第五章 科学者の心(5)
本来このような小さな聖堂で猊下に拝謁することなどありえないことなのだが、こればかりはことがことなので、あえて猊下から出向いてきたことだった。
すべて、主教猊下の思し召しのとおりに。
そうせざるを得なかった。
なぜなら、我が身は、王位継承権を持つにしても、第七位に過ぎぬ身分だから。
庶民や下級貴族から見れば、それでもうらやましい身分に違いなかろう。
だが、そうではない。
王位継承権を持ちながらも、王位か重要な役職を得られなかったものは、その後、自らの処し方さえ決められぬ身分に追い込まれていく。そう決まっているのだ。野心を持った者が、下位の元継承権者を担ぎ上げて謀反を起こす可能性を可能な限り減ずるために。
男子であれば、有力な貴族の養子に入るのが通例だ。そのポストさえ無い場合には、地方の荘園を得て中級貴族に落とされる。それでも、結婚の自由をある程度持つだけ、男子はましだろう。
女子は、次の王位が決まり、処遇を決せられるときには、間違いなく大貴族の跡取りに輿入れさせられることになる。選択の自由は無い。どこぞの貴族のバカ息子に一生添い遂げねばならない。それだけならまだしも、元王女の扱いに難儀した挙句指一本触れられずに、気が付くと妾の産んだ子に家名をさらわれていることさえある。
王位は無理でも、せめてそれに準ずる地位を得て、自らの進退を自ら決する権利を持たなければならない。
――だから私は、その後ろ盾として猊下を選んだ。
エミリアにおける思想的指導者。
彼の口添えさえあれば、政務尚書、典礼尚書あたりは堅かろうし、宰相か摂政の役に付く可能性もあり得る。その地位まで得られれば、自らの処し方どころか、次代の王位にまで影響力を及ぼせよう――。
そのようなことを考えながら、メアッツァ主教との会見を終えたリーザが大聖堂をゆっくりと歩み出たところで、本来ありえない人物が、前庭の一画に佇んでいるのを見つけた。
ディーン・リンゼイ。本来もう会うはずの無かった男。
彼は、暗い緑の上着と、それよりも暗い表情で小さなベンチに座っている。
ほどなく、彼はゆっくりと顔を上げ、リーザの瞳を覗き込んだ。
――なぜ彼がここに。
偶然かもしれない。だが、この町にいるはずのない彼がいること。直前に自分は何をしただろう。そう、彼の所属する地質調査局の調査区域の閉鎖を強引にねじ込んだ。だが、彼はそんなことで怒りを燃やし、王女たる自分に怒鳴り込んでくるような男だっただろうか? 彼はもともと、無気力な公務員だったはず――。
考えながら、それでも、彼女のポーカーフェイスは偶然の出会いに気付かなかった風を作り、彼女のカモシカの足は彼の前を足早に通り過ぎようとする。
「リーザ」
偶然ではなかった。彼は、自分を呼び止めたのだ。
「……いえ、リーザ王女殿下」
ディーンは、敬称を付けない契約はもう済んでいたことを思い出し、呼びかけを変えた。
「……リーザ、でいいわ。何か用?」
一方のリーザは、契約の延長を示唆する。
「単刀直入に聞きたい。採掘エリアの閉鎖は……リーザの命令なのか」
じっ、とリーザの瞳を見るディーンの目を、リーザも見つめ返す。
しばらく、無言の時が流れる。
そよ風が吹き、揺れた枝から小鳥が数羽、羽ばたいていく。
「……そうよ。あれは私の命令」
「どうして。――いや、かまをかけあうのはよそう。僕は……さっきの君の密会を、覗き見してしまった。だから、君の今の返事、それから、あの鉱石サンプルを欲しがったこと、そのどちらの理由も、理解していると思う」
ディーンの言葉に、リーザは絶句する。
まさかあの会話を盗み聞いていたなんて。
他の貴族連中による盗聴を警戒して、あえて市内の人気の無い教会を密会場所に選んだことが、裏目に出た形だ。もし、もう少ししかるべき設備を備えた教会であれば、確実に秘密を保てる部屋を使えただろうに。
「どこまで聞いたの」
「――たぶん、全部」
リーザは、頭を振ってため息をついた。
「いいわ、どこぞの貴族にでも密告なさい。あなたはきっとたっぷりの恩賞と、好きなだけ土くれいじりに没頭できる地位を得られるわ」
めいいっぱい皮肉を込め平静を装ったつもりだったが、その声が震えるのをリーザは抑えられなかった。たぶん、これで終わり。表立った処罰などありようもないだろうが、結局は脅迫されるがままに誰かの利益のための操り人形と成り果てるしかない。
「違う、リーザ、そんなことをしたいんじゃない」
リーザの裏切りに対する復讐の念が一瞬湧き起こり、彼女の言うとおりにしてしまおうかという考えが一瞬脳裏をよぎったが、ディーンは固い意志でそれを拒否した。
「最初から僕を裏切るつもりだったのか、成り行きでそうなったのか……それから、エレナを排除しようという君の言葉は、どういう意味だったのか、それを知りたいんだ」
「最初から、よ。猊下の御心はよく知っていたから。エミリアは、目立たず嘲られず、ただ平和と平穏であるべき国だと私は考えている。だから、猊下の御心は私の想いと同じなのよ」
「だからって、発見の道を閉ざす必要は無いんじゃないか」
「閉ざすんじゃない。必要が無いの。必要が無いとみんなに信じて欲しいの。あなたの隣にいる人を出し抜いてやろうなんてことを、あなたが考えずに済む優しい国であって欲しいの。だってそうじゃない? エミリアに済む人々は、食べ物も資源も十分。私のご先祖様がそろえた三つの惑星から尽きることなく運ばれてきて、私たちは飢える恐れも無く、どこかとの競争に負けて突き落とされる心配も無く、もちろん、ロックウェルだのマカウだのがやりあってる貿易路をめぐる争いになんて参加しなくて済むのよ? 目立っちゃだめなの。それが、為政者としての決断。そして、猊下は、信仰の揺らぎを気にされて、新しい発見を恐れている。たまたま手段が一致しただけなのよ」
「つまり、君は主教猊下の手先として僕らをだましていたんじゃなくて、違う目的だけれど同じ行動を取っていただけと弁明したい、そういうわけだ」
「ええ。だから、正教内の過激派たちがあなたの鉱石を狙って襲撃を繰り返したときも、私はそれを何とか止めようとした。信仰のためなら手段を問わない彼らとは、立場が違うのよ。私は民を傷つけてまでそれをなすべきじゃないと思ってる。全部理解しろとは言わないわ、でも、最低限の敬意は払ってきたつもり」
「けれど君は最後まで本当の目的を僕に話してくれなかった」
「知るべきじゃないと思った。話せば、猊下のことも話さなければならなくなるから――面倒ごとに巻き込みたくなかったのよ」
「マリアナまで僕を連れ去っておいて」
これじゃあ子供の口げんかだ。そう分かっていても、ディーンは言い返すのを止められない。せめて最初から話していてくれれば――それでも、信じていた王女と、信じていたエミリア正教の、科学に対する裏切りは、彼に同じ行動を取らせていたかもしれないが。
彼は自らを敬虔な信者だとずっと思ってきた。科学者としては半人前で科学に対する信念など持っているはずがないと思ってきた。だが、エミリア正教の科学に対する裏切りに接し、彼は、自分が科学者だと言うことを初めて確認したのだった。
「それは――エレナが、あなたにとって危険な相棒なのかもしれないと思ったから――せめて、正体が分かるまでは引き離しておかなくちゃと思って――」
リーザは言葉を選び選び反論するも、戦況は著しく悪い。何しろ、この国の貴族の誰も知らない王女の秘密を、彼に握られてしまったのだから。
「僕は確信した。エレナは危険じゃない。彼女は科学の守護者だ。信仰の名を借りて科学を愚弄した君たちを敵視し、敵対するのも当然だった」
「その競争心が暴力を生むのよ! あの女が何をやったか、もう忘れたの!?」
リーザが思わず声を荒らげる。
「……すまない、僕も冷静に判断できそうにない。今は、君が裏切っていたということしか見えていないんだ」
ディーンは激昂したリーザの姿に思わず自分の頑なさを重ね見、何とか冷静にそれを受けた。
「僕はもう行くよ。君との関係もこれまで……オズヴァルドによろしく」
「待ってディーン――」
自らの怒声が彼を呆れさせたのかもしれない、だとしたら、もう一度、冷静に、素直に、全てを話して彼に理解してもらい――。
――何のために?
彼は、私の遠く高い目標のために踏み台にした平民に過ぎないのに?
リーザが考えているうちに、ディーンの姿は教会の前庭から消えていた。
***
自らの不死性を維持するために多くの少女を犠牲にし、科学を守るために引き金を引くことをためらわない魔人エレナ。
自らの将来の地位を確固たるものにするために、強者におもねり科学と平民の生活を犠牲にする王女リーザ。
僕はいったい、何を信じればいいのだろう。
どちらも、気軽に会話をすれば歳相応の――そうどちらかと言えば好ましい部類の――少女なのに。
彼女らは、それぞれの目的で僕を翻弄する。
僕に信じられるものがあるとすれば、それは、僕自身だけなのだ。
――けれど。
僕は確認した。
僕は、科学者だ。
科学を愚弄されたことに怒りを覚えた。それが、その証拠だ。
採掘エリアは閉鎖され、僕はいずれ、全く別の海洋底の調査のために遠くの町の調査局に移籍させられるだろう。
その前に、科学の守護者たるエレナに、会いに行こう。
僕の味方がエレナだったことに気付いたことを告げに。
その後は、今度こそ、永遠に不死者や王族に立ち入られない人生に戻ろう。




