずがない。不安でいっぱいなのよ、泣き叫びたいくらいに、でもあなたたちに話したって仕方ないこと、どうせ、この暗闇の中に引きずり込まれるような苦しみと悲しみと、押しつぶされそうになる絶望感は誰も分かってくれはしないでしょう、そんな憐れみの眼を向けるのはやめて、大声で泣き叫びたい気持ちを必死でこらえているのよ。

そんな心の叫びをかくして朱美は微笑んだ。

今回は、もしかしたら、生きて目覚めることはないのかも知れない、どうしよう。言いようのない不安が朱美の頭の中を駆け巡っていた。

「さあ、時間がありません、どうぞ、ストレッチャーに乗って仰向けになってください」

看護師の一人が言った。

ストレッチャーを押しながら、看護師たちは、仕事への不満を漏らし、つぎには医者への不満、さらに自分たちの相手にふさわしい、ハンサムで結婚適齢期の医者の不存在を、小声で笑いながら話している。適齢期の娘たちの若く健康的で屈託のない会話であった。

朱美は廊下の天井を眺めていた。

そこにはムシクイと呼ばれる天井板が張られていた。白い石膏製の天井板には虫が食っている様な模様が彫られていて、値段としては安価な部類に属するものであった。

天井をぼんやりと眺めている朱美の目の前に黒い影が覆い被さって視界を遮った。

〈何かしら、カラスが迷い込んできたのかしら、それにしても、こんなに大きなカラスってこの付近にいたかしら、何だか変ね、目の錯覚かしら?看護師たちったら何でこのカラスに気が付かないの〉

そう思いながら彼女らの顔を順番に見るが誰も気が付いている様には見えない。

その時、黒い影の中に、うっすらと人の顔が見えた気がした。

その顔は次第に輪郭を現すと、驚く朱美をじっと見つめ、さらに、その鼻先まで近づき、朱美の目を覗き込んでニヤリと笑った。

「あなたは誰?もしかしたら死神なの?」

「シニガミ?なんだ、それ?」

「死神でないのなら誰なのよ?」

「私か、私の名は賀茂光栄かものみつよし、京都にあるあの賀茂神社のカモで、光が栄えると書いて、ミツヨシと呼ぶ」

「え、平安時代に活躍した陰陽師のあの賀茂光栄なの?」

「そうだ、陰陽師の賀茂光栄だ。ところで、私の名はお前の住むこの世でも広く知られておるのか?」

光栄は満更でもなった。自分の名が後世に残っていることに気を良くした。

「そうでもないわ、賀茂光栄の名を知っている人って歴史好きの中でも相当にマニアックな人だわ」

「何だ、どういう意味だ」

「陰陽師で飛び切り有名な人と言えば、何といっても、安倍晴明あべのせいめいだわ、賀茂光栄を知っている人なんか殆どいないのじゃないかしら」

「なに、安倍晴明とな」

光栄は機嫌を損ねたように、フンと鼻で笑って朱美の背中へ廻った。

「何をするの」

「ふん、なにも取って食う訳ではないから怖れるにはおよばぬ」

肩甲骨の間をまさぐられていると感じた次の瞬間、背中全体がズンとした。

朱美は賀茂光栄に両脇を抱えられて自分の体から抜け出している自分に気が付いた。

「きゃあ」

大声を発したが、看護師たちは全く気付いていない様子であった。どうしたことだろう。

「驚くことはない、今、そなたの霊魂を引きずり出しておる、念のため言うが、そなたの声はうつせみの者どもには聞こえぬ、安心して叫ぶが良い、そして、この俺の姿はこの者どもには見えない、それも安心して良い」

朱美はいつか気を失っていた。

「おい、目を覚ますが良い」

朱美は自分が天井の隅に浮かんでいることに気が付いた。

「下を見て見よ、何人もの医者と看護師がそなたの体から不都合なものを取り除いてしまおうと準備に取り掛かっておる」

「ここは手術室なの」

「そのようだ」

「見よ、手術台の上で眠っておるのがそなただ、ふむ、なかなかの美形ではないか」

「あら、そう」

「うむ、礼儀として言っておるまでだ。謙遜して、いえ、そうでもありませぬなどと言って、少しは否定をするという気はないのか?ふむ、まあ、良かろう、ところでこのままこの場に留まっておっても仕方がない、出かけるぞ」

「どこへ?」

「任せておけ」

光栄は朱美の手を取った。

朱美は掌に光栄の手の温もりが伝わったように感じた。

「行くぞ」

二人が手を繋いで飛び立つと、ゆっくりと手術室の扉がひらいた。

二人が通り抜けると、風を感じたのか、白衣の男女が皆一様に手術室の扉を見やった。やがて「さあ、始めます」という声が響くと、部屋の中はピンと張り詰めた空気が走り、誰もがてきぱきと動き始めた。

廊下に出た時、光栄が呟いた。

「おっと、蜘蛛丸を忘れておった。朱美、病室へ戻るぞ」

二人は風となって、廊下を飛んで行く。

時々擦れ違う誰もが怪訝な顔で周りをみまわす、二人が通り過ぎる風と気配を感じるが、しかし、何も見えない。一様に不安の様相を見せる。人は皆、理由の分からない現象に恐怖を抱くのであろう。

「やあ、待たせたな」

ここにも不安な顔で窓の外を見やっている男がいた。

「若で御座りますな、待ちくたびれましたぞ」

光栄の声に安心したのか、破顔一笑、振り向いた蜘蛛丸はそこに朱美の姿を見て驚きの声を発した。

「ぎえ、だっ、誰で御座りますか、その娘子むすめごは?」

「見た通り朱美ではないか」

「朱美?その方なれば、今、手術とやらを受けているところでは御座りませぬか。まさか、若、今若のそばにいる娘ごが朱美殿で御座りまするか?」

「そうよ」

「若、何ということをされるので御座るか、陰陽の術を戯れに使っては罰が当たりますぞ」

「固いこと申すな、我らが今いる世界を知るには、朱美の助けがが必要なのだ」

「何なのよ、二人で勝手なことを言い合って、一体あなた方は私にどうしろというの」

「ぎゃあ、若、こ奴、我々の姿が見えるので御座るか」

「こ奴とは誰のことよ。それよりも、いったいあなたは誰」

朱美は自分が今どういう状態なのか、それよりも、今自分が現実の世界にいるのか夢の中にいるのかも分からず、苛ついていた。

そして、自分の前に新たに現れた気持ちの悪い男、蜘蛛丸をじっと見つめた。

「気持ちの悪い人ね。あなたって」

「何、小娘のくせに、人を馬鹿にしおって。若、何とか言ってくだされ」

「蜘蛛丸、そう怒るな。朱美は、今、我らが急に現れたので、目の前の出来事を理解できずにいるのだ」

「蜘蛛丸?あなたの名は蜘蛛丸というの?なるほど」

朱美は頷く。

「朱美殿、なるほどとは、どういう意味で御座るか?」

「だって、言われてみればあなたって蜘蛛にそっくりなのね、ああ、気持ちが悪い」

「若、何とか言ってくだされ、このような下品なおなごが世の中に溢れているようでは我が扶桑国の未来は暗う御座りまするぞ」

「まあ、そう申すな、そなたの良いところが分かれば、この娘も考え直すであろうよ。もっとも良いところがあれば、の話だがの。それよりも蜘蛛丸、窓を開けてはくれぬか」

「窓を開けてどうされます」

「知れたこと町中へ繰り出すのさ。いや、飛び出すと言った方が表現としては適切なのかも知れぬな。さあ、朱美、私の手を取れ、お前の育った京都のまちを見てみようではないか。私が住む平安の世から、どのように変化したのか見てみたいものだ」

カーテンを揺らす風となって二人は外へ飛び出した。

「きゃあ、私、空に浮いているの」

「そうさ、朱美、そなたはいま霊魂という存在なのだ。自由にこの天地を駆けることが出来る。どうだ、気持ちよかろう」

「ええ、とっても。解き放たれたって感じよ」

「そうか、良かった。さあ、ぶっ飛ばすぞ」

「ねえ、ぶっ飛ばすなんて言葉、平安時代にもあったの?」

「いやあ、なにほどでもない、ついさっき、ちとばかり地上を観察したときに二輪の乗り物に乗った若い男と女が喋っていたのを聞いたのさ。あれは、若ものどもの標準語であろう?」

「ふふ、そうかもね」

耳元で風を切る音がして速さが増した

「若、朱美殿、待ってくだされ」

蜘蛛丸が慌てて後を追って窓から飛び出した。



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