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過労死した男、辺境貴族の次男に生まれ変わる

あと十秒。

杖の先に集まっていく光を見つめながら、俺は、心の中でそう数えていた。

十秒後、この光が消えれば、俺の人生は終わる。

大袈裟な話ではない。この世界では、それが現実だ。

――だが、話す順番を間違えた。少しだけ、時間を巻き戻させてほしい。

正直に言おう。俺は死ぬ直前まで、シフト表のことばかり考えていた。

「羽田さん、また灰谷店ですか」

本部の会議室で、後輩の営業担当がそう言って苦笑いした。灰谷店。従業員の定着率は県内最下位。レジの行列は、いつもクレームの温床だ。いわゆる万年赤字店舗である。フクヤストアのエリアマネージャーとして十年、俺はそういう店を渡り歩いてきた。人が足りない店に人を送る。発注が読めない店にコツを教える。接客の荒れた店に、接客の型を叩き込む。それが俺の仕事だった。

半年前、郊外の店舗で廃棄率の異常な高さに気づいたことがある。時間帯ごとの客層データと天候の記録を照らし合わせ、発注量を組み直した。それだけで、三ヶ月で廃棄コストを四割減らした。誰も見ていなかった数字の中に、答えはいつも転がっている。それが俺の信条だった。地味な仕事だ。誰にも褒められない。それでも、数字が改善する瞬間には、何にも代えがたい満足感があった。

灰谷店に赴任した初日、店長は開口一番こう言い切った。

「うちはもう手遅れです」

俺はそれに反論せず、まず一週間、黙って現場に立ち会った。見えてきたものは多い。発注担当が経験と気分だけで数量を決めていること。繁忙時間帯に限ってレジ要員が足りないこと。廃棄になる商品の傾向が、曜日ごとにきれいに偏っていること。数字にすればすぐ見える問題が、現場では「仕方ない」の一言で片付けられていた。二か月後、廃棄率は落ち着いた。店長も渋々、こう言うようになった。

「少しは変わったかもしれません」

派手な改革ではない。ただ、見えていなかったものを見えるようにしただけだ。

灰谷、という店名を、まさかこの後、辺境の領地の名前として再び耳にすることになるとは。その時の俺は、想像もしていなかった。

その日も俺は、朝五時に前日の売上データを確認してから灰谷店に向かった。深夜まで発注の組み直しと新人研修に付き合い、終電を逃し、始発を待つ間にコンビニのベンチで意識を失った。目を覚ましたら病院だった、という展開なら、まだ良かったのかもしれない。

俺の意識は、そのまま途切れた。

次に「俺」という感覚が戻ってきたとき、視界はひどくぼやけていた。体はまともに動かない。声を出そうとしても、口から出るのは意味のない泣き声だけだ。それでも頭の中には、妙にはっきりと記憶が残っていた。自分がスーパーのエリアマネージャーだったという記憶。そして、乾いた笑いのような感情。

――ああ、これは詰んだな。

赤ん坊としてやり直す羽目になったのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。理解したところで、赤ん坊の体では何もできない。俺はただ、流れてくる情報を頭の中で整理することに専念した。

自分はルーク・ヴァイグレンという名で、グランヴェイル王国の辺境に領地を持つ子爵家の次男らしい。父はゲイリウス・ヴァイグレン。体面と家格を何より重んじる、典型的な貴族気質の人物だった。兄はクレイン。俺より三つ年上で、生まれた時から魔力に恵まれていると周囲から持て囃されていた。母はルークが幼い頃に病で亡くなっており、屋敷の空気はどこか張り詰めていた。

この世界では、貴族の価値は魔力量で決まる。魔力が多ければ将軍にも大臣にもなれる。少なければ、家督どころか結婚相手すら見つからない。十三歳で行われる「魔力測定の儀」は、貴族の子にとって人生最初の、そして最大の関門だった。

赤ん坊のうちは、正直どうでもよかった。俺にはやることがあった。歩けるようになった三歳の頃には、屋敷の会計簿を盗み見て領地の財政状況を把握していた。五歳の頃には、収穫量の記録と天候の記録を照らし合わせ、この土地の農業がどれくらい非効率かを頭の中で計算していた。

不思議なことが一つだけあった。俺がよく寝転んで庭を眺めていた中庭の一角だけ、他の場所よりもいつも妙に青々と草が茂っていたのだ。庭師の老人が、その一角を気味悪がって呟いていたのを、幼い頃にちらりと聞いた覚えがある。

「ここだけ、いつも土の匂いが違う」

当時の俺は、そんなことに構っている余裕はなかった。ただの気のせいだろうと、頭の隅に追いやったまま、忘れていた。

「ルーク、また帳面を触っているのか。貴族の子が数字遊びなど、みっともないぞ」

八歳の頃、父上にそう咎められたことをよく覚えている。兄クレインは魔力の鍛錬に付き合わされる一方、俺はそもそも鍛錬の対象として数えられていなかった。だから帳面をいじっていても、誰も本気で止めようとはしなかった。放っておかれたことが、結果的に俺には都合が良かった。

前世の癖というのは、体が変わってもそう簡単には抜けないらしい。目の前に「立て直せそうな案件」があると、勝手に頭が分析を始めてしまうのだ。

もっとも、この体でできることには限界があった。頭の中で分析が組み立てられても、実行する権限も体力も、幼い体には備わっていない。俺はただ、いつか使える時が来るまで、気づいたことを頭の中の帳面に書き留め続けた。屋敷の使用人たちの配置。収穫期の人手の偏り。税の取り方。どれも前世の店舗運営に通じるものばかりだった。人が足りない場所に人を送り、無駄が出ている場所を減らす。基本はどこの世界でも変わらない。

ヴァイグレン子爵領そのものは、決して貧しい土地ではない。本領は肥沃な平野にあり、税収も安定している。問題は、その北の外れに飛び地のようにある小さな領地――「灰の谷」だった。数十年前の魔力災害の後遺症で土地が痩せ、洪水と旱魃が交互に起きる異常な気候が続いている。今ではほとんど誰も治めたがらない、いわば社内でいうところの「万年赤字店舗」だ。

父上はその灰の谷を、体面上放棄はしないが実質的には見捨てている。担当の代官も、名前だけの管理職がころころ入れ替わっているだけだった。屋敷の会話の中で灰の谷の名前が出るのは、誰かへの罰か、厄介事の押し付け先として語られる時だけだ。

――前世で見た光景と、驚くほど似ている。

俺はそう思ったが、その時はまだ、自分がその「灰の谷」に送られることになるとは、微塵も予想していなかった。

十歳の頃、一度だけ父上に領地の税収について意見したことがあった。ヴァイグレン本領の税の取り方は、収穫直後に一括で取る旧式のやり方のままだった。そのせいで農民が種籾用の麦まで手放してしまい、翌年の収穫量を落としている。前世の発注理論を、幼い頭で無理やり噛み砕いて説明したつもりだった。

「税の取り方を分割にすれば、農民の手元に種籾が残ります。そうすれば、来年の収穫量はもっと安定するはずです」

父上は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑って取り合わなかった。

「ルーク、税制は代々のやり方がある。子供が口を出すことではない」

その年の収穫は、案の定振るわなかった。誰もその失敗と、俺の指摘を結びつけようとはしなかった。前世でも、現場から上がってくる小さな違和感が、上に届く前に消えてしまうことは珍しくなかった。俺はそれ以来、屋敷の中で意見を言うのをやめた。ただ帳面を眺めて、自分なりの答えを蓄えることに専念するようになった。

兄クレインの魔力測定の儀の日、俺はまだ九歳だった。会場の隅から見上げた大広間は、今日と同じように華やかで、そして今日よりもずっと温かい空気に満ちていた。杖の先が光った瞬間、招待客の誰もが立ち上がって歓声を上げた。父上は、生まれて初めて見せるような満面の笑みを浮かべていた。母が存命であったなら、あの光景をどんな顔で見ていただろうか。時々そう考える。母が亡くなったのは、その儀式の翌年のことだった。

以来、屋敷の中心はクレインを軸に回るようになった。俺はそれを恨んだことはない。ただ、自分がこの家の中でどういう役割を割り当てられているかを、早い段階で正確に理解していた。期待されない場所にいるからこそ、誰にも咎められずに好きなことができる。前世で言うなら、本社の目が届かない店舗ほど、現場の裁量で動きやすいのと同じ理屈だった。

十三歳になり、俺は初めて魔力測定の儀に立ち会う年齢になった。まずは兄クレインの儀が行われた。王都から呼ばれた測定官が水晶の杖を掲げ、クレインの魔力を計測する。杖の先が眩いばかりの光を放ち、屋敷中に歓声が上がった。

「さすがはヴァイグレンの嫡子だ」

「これならいずれ、王都の魔導騎士団にも推薦できるでしょう」

父上は満足げに頷き、兄は得意げに周囲を見渡していた。俺は末席で、その様子をただ眺めていた。前世の店舗評価会議で、成績の良い店長が持て囃される光景を、何度も見た覚えがある。あの時と同じ空気だ。誰も悪意があるわけではない。ただ、数字――この世界では魔力量――が良ければ持ち上げられ、悪ければ視界の外に置かれる。それだけのことだ。

そして四年後、俺自身の魔力測定の儀の日がやってきた。

屋敷の大広間には、親族一同と近隣の貴族、それから王立魔導研究院から派遣された老学者が立っていた。名はサイラス・オルグレン。手には水晶の杖を掲げている。招待客の数は兄の儀の時よりも少なかったが、それでも二十人近くが見守っていた。

「では、ルーク様。前へ」

俺は促されるまま、杖の前に立った。

大広間はざわめいていた。誰も俺のことなど期待していない。兄が優秀だった分、次男である俺への注目度は端から低かった。それでも、貴族の子として最低限の魔力量は示さねばならない。父上の視線には、そういう最低限の期待が浮かんでいた。

会場の隅では、兄クレインが余裕のある笑みを浮かべてこちらを見ていた。四年前、自分が主役だった同じ舞台に、今度は弟が立っている。その視線には、優越感と、僅かな憐憫が滲んでいた。親族の中には、俺の魔力量を予想して小声で賭けをしている者までいた。

「せめて中の下はあるだろう」

そんな声が、俺の耳にまで届いていた。誰も、ゼロという結果までは想定していなかったのだ。

儀式が始まる直前、父上が一度だけ俺の肩に手を置いた。

「――結果がどうであれ、お前は私の息子だ」

その言葉に、どれだけの本心が込められていたのかは分からない。ただ、体面を重んじる父上が、人前でそれを口にしたことだけは確かだった。俺は小さく頷き、前を向いた。前世の最終出社日の朝、上司から言われた「今までよくやってくれた」という言葉と、どこか重なる響きがあった。結果を出せなかった時、人はどんな言葉をかけられても、結局は自分の中の数字と向き合うしかない。

杖の先に手をかざす。俺自身、正直なところ、自分の中に何かが流れているという感覚はほとんどなかった。前世の記憶が戻ってからずっと、自分は「魔力を持たない側の人間」なのではないかと薄々感じていたからだ。

杖の先に手をかざした瞬間、心の中で、また数字が数え始まる。

あと十秒。

サイラス老は、静かに詠唱を始めた。杖の先に、淡い光が集まっていく。

――そう、これが、あの十秒の続きだ。

光が、ふっと消える。大広間が、しんと静まり返る。

「な……魔力、ゼロ、だと……」

父上の声が、震えていた。招待客のざわめきが、一斉に、嘲笑と困惑の混じった空気に変わっていく。兄クレインは、驚きと、そして隠しきれない優越感の入り混じった表情で、俺を見ていた。

「――やはり、な」

誰かがそう呟くのが聞こえた。賭けをしていた親族の誰かが、静かに肩を落とす音も聞こえた。

俺は、俯くこともなく、ただ、静かにその場に立っていた。前世、赤字店舗の月次会議で、数字が全く上がらなかった月に、こういう空気を、何度も経験したことがある。頭を下げるべき場面で、頭を下げないことの方が、時には難しい。

父上は、しばらく何も言えないまま、俺を見つめていた。その顔には、失望と、体面を保たなければという焦りが、同時に浮かんでいた。

サイラス老だけが、違った。彼は、杖を下ろした後も、しばらく俺の方を、じっと見つめ続けていた。その視線には、失望とも、落胆とも違う、何か別の色が混じっているように、俺には見えた。

――だが、その意味を、俺はまだ知らない。

魔力ゼロ。それが、この日、大広間中に響き渡った、俺への評価だった。

だが、次に語るのは、その評価が、どれほど的外れなものだったかという話だ。俺の魔力は、消えていたわけではなかった。ただ、この身体に留まることを拒み、静かに、そして確かに、別の場所へ流れ続けていたのだ。

その場所が、いずれ、俺自身の運命を、そして、誰も見捨てていた辺境の土地の運命を、大きく変えることになる。

中庭の一角だけ、いつも青々としていた草のことを、俺はまだ、思い出していなかった。


初めまして、あるいはいつもお世話になっております。

本作は、過労死したスーパーのエリアマネージャーが、貴族の次男に転生し、魔力測定の儀で「魔力ゼロ」の判定を受けて辺境送りにされる話です。ただし、無能ではありません。実は極めて稀な体質の持ち主で――その真実は、しばらく誰にも明かされません。

本日中に第10話まで一挙公開し、その後は毎日更新していく予定です。もし気に入っていただけましたら、ブックマークなどで続きも見守っていただけますと幸いです。

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