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蟹座の鋏

【悪意に満ちた『雲梯』150M】


 地の底が見えぬ穴を渡す、隙間の空いた雲梯。

その上を建成は、エリーを背負いながらも、その重みを感じさせない羽のような軽やかさで走り渡った。


 ベーゼンドルファーも後に続くが、盗賊の脚を持つベーゼンドルファーが追いつけない速さであった。

建成の走り、それはもがきあがき続ける人間のそれであり、同時に人間から一才の無駄を省いた機械的なそれでもあった。


 ベーゼンドルファーが雲梯の中間にたどり着く頃には、建成は雲梯を渡きり、隣の部屋へと移動していた。


【時速4キロダッシュ200mの部屋】


 かつて、その俊敏さと軽快さをもって、追うもの全てに逃げる背中をも見せなかった男、ユーレイことベーゼンドルファー。

その人が今、全く同じ感覚をその身に感じていた。

ベーゼンドルファーが部屋に辿り着いた頃には、建成はすでに次の部屋に通ずる扉を押し開けていたのだ。


 『ポーン』と、部屋中に機械音が響き、ベーゼンドルファーの背後から赤い光の壁が迫ってくる。

しかし、ベーゼンドルファーにはそんなものは見えなかった。追われる恐怖より、目の前の男に追いつくので精一杯だったのだ。



【ロープのぼり20mの部屋】


 ベーゼンドルファーが建成に追いついたのはこの部屋だった。


「ぬあああああああああ!!!」


 それは、例えるなら人間というより、息の途絶える前の追い詰められた獣!

例えるなら墜落の運命に抗う羽根の溶けたイカロス!

例えば、後数秒で枯れ朽ちる雑草の最後の伊吹!


 建成は、背中に女性一人を背負った上に、

利き腕ではない左腕のみで自分達の全体重を引き上げて、両の太腿で落ちぬようにロープを挟み、

ロープの10m地点まで上がっていた。



「無茶だ!! 降りてこい建成!! 」



「なあんの これしきい!!!!!」


 左手と顔面は真っ赤に腫れ、上空からは建成の汗が降り注ぐ。


「お前がそこまでする意味はなんだ!! 一度仕切り直せと言ってるんだ!!」


「ぬああああ!!!」


 もはや自分の雄叫びで、ベーゼンドルファーの声は届いていなかった。

確かに、一度全てをリセットすれば、腕も元通りになるかもしれない。


 しかし1度やるときめた情熱を自ら冷ますという行為を建成は許せなかった。

ベーゼンドルファーの目に映るのは、愚かしいほどに使命感に取り憑かれた哀れな人間、否、勇者の姿だった。


 哀しき獣は20mのロープを左腕のみで登り切り、1度だけ大きな咆哮を上げたのちに走って次の部屋の扉を押し通った。





【ダメ押しの500m着衣泳】


 すでに両腕は動かせない。足も両方とも痙攣を起こしていた。

ロープの最後の方は歯でロープに喰らいついたので口も切れていた。


 目の前には、部屋の中で波を立てる、意味不明の『海』


「うおおおお!!!」


 建成はたった一度の雄叫びをあげ、波に立ち向かった。

どうやって泳いでいるのか、もはや自分でもわからぬ。

ただ前へ、ただひたすら前へ。


 水中で何度も気絶しそうになる自らに、『使命感』という杭を打ち、それが建成という只の人間の限界以上を引き出す。

ベーゼンドルファーがようやくこの部屋に帰ってきた時には、波に建成の血が漂っていた。


 ユーレイは少年時代に捨てた涙を流す。馬鹿に泣かされるのは、産まれて初めてのことだった。 


【番犬モアーの間】


 息も絶え絶え、ベーゼンドルファーがこの部屋に辿り着いた時、

緑色の巨大な怪物と、一人の人間が睨み合っていた。

その人間は、全身がずぶ濡れで、口と右腕から血を流し、両足が震え、エリーを背負っていた。

両手は使えぬ。足も動かせぬ、おおよそ武器と呼べそうなものは、その意志の宿った『目』のみだろう。


 その人間は、ベーゼンドルファーが部屋に入ってきたのを認めると、エリーを地面に下ろした。


「今度はその娘の手を離すなよユーレイ!! うおおお!!!」


 男は怪物に突進した。


 巨大な緑色の拳が男の顔面を捉える。

それを男は自らの顔面で受ける。


 「ぶは!!」


 男の体は宙でのけぞり、背後の壁に叩きつけられる。

顔は真っ青に腫れ上がる。

しかしそれでも男は再び怪物の前まで向かっていった。

なぜか!! 殴られに行くためなのか! 何が男をここまで駆り立てるのだ!!


 2度目の拳を顔面にうけた男は、再び宙を舞う。巨大な怪物の前では、男の体など枯れ葉に等いと言えた。

それでも、男は立ち上がる。


「もうやめろ建成!! もうやめろお!!」


 ベーゼンドルファーの声はすでに男には届かない。

ああ、なろう神も照覧あれ!! ヘラクレスにたった一人挑み踏み潰された1匹の蟹の如き根性を! 今こそ発揮してみせる!!

建成は叫んだ。


「そんなものかあ!!!」


 男は立ち上がり3度目の拳を顔面に受ける。

そして立ち上がる。


「それで…… 精一杯かあ!! 」


 4度目の拳を受ける。血飛沫をあげ、男の体は虚しく宙に翻る。


「もうやめろ建成!! 死ぬぞ!!」


 ベーゼンドルファーの声は、初めて建成に届いた。


「……死ぬって? ……何度も経験したことだ!! ここでなあ!!」


 五発目の拳が牽制の顔面に伸びてきた。しかし、拳の一部に明らかに陥没している箇所を見つけた。

建成はこれを待っていた!!

 

 今まで顔面で拳を受けていたわけではない。

人間の拳の中でも脆い箇所、指の付け根と第二関節の間の骨を、建成は一番硬い額で受けていたのだ!


「うおおおおあ!!!」


 痛んだ巨人の拳に建成は頭突きを食らわせた。


「ゴアアアア!!」


 痛みに辛抱たまらず怪物は叫び声を上げた。

その隙を逃さずに建成は怪物の首元に噛み付く。

ついに、ついに哀れ蟹座の鋏が、ヘラクレスの足を突き破ったのだ!!


「ガアアアア!!!」


 巨人から光が溢れ。やがてその巨体は光の粒となった。

建成は、その場に膝をついた。しかし、顔だけは前を向いていた。


 部屋に声が響く。


「試練を終了させた。勇者建成よ。其方は何を望む?」


 この質問に対し、建成は胸を這って、


「騎士としての誓いを立てる」


 と言った。



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