原田 兵庫(harada_hyougo)<1、2部>
・「磐木か……ちくしょー、後で殴ってやる。俺のかわいい瑛己を、よくもこんな鬼のような冷血漢の、ポンポコリンにしたな!」
・歳は今年で45歳だが、童顔と柔らかな顔立ちから、いっていてもせいぜい30後半にしか見えない。ボサボサと揺れる猫っ毛は薄く刈り上げられ、鼻の上に丸い小さな眼鏡をチョンと引っ掛けていた。
・穏やかな優しい目。だが、この目が時折少年のようにキラキラと輝く事を瑛己は知っている。
・瑛己にとって兵庫は、兄のような存在だった。
・そして何だかんだ言っても、瑛己は兵庫をとても慕っていた。大好きだったのである。
・艇影(複葉機)を見て彼はすぐに、それが兵庫の飛空艇だとわかった。
・「よっ、瑛己―! ハッハッハ、相変わらずクソ真面目な顔してんなぁ」
・「あの磐木がタイチョーねぇ? 知ってるも何も、あいつの初フライトは、俺が補佐しましたよー?」
・兵庫は元・空軍のパイロットだった。
・12年前、ある事件をきっかけに空軍を退役。今では〝自称・郵便屋さん〟となったが、今でも空軍に顔は広い。
・「そりゃもう、ひでぇ飛行でさぁ? 2人乗りの『葛雲』で出たんだけど……俺、途中で酔っちまって。下ろせーって言ったら、自分は着陸が苦手なので上手くできるかわかりません、とか言い出すわけ。俺はあの時ほど、今死んだら、くっだらねーよなぁと思った事はなかったね」
・兵庫ははにかみながら笑うと、「あー、そういえば」「俺らの前飛んでたのは、ハルだったような気がする」
・兵庫は胸元から葉巻を取り出すと、グルグルに巻かれた左腕で器用に火を灯した。「なんつーか」「正直、俺もびっくりしたよ……お前がここに異動だっつって聞いた時は」
・「変わってねーなぁ、この医務室も。ほんと、俺なんかしょっちゅう出入りしてたって。無茶ばっかしてたもんなぁ」
・兵庫おじさんはここで、何を見て、何を感じてきたんだろうかと、瑛己は思った。そして12年前、その空で。一体何を見たのか……。
・父が消えたその日、その時。兵庫はそこにいたのだと言う。
・その後すぐ、空軍を退いた。そして今、その空を。何を思って飛んでいるのか……。
・(『海雲亭は』)「常連。ハルと2人、毎日のように行ったからなぁ……今時、あいつの事を知ってるなんて言う女ときたら、海月くらいしかいないって」
・兵庫は元・空軍パイロットだ。それも、腕は悪くない。
・絶句する瑛己を見て、兵庫は何を思ったのかニヤリと笑った。彼はとにかく、この表情の少ない青年が顔色を変えるのを見るのが好きなのである。
・医務室の窓からは、滑走路がよく見える。こっから。果たして俺も、色んな物を見てきちまったもんだな……兵庫はかすかに苦笑した。―――望む望まぬは、問われる事もなく。
・「あまり時間がないんでな。単刀直入に訊く。―――〝あれ〟は、『蒼光』に着いたのか?」「……」答えない白河に兵庫は軽く溜め息をつくと、「別の言い方をしてほしいか」
・「〝空の欠片〟は今、橋爪が持っているのか?」
・「……原田、なぜ、お前がそれを知っている」
・「さぁね。答えろ、白河。お前、自分が何やったのか、わかってんのかよ?」
・「瑛己達には言ったのか? 自分らが、一体何を守って飛んだのかって」
・「白河……! お前、ハルの息子に、何させたんだよ……!」よりによって、ハルの息子に。
・「自分の親父殺した、何運ばせたよ……ッッ!!」
・「無理だ」淡々とした、表情のない声だった。「奴らはもう、帰ってこない」
・「……そんな単純なもんじゃ、ねーよ」
・「それに、万が一奴らが……ハルが、あの穴の向こうで生きてたとしても。あいつが、もがかなかったわけがない」それでもあいつは帰ってこなかった。
・「お前は……、橋爪 誠(hasizume_makoto)・軍部最高統括総司令長官殿がやろうとしている事は、あの空に再び、地獄への入口を開けようとしている、そういう事だぞ?」
・その目は、〝見てしまった者〟の目だった。
・「助けたい……? バカな……吐くのか、今その言葉を……。そんな気持ちを抱くなら、なぜあの日お前はあの場所に」―――こなかったんだ?
・「二度と〝空の果て〟なんか」「瑛己に、ハルと同じ運命なんか……絶対たどらせはしない」―――俺の命に代えても。
・原田副長……その言葉に、兵庫は苦笑した。彼がそう呼ばれたのはもう何年も前、空軍にいた頃の事だ。
・磐木が初めて空軍に入ったのは、14年前、兵庫が副隊長を務めていたその隊だった。その時の印象が強く、いまだ、磐木は兵庫の事を『原田副長』と呼ぶ。
・その兵庫は、医務室にあるもう一台のベットに下宿生活をしていた。「瑛己が心配だから」と行く先について周り、彼をからかっては面白がっていた。だが海月の話をすると「殺される。近寄らないようにしよう」と、そこにだけはついてこようとしなかった。
・昔からそうだ……兵庫は決まって、行き先を言わない。どこかへ連れて行ってくれる時も……自分がどこかへ行ってしまう時も。
そして、瑛己は思った。
兵庫おじさんがこんなふうに自分を誘う時。それはまた、自分の前からいなくなってしまう時なんだ……。
〝自称・郵便屋さん〟。だが彼が本当はどんな仕事をしているのか、瑛己はよく知らない。
・『咲ちゃん……』
『どうしたの、一体……その怪我……!?』
『咲ちゃん……ごめん……』
『兵庫くん……?』
『ごめん……俺、俺……』
守れなかった。
『ハルを……ハルがッ………ッ、ハルがッ…………!』
・「けど俺は覚えている……現実に、それはそこに存在した。そしてお前には、少し、知っておいて欲しくてな」
酷かもしれない。これは自分の、ただのエゴでしかないのかもしれない。
(この肩に背負わせるには、)
だが……兵庫はポツリと思った。
知らなければならない。瑛己はすべてを、知らなければならない。
それは、空で生きる事を選んだ以上。父と同じ道を選んだゆえに、父と同じ運命を辿らぬためにも―――。
「……わかってる、……」
瑛己はたった一言、そう言った。そして兵庫を振り向いた。
その目に、兵庫は小さく苦笑を浮べた。
兵庫は心の中で嘆息を吐き、そして呟いた。
すまない、と。
・「私に一度も顔を見せず、そのまま行くつもり」
「……」
「あんたのやる事と言ったら、わかってるんだから」
「……」
すまない。兵庫は目をそらした。
「いい……けどあんたも、私が何を言いたいか、わかってるでしょう?」
「……またくる。その時は、そっちにも寄るから」
「待ってる」
その言葉に、兵庫は苦笑した。
「……じゃぁ、行かないわけにいかないな」
<第2部>
・『……』
『俺はお前の代わりに2人に会うたびに、いつも思うよ。何で俺は、聖 晴高じゃないんだろうって』
『……』
『どんなにあがいても、俺は、お前にはなれない』
・短く刈り上げられた猫毛に、丸い小さな眼鏡をチョンと鼻の上に引っ掛けた男、
・「警備は全員クビだな」男は皮肉げに笑った。「夜盗に、こんな奥まで許すとは」
「相手が悪かったな」
兵庫は懐から煙草を取り出すと、無造作に口の端にくわえた。
・「〝空の欠片〟を、どうした」
じっと。その表情の変化を一つも見逃さないとするかのように、兵庫は橋爪を見つめた。だが、橋爪は眉一つ動かさなかった。
「それを知ってどうする」
・「否定しないのか。『永瀬』から運ばせた、あれを」
・「憎んでいるのは、お前だろう?」
「―――」
「まぁ、お前が憎み続けているのが、俺なのか、聖なのか―――自分自身なのか」
「……ッ」
・憶があるのは、いつだったか、兵庫と一緒に上がった空。
やはり咲子にはこっそり、古びた複葉機の後ろに乗せてもらった。
『お前のとーちゃんは、空が好きでたまらないんだよ』
その時はただ、凄いと思った。
『んで、お前のかーちゃんは、そんなとーちゃんが好きでたまらないんだよ。ハルも、咲ちゃんが好きでたまんねーのにな。んで、お前が愛しくて仕方がないっつーのに』
空がきれいとか、景色とか、風とか。そんなものを感じる余裕もないくらい。
『お前のとーちゃんは、しこたま、不器用なんだよ。何で人ってのは、好きになればなるほど、不安になるんだろう? 言葉なんかなくたって、全部伝わってるし、わかってんのにな』
必死に歯を食い縛って、振り落とされないように、置いていかれないように、前を見据えていた。
『だけど瑛己、お前は……どんな時も、とーちゃんの事を、信じてやってくれ。じゃなきゃあいつは、帰る場所をなくしちまう。おじちゃんとの約束だ。な?』
・あの時生きて戻れたのは、磐木と兵庫。
そして兵庫は、空軍を去った。
・「せやから、まだ松葉杖使わなかんてセンセが」
あんなかったるいもん、使ってられない。そう思いながら兵庫はヒラヒラと手を振り、食堂の二階にある宿の部屋へと上がっていった。
・よく、生きてられたもんだと。
―――この宿にたどり着いたのは、数日前。
命からがらワケもわからず走ってきて、最終的にぶっ倒れたのが、この宿の裏にあるゴミ捨て場だった。
・(上島 昌兵……)
その男を、兵庫はよく知っている。
彼がまだ空軍にいた頃、同じ基地にいた。白河が隊長をしていた当時304飛空隊の、副隊長をしていた男。
兵庫は上島に対して、特に関心はなかった。
白河と上島がもめている姿はよく見た。心底困ったように返す白河に、挑むように畳み掛ける上島の姿……「白河も大変だな」と晴高は苦笑していた。
上島の挑戦的な目は、白河だけに向けられていたものではなかった。自分と……晴高に対しても、かなり執拗に向けられている事に、兵庫は気付いていた。
だが、兵庫には興味がなかった。
上島がどうして白河に食って掛かるのか、そして自分達に敵対心を抱いているのか、兵庫にはそれが……何となくわかっていたから。
身分、そういう事なのだと思う。
白河と上島は、兵庫に言わせれば〝いいトコのお坊ちゃん〟だった。それなりに地位も名誉もある家に生まれ育ってきた。上島はどこぞの大臣の補佐をやった奴の息子だし、白河も、国鉄の役員関係者の家だったはずだ。
対し、晴高も兵庫も身分もクソもない〝一般人〟だ。そこらの雑草と同じように育ってきた。社交界も赤じゅうたんも知らない代わり、草っぱらで泥まみれになって走ってきた。
上島にしてみれば、そんな〝下賎な輩〟と一緒の扱いを受ける事に、果てしなく抵抗があったのだろう。
奴の口癖は今でも覚えている。「俺は上に行く者だ」
「……」
兵庫は苦々しく笑った。そして、その瞳に怒りをにじませた。
(お前もあいつと一緒なのかよ……白河?)
白河……その名を思い出すたびに、兵庫の心は怒りに燃え、そして哀しみに揺れる。
・ここにいるはずのない、夢でしか……会えない女性(海月)。
・「悪運は、強い方で」
「……」
「あなたは、ひょっとして俺の事も」
「……噂だけはな」
「そうですか……。俺も、あなたの噂だけは」
・「橋爪か……馬鹿な。行った所で時間の無駄だっつーのに」
何であいつはそれがわからないんだ? 兵庫は缶を潰すように握り締めた。
「しかし、白河総監は独断で動けるような人じゃない」
わかってるさ、そんな事は。昔から、あいつは何一つ変わらない。
……俺がどんだけ汚れても、あいつは、白いままだ。
・「あなたのやろうとしている事が、どれほど危険な事か、あんた……わかってるのか?」
「……何が?」
そう言いながらも、兵庫はおや? と思って苦笑した。
「お前さんが気にするような事じゃぁないよ。お前は空だけ飛んでりゃそれでいいんだよ」
「……」
「悪く取るなよ? ただ、お前が知る必要はない事だよ。背負う必要もな。磐木にも言っておけ。お前らはまだ、空の広さと美しさだけ知っていればいいんだ。飛ぶ事を楽しんでりゃそれでいいんだよ」
「……」
「こういうのはな、俺みたいなのに任せておけばいいんだよ。お前だって、せっかく日の当たる所に出れたんじゃねーか。わざわざ、闇に戻るような事するんじゃねーよ。お前が選んだのは、そっちなんだろ?」
・「白河に伝えてくれ。俺の事は気にするな。自分がしたいからそうしているだけだ。誰の……ためでも、所為でもない」
お前の所為ではない。
そして……晴高のためでもない。
ただ、自分だけの問題。
そして、決意。
―――それで例え、この命が尽きる事になっても。
どうしても、やらなければいけない事があった。
それはただ、自分自身の。
意志。
・「兵庫」
小さくて、少し、甘えたような声。
兵庫は目を合わせられなかった。
・「俺は……なんつーか、正直言っちまえば……お前に、合わせる顔がない」
・―――俺が、生き残っちまって。
ハルじゃなくて。
悪ぃ。
・「これが、俺が、お前の事避けてたワケだよ」
・ハルじゃなくてごめん。
お前が、ハルの事が好きだったってのは、ずっと知ってたから。
ハルの事見てたの知ってたから。ハルだけ見てたの知ってたから。
そんなお前を、俺は見てたから。
ずっと……。
・ねぇ……どうして?
兵庫は晴高に問い掛けた。
どうしてこんなに、苦しいんだろう?
人を好きになるって……、何でこんなに。
愛しい、愛しい……溢れて、苦しい。もう、苦しい。
「バカ」
その言葉ごと。
海月のすべてを、奪ってしまいたい。そんな衝動から。
ずっと、逃げてきたのに。
・不慣れな左手で葉巻を吹かす。右腕は、三角巾こそしていないものの、ポケットに突っ込んだままだった。
・それは、兵庫が『湊』にいた当時、高藤が『湊』の総監だった頃からの―――兵庫の、高藤に対する呼び方だった。
「親父さんは一体、何がしたいんスか?」
・「こいつの事を知らない者もいるかもしれない、紹介し遅れた。原田 兵庫。元・『湊』基地第301飛空隊所属。俺の元部下であり、白河君の朋友でもある」
・「兵庫、お前はいつまでそうして、モトから目を背けているつもりだ?」
「……」
モト……一瞬、誰の事かと思った。
だが瞬間、兵庫の顔色が変わった。
「お前がそうする事で、一体、誰が傷ついていると思う? どうして俺がこんな席まで作って、奴を裏切るような真似をして、何でこんな話をしていると思っている? 誰が好き好んで、思い出したくもないあんな日の事を、誰にも聞かせたくないあんな日の話を、しようとしていると思ってる? 眠っていた蓋をこじ開けようとしていると思う!?」
「……」
「白河君から目を背ける事で、あの日の怒りも憎しみも全部あいつに向けて、そうして納得しようとして、そしてこの12年間傷つき続けているのは―――お前自身だろうが兵庫ッッ!!」
・戸惑う白河に、兵庫は少し顔を赤らめた。そして、馬鹿野郎とその手を取った。
右腕を。
「モト」
「―――」
そして、その頭を小突いた。
全然痛くない。
「無理すんなよ」
それだけ言って、兵庫は部屋を出て行った。
「兵庫っ……」
白河は。その場に、泣き崩れた。
・「……さてさて……」
カツカツカツと、靴音だけが廊下に響いている。
兵庫は不慣れに葉巻を取り出すと、口の端にくわえた。
(〝空の欠片〟……)
人が犯した罪、そして業。
開けてはならなかった、パンドラの箱。
その行方を探り、そして。
その石をこの世から消し去る。
それは、この先どうあっても兵庫の胸に刻まれた、
―――絶対の印。
(そのためになら)
靴音が遠ざかる。
足跡は、残らない。
それでもいいと、兵庫は笑う。




