第1話 婚約を解消いたします
〈結納目録 第一項より ――本日、目録をお開きいたします〉
「婚約を解消していただきたく存じます」
わたくしがそう申し上げると、アルド様は手にしていた匙を皿へお戻しになりました。音は立ちませんでした。この十年、この方が音を立てたところを、わたくしは一度も見たことがございません。
「……なぜ、今なのだ」
もっともなお尋ねでございます。十年のあいだ、何も申し上げてまいりませんでしたので。
グランシャン伯爵家の朝の間は、南に窓が三つございます。この時刻はいちばん東の窓から光が入って、卓の端まで届きます。届いた先に、わたくしは膝の上の帳面を置きました。
表紙には『結納目録』とございます。母の字でございます。中の頁は、二枚目からすべてわたくしの字でございます。
「こちらに、頂戴いたしました品を控えてございます。七十二点。婚礼の日まで貴家の蔵にお預けする、という第七条のとおりに」
「……それが、どうした」
「お返しの分まで、控えてございます」
アルド様が帳面をご覧になりました。表紙を、でございます。お開けにはなりませんでした。
十年前、この方は同じものを一度だけご覧になったことがございます。婚約の翌年でした。わたくしが最初の一年分を書き終えて、お見せしたときのことです。
あのとき何と仰ったかは、覚えております。
覚えておりますが、その語をわたくしは使わないことにしております。
「解消となれば、こちらにも都合がある」
「存じております」
「父上と母上にも話さねばならん」
「そのために、書面をお持ちいたしました」
もう一冊、薄いほうを卓へ置きました。婚約契約書の写しでございます。原本は王室財務局にございます。両家の婚約は届出をいたしますので、あちらに一部残るのです。
「第九条を、ご覧いただけますでしょうか」
「……九条」
「解消のときは、受領した結納を現物にて返す。現物なきときは、受領時の評価額をもって充てる。そう書いてございます」
アルド様は写しをお取りになって、しばらく目を落としておられました。それから、こう仰いました。
「結納は返さぬ」
わたくしは膝の上で手を重ねました。
「一度この家に入ったものは、この家のものだ。父上がそう仰る。母上もだ」
「さようでございますか」
「お前の家に返す道理がない、と」
道理という語が出てまいりました。道理でしたら、この十年で何度か伺っております。ですので、わたくしはその語には触れませんでした。触れると長くなりますし、長くなったところで、こちらの帳面が短くなるわけではございませんので。
「それでは、一点ずつ数え直させていただきます」
アルド様が顔を上げられました。
「……数える」
「はい。第一項から、第七十二項まで。蔵にございます品を、目録と照らしてまいります」
「なぜそんなことを」
「ございます品は、ございますと控えます。ございません品は、ございませんと控えます。それだけでございます」
わたくしは帳面のいちばん後ろの頁を開いてお見せしました。そこには十年分の署名がございます。一年に一つずつ、十。
「毎年、年の終わりにこちらの家令バルテル様へお持ちして、確かにお預かりしていると署名を頂戴してまいりました。今年でちょうど十でございます」
「……バルテルが」
「はい。ご存じでいらっしゃいませんでしたか」
アルド様は答えられませんでした。窓の光が卓の端から少し退いておりました。この時刻の光は思いのほか速く動きます。十年通いますと、そういうことも覚えます。
扉が開いて、そのバルテル様が入っていらっしゃいました。銀の盆に手紙が二通のっております。伯爵家の家令をもう三十年おつとめの方で、背は高くはございませんが、姿勢だけは一度も崩れたところを見たことがございません。
「セリーヌ様」
「バルテル様。ちょうど、あなたのお名前を申し上げていたところでございます」
バルテル様は盆を卓へ置かれて、それから、わたくしの膝の上の帳面をご覧になりました。
ご覧になっただけでございます。何も仰いませんでした。ただ、盆を置かれた手が、置いたあとも少しのあいだ盆の縁に残っておりました。
「明朝、蔵をお開けいただけますでしょうか」
「……蔵を」
「目録と照らしてまいります。第一項から順に」
バルテル様は伯爵家の家令でいらっしゃいます。ですから、まずアルド様のほうをご覧になりました。当然のことでございます。
アルド様は何も仰いませんでした。仰らないということは、止めないということでございます。この方はいつもそうなさいます。止めもせず、進めもせず、そこにいらっしゃる。
「かしこまりました」
バルテル様がそう仰って、頭を下げられました。
思ったより、深うございました。
わたくしは帳面を閉じて、両手で持ちました。表紙の『結納目録』の字は、母が書いたときのままでございます。母はわたくしが十三の年に亡くなりましたので、この字はもう九年、増えておりません。増えているのは中の頁だけでございます。
「明日から、十日ほど頂戴いたします」
「十日」
「七十二点でございますので。一日に七点から八点、というところかと存じます」
アルド様がようやく、匙のほうへ手を戻されました。冷めた汁物でございます。この家の朝は八刻に始まって、九刻には片づきます。今日は少し遅れることになりました。
「セリーヌ」
「はい」
「……お前は、怒っているのか」
わたくしは少し考えました。考えたのは答えではなく、答え方のほうでございます。
「怒っておりましたら、帳面は持ってまいりません」
怒っている者は、数を数えられないものでございます。
これは母から教わったことでございます。母は嫁いでまいりましてから、この家の贈答をすべて控えておりました。どちらへ何をお贈りして、どちらから何を頂戴したか。婚約が調いましてからは、そこにグランシャン家の頁が増えました。春に反物、夏に氷菓の器、秋に新穀、冬に炭。年に四度でございます。
母の字は、二年目の春で止まっております。
止まりましたのは、亡くなったからでございます。
わたくしは十三でその一冊目を引き継ぎました。引き継いだ日に、父が申しました。無理をしなくてよい、と。
無理はしておりません。書くことは、無理ではございませんので。
ただ、書いたものを誰かが読むかどうかは、書く者には決められません。この十年、わたくしの帳面をお開けになった方は、この家にはお一人もいらっしゃいませんでした。
署名だけは、頂戴してまいりました。年の終わりに馬車で三刻かけてこちらへ伺い、玄関でバルテル様に帳面をお渡しして、玄関でお返しいただく。中へ通されたことはございません。通していただく用がございませんので、それでよろしいのです。
十度でございます。
朝の間を出るとき、廊下でバルテル様が半歩さがって道をお空けになりました。すれ違いざま、あの方が小さくこう仰いました。
「第四項から、先に見られますか」
わたくしは足を止めました。
第四項が何であるかは、わたくしのほうがよく存じております。書いたのはわたくしでございますので。
ただ、なぜ第四項なのかは、存じませんでした。
「結納は返さぬ」と仰る方に、令嬢が差し出したのは怒りではなく帳面でございました。全十五話、最終話まで書き上げてございますので、途中で止まることはございません。次回、蔵の扉が開きます。棚の三段目に、四角い抜けが二つ。――ブックマークと評価は、頂戴した日付とともに控えてまいります。控えたものは、消えません。




