プロローグ:おとめの青春
春の陽が、ガラス越しにやわらかく道場へと差し込んでいた。
S県の郊外、緩やかな川の流れに寄り添うように佇む、私立此花咲高校。
その薙刀道場には、近隣の強豪校を招いた合同練習試合の熱気が、今まさに満ちている。
パシィーーッ!
「一本!」
「ワーーーーー!」
試合が終わり、選手が一礼して下がる。
一年生が次の試合のために無垢の床板を清める。
そんな試合場を見つめる観客の中、観覧席の最上段――。
しとやかに背筋を伸ばし、凛と座るひとりの少女。
艶のある黒髪、伏せられた睫毛。
その佇まいは、まるで明治の肖像画から抜け出してきたかのようだった。
「……今日も調子が良さそうね、神功さん。あの構え、昨日よりずっと洗練されている」
《あの子の動きには、いつも感嘆させられる……。だけど、今日はそれ以上に――》
生徒会副会長、淡浪千聡。
名門の家に生まれ、知性と気品を兼ね備えた彼女は、多くの生徒の憧れであり、誰もが一目置く存在だった。
そんな千聡が見つめる先、長刀を握る少女――。
「面ーーん!」
パシィ!
――神功おとめは、相手との鍔迫り合いの末、見事な一本を決めた。
刹那、空気が止まる。そして、次の瞬間。
「ワーーーーー!」
水面に石を投げ入れたように、道場全体が歓声に包まれる。
「すごい……!」
「神功さん、また勝ったの!?」
「あの身のこなし、まさに神業よね!」
「えへへ、ありがと。
でも、ほんとギリギリだったよ~。
最後、踏み込みで足が滑りそうになって……」
「うそ!?全然そんなふうに見えなかったよ!」
「落ち着いてたー!」
「もう、内心はドキドキだよー。
顔に出てなかったならよかった!」
その声に、笑顔が広がる。
けれど、ひとりだけ、表情を曇らせた少女がいた。
──襲山つばき、である。
「ふん。まぐれでしょ」
「そうだね、運が良かったのかも。
でも、つばきちゃんもさっきの試合も、ホント惜しかったよ。
あの二本目の突き、決まると思ったんだけどなー」
その無邪気すぎる言葉が、まるで鋭い矢のように、つばきの胸の奥を貫いた。
《くーーっ!なにその無邪気さ……!
こっちはどれだけ準備してきたと思ってるのよ……!》
「あっ、つばきちゃん、構えちょっと変えてた?
すっごく鋭かったよ! なんか、前より迫力あった!」
「……ッ、べ、別にそんなことないし」
《私の構えの変化に気付いてたの?
しかもあんな笑顔で褒めてくるとか……ぜったい次は、絶対勝つから……!》
おとめは気づかない。
その笑顔が、どれほど人の心をかき乱しているかを――。
観覧席でそっと頬を染める生徒会副会長も、負けを噛みしめる後輩も、それぞれの胸に、誰にも見えぬ芽が静かに息を吹き始めていた。
「ふふ……それでは、ごきげんよう」
試合が終わり、千聡は席を立つ。
頭脳明晰で文武両道、その立ち居振る舞いは常に優雅で、誰にも弱さを見せたことがない。
そんな千聡が、たった一人だけ心を乱される存在――それが、神功おとめだった。
――それは、ちょうど一年前の晩春のことだった。
生徒会の仕事で帰りが遅くなった千聡は、迎えの車を先に返し、書店に寄ろうとしていた。
その道すがら、薄暗い側道で数人の男に囲まれる。
「あ、あなたたちは一体!?」
そんな時、颯爽と現れて助けてくれたのが、おとめだった。
「先輩、お待たせ!
──さあ、私が相手よ!」
まるで舞台から飛び出してきた騎士のように。
目の前で長刀を構えたその姿に、千聡は胸の奥を強く掴まれた。
その瞬間、自分の世界に一条の光が差し込んだ――そんな感覚だった。
――この時以来、千聡はおとめから目が離せなくなり、試合があると足しげく見学に訪れるのだった。
一人生徒会室に戻り、扉を閉めた千聡。
その表情は、まるで好物のケーキを目の前にしたように緩み切っていた。
《ああもう……おとめちゃん、今日も最高だった……。
前髪が汗でちょっと張りついてるのも、かわいいし……
あの気迫の踏み込み、目がもう、真剣すぎて尊い……》
そう。
表の顔では、穏やかな先輩。
でも心の奥では、誰よりも熱く、誰よりも激しく――
――千聡は、おとめに恋をしていた。
これまで短編ばかり書いてきておりまして、これが初めての長編(になる予定の)小説です。
ささいなことでも感想をお書きくださると嬉しいです。