1話 天使
エルヴィンが祖父のベンジャミンに引き取られて、エマーソン伯爵家にやって来たのは、10歳の誕生日を迎えておよそ二十日後のことだった。
祖父はエマーソン伯爵家の森の番人をしており、家は伯爵邸の裏庭に建てられている。
今まで、父に連れられて何度か来たことがあるが、祖父に会うことが目的だったので、ゆっくり庭を歩くようなことはなかった。
しかし、これからはずっとここで暮らすのだから、森も庭も頭に叩き込んでおかなければならないと思ったエルヴィンは、一人で森を探検することにした。
エルヴィンは母親譲りの黒髪と、父親譲りの赤い瞳を持つごく平凡な顔立ちの少年であるが、同年代の少年に比べると若干背が高い。
それは、幼い頃からのちょっとした自慢でもあった。
商人だった父の跡を継ぐつもりだったので、筋力を鍛えているわけではなく、どちらかと言うと、ひょろっとした細長い体型をしている。
森の木々や草をかき分けながらあちこち探検していると、自然の持つ力強さを否応なしに感じる。
これからは祖父みたいに身体を鍛えないといけないなと、思いながら歩いていた。
エルヴィンが森から戻り、次に裏庭の探検をしていると、目の前に天使が現れた。
その天使はふんわりとした水色のドレスを身にまとい、軽くウエーブのかかった腰まで伸びた長い髪の色は淡い水色で、肌は透き通っているみたいに白い。
何の飾りもない木製のベンチに座って本を読んでいる姿に、初夏の木漏れ日が降り注ぎ、水色の髪が光に照らされてキラキラと輝いている。
エルヴィンは、水色の髪色の少女を見たのは初めてだった。
「て、天使?」
思わず口に出てしまった。
その言葉が届いたのか、天使は顔を上げてエルヴィンを見た。
驚いて見開かれた瞳はアメジストの宝石のように輝く紫色で、唇はサクランボのように可愛らしい。
「やっぱり、本当の天使?」
エルヴィンはしばらくぼーっと見惚れていたが、天使ではなく、美しい人間の少女であることに気がついた。
年齢は、おそらく自分より年下だろうか?
「あ、あの、君は、天使じゃなくて人間? 名前は何て言うの?」
少女は少し首を傾げて何かを考えていたようであったが、姿勢を正してうっすらと微笑を浮かべた。
「人に名前を尋ねるのなら、まず、あなたから名乗るべきですわ。」
微笑んでいるのだから、決して怒っているわけではない。
だけど、その口調は静かにエルヴィンの失態を指摘していた。
「あ、ご、ごめんなさい。俺はエルヴィン、森の番人ベンジャミンの孫です。年は10歳、昨日から、じいちゃんと一緒に暮らしています。」
思わず自分よりも年下の少女に敬語を使って答えた。
「まあ、あなたがベンジャミンさんのお孫さんね。使用人から聞きましたわ。お父様がお亡くなりになったから、ベンジャミンさんに引き取られたって。わたくしの名前はセレスティア・エマーソン、エマーソン伯爵の長女です。」
セレスティアは座っていたベンチから腰を上げ、エルヴィンの正面に立った。
そしてドレスの脇を摘まみ、美しいカーテシーで頭を下げた。
「あなたのお父様がお亡くなりになったこと、心よりお悔やみ申し上げます」
その所作があまりにも美しく、エルヴィンは言葉を失い、ただただ呆然とセレスティアを見つめていた。
これが10歳のエルヴィンと、8歳のセレスティアの運命の出会いであった。
「あら、あなたの頬に血が滲んでいるわ」
顔を上げたセレスティアが、エルヴィンの頬の傷を見つけた。
「あ、これは、さっき木の枝にひっかけてしまって……」
「まあ、そのままにしていたら傷が酷くなってしまうわ。わたくし、良いお薬を持っていますのよ」
セレスティアはスカートの内ポケットから小さなケースを取り出した。
そしてその中身を指に取ると、エルヴィンの頬にスリスリと塗り始めた。
「あ、あの……」
「じっとしてて。動いたらだめよ」
「は、はい」
下から見上げてくる紫色の瞳が、エルヴィンの意識を捕らえて離さない。
エルヴィンの心臓はドキドキと激しく鼓動し、頬が熱くなる。
でもこれは、傷のせいではないことはわかっている。
セレスティアが薬を塗っている時間は十秒程度のことであったが、エルヴィンにはとても長く、だけど終わったとたん、すごく短い時間に感じられた。
星の数ほどある作品の中から、本作品を選んでくださりありがとうございます。
本作品はセレスティアとエルヴィンの恋愛物語ですが、成長と共に数々の試練が二人を待ち受けています。
運命に翻弄される二人の愛を、最後まで見届けていただけたら幸いです。
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