封印
「あれが、僕たちの家だよ」
スコルは、村外れにぽつんと建つ小さな家を見つめながら言った。
『家族は誰がおるのだ?』
頭の奥へ静かに響く声で、フェンリルが尋ねる。
「弟たちだけだよ。父さんは冒険者だったんだけど、遠くのダンジョン遠征に行ったきり戻ってこなくて……。そのあと、母さんも病気で亡くなったんだ」
スコルは少しだけ目を伏せ、それでも淡く笑った。
「この家は母さんの親戚から借りてるんだ。今は、双子の弟たちと三人で暮らしてる」
そう言うと、スコルはアーロンの剣を軒先の木箱の下へそっと隠し、静かに家へ入った。
扉を開けた瞬間、
「にいちゃん!」
幼い声が弾ける。
双子の弟たちが駆け寄ってきて、スコルは笑いながら二人の頭を撫でた。
そして棚の奥から大事そうに包みを取り出し、そっと開く。中から現れたパンを見た瞬間、弟たちの顔がぱっと花が咲いたように明るくなった。
その笑顔を見つめるスコルの表情は、森にいる時よりもずっと柔らかかった。
やがて夜も更け、弟たちを寝かしつけたあと――
『……なかなか可愛らしい弟たちではないか』
フェンリルの声が、どこか穏やかに響いた。
「うん。まだ食べ盛りだからね。いっぱい食べさせてあげたいんだ。だから、明日も稼がないと」
『それで森の案内人をしておったわけか』
「それもあるけど、僕の本業は山菜採りかな。小さい頃から森に入ってたから、森には詳しいんだ」
『小さい頃から……?』
フェンリルの声音に、わずかな疑問が混じる。
『お主、剣術も魔法も使えなかったはず。ならば、魔物に襲われた時はどうしていたのだ?』
「ああ、あの森はね、“女神に守られた森”って呼ばれてたんだ。何百年も、魔物も猛獣も現れないって言われてて……」
スコルは窓の向こう、夜の森へ視線を向けた。
「でも、数年前から少しずつ魔物が出始めたんだよ」
『……魔物が出ぬ、女神に守られた森、か』
フェンリルが低く唸る。
『妙な話だな……いや、待て』
次の瞬間、その声に確信が混じった。
『おそらく、それは女神の加護ではない』
「え?」
『魔物が近づかなかった理由は、ワシだ』
スコルは思わず目を見開く。
『封印されていたワシのマナが、長い年月をかけて森全体へ漏れ出していたのだろう。
つまり、あの森には“獣王フェンリルの匂い”が染み付いていたということだ』
フェンリルは続ける。
『魔物たちは、本能で理解していたのだ。森の奥に、自分たちでは到底敵わぬ存在が眠っていると』
「……フェンリルって聞いた時、もしかしてとは思ったけど……やっぱり関係してたの!?」
『うむ』
フェンリルは短く答える。
『そして近年、封印が弱まり始めたことで、外へ漏れていたワシのマナが、再びワシ自身の中へ循環するようになったのだろう』
そこで一拍置き、
『結果、森から“獣王の気配”が薄れた。ゆえに魔物どもが、少しずつ森へ姿を現すようになった……というわけだ』
「そうだったんだ……。森に魔物が現れるようになったのは困るけど、でも、今の僕にはマナがあるからね。明日からは山菜採りだけじゃなくて、魔物狩りにも挑戦してみようかな」
どこか期待を滲ませながら、スコルはそう呟いた。
『……そのことなのだが』
フェンリルの声が、わずかに低くなる。
そして少し間を置いてから、慎重に続けた。
『おそらく今頃、森中を探し回っていた魔族どもは、ワシを見つけられなかったことで、“禁呪法によってワシは完全に消滅した”と判断している頃だろう』
「それなら、もう大丈夫なんじゃ――」
『いや、魔族は用心深い』
フェンリルは静かに遮った。
『奴らは疑い深く、執念深い。たとえ消滅したと思っていても、しばらくは森を監視し続けるはずだ。
ゆえにスコル、お主は当分、森へ近づいてはならぬ』
「ええっ!?」
スコルは思わず声を上げた。
「森に行っちゃだめなの!? でも、弟たちを食べさせるためにも、稼がないと――」
『案ずるな』
フェンリルの声音には、不思議と安心感があった。
『今のお主は、もはや“何も持たぬ少年”ではない。稼ぎのことなら、この賢狼に任せておけ』
「……そっか」
スコルは少しだけ寂しそうに笑う。
「森に行けないのは残念だけど……仕方ないか」
『すまぬな、スコルよ』
「いいさ」
スコルは首を横に振った。
「そもそも、何の力もなかった僕が、あの森で安全に山菜採りできてたのは、フェンリルのおかげだったみたいだしね」
そう言って、小さく笑う。
「ありがとう。おかげで、弟たちと生き延びることができたよ」
その言葉に、フェンリルはしばし沈黙した。
だが次の瞬間、スコルはふと思い出したように尋ねる。
「ところでさ。僕より前に、フェンリルの加護を受けた人って、どんな人だったの?」
『武術家の女であった』
どこか懐かしむように、フェンリルが語り始める。
『最初は口ばかり達者でな。強気なことを言う割に、実力はからきしであった』
フェンリルの声に、呆れ半分、楽しさ半分の色が混じる。
『だが、気づけば“拳聖”と呼ばれるまでに成長しておった。最後には勇者一行へ加わわるほどの強者になりおったぞ』
「女の拳聖……?」
スコルは目を丸くする。
「それって、相当すごい人だったんじゃ……。勇者パーティーに入るなんて、普通じゃないよ」
『うむ。本当に強い女になった』
フェンリルは静かに笑った。
『最初の頃を知っているだけに、不思議なものだ』
「そうなんだ……。じゃあ、どうして森に封印されてたの?」
スコルが不思議そうに尋ねる。
『……それが、覚えておらぬのだ』
「えっ、本当に?」
スコルは思わず聞き返した。
『うむ』
フェンリルの声には、珍しく戸惑いが混じっていた。
『森で目覚めた時、周囲には濃密な魔族の気配が満ちていてな。ゆえに最初は、“魔族どもの仕業か”とも考えた』
だが、とフェンリルは低く続ける。
『……おそらく違う』
「違うの?」
『ああ。確証はないが、心当たりはある』
その瞬間、フェンリルの声音がわずかに険しくなった。
『おそらく――アヤツの仕業だ』
そして、ふと何かを思い出したように問いかける。
『ところで、話は変わるのだが……今はペテル歴の何年だ?どれほど眠っていたのか、見当もつかぬ』
「ペテル歴?」
スコルはきょとんと目を瞬かせた。
「今はギウス歴だよ。今年でギウス歴九百九十二年」
そこでスコルは、はっとした。
「え……もしかしてフェンリルって、“ペテル歴”の時代に封印されたの?」
『そうなるな……。ワシは人の暦にはあまり興味がなくてな、正確な年までは覚えておらぬ。
だが、たしか“ペテル歴千年祭”が終わった頃だったはずだ』
フェンリルの言葉に、スコルは目を見開いた。
「ペテル歴が終わったのって、一〇〇二年だよ……。そこから今のギウス歴に変わったんだ」
そこまで言いかけて、スコルははっと息を呑む。
「……待って。もしかして、その女の拳聖って――“千獣のウルミア”のこと?」
『なにっ!?』
フェンリルの声が、珍しく大きく揺れた。
『お主、ウルミアを知っておるのか!?』
「知ってるも何も、千年前の伝説の勇者パーティーの一人じゃないか!子供の頃、絵本を何度も読んだから覚えてるよ!」
スコルは興奮気味に言葉を続ける。
「“千獣のウルミア”、“聖剣のアークレイン”、“大賢者ニアリス”……。魔王軍と戦った英雄たちだって、今でも語り継がれてる」
『……そうか』
フェンリルは静かに呟いた。
『ワシは……千年もの間、この地で眠っていたのか……』
その声音には、長い時の重みが滲んでいた。
そして、しばし沈黙したあと――
『ところでスコルよ。やはり、あの戦は敗れたのか?』
「戦って……“魔王大征伐”のことだよね?」
スコルは少し考え込みながら答える。
「協会は今でも“人類側の勝利”って言ってるけど……父さんは、“あれは引き分けだった”って話してた」
そして不安そうに続けた。
「もしかして、本当は負けたの?その時に魔族に捕まって、封印されたとか……」
――魔王大征伐。
それはペテル歴一〇〇二年、ペテル歴最大規模とされる戦争だった。
勇者一行と連合帝国騎士団が、魔王城へ総攻撃を仕掛けた大進軍。
だが、魔王城へ踏み込んだ者たちの多くは、二度と帰還しなかったと言われている。
『……“魔王大征伐”か』
フェンリルはその名を低く反芻した。
『そのように呼ばれておるのだな』
そして、重々しく続ける。
『実はな。ワシの記憶は、あの戦の途中で途切れておるのだ』
「え……?」
『だが、一つだけ鮮明に覚えていることがある』
フェンリルの声が低く沈む。
『――“この戦は勝てぬ”……と強く感じたことを…』
その言葉には、獣王であるフェンリルですら抗えなかった“何か”への畏れが滲んでいた。
『そして、ワシを封印したのは魔族ではない』
「違うの……?」
『うむ。もし魔族の仕業であれば、封印など生ぬるい真似はせぬ』
フェンリルの黄金の瞳を思わせる声が、鋭く冷える。
『先程、奴らがワシを消滅させようとしたようにな。確実に命を奪っておるはずだ』
「じゃあ……誰が封印したの?」
スコルが息を呑みながら尋ねる。
フェンリルはしばし黙り込み、遠い記憶を探るように答えた。
『記憶が途切れる直前……ワシが最後に見たのは、一人のエルフの顔であった』
「エルフ……まさか――」
スコルの脳裏に、伝説の名がよぎる。
「“大賢者ニアリス”……?」
『うむ』
フェンリルの声が低く響く。
『ニアリスは、“万年に一人の天才”とまで謳われた大賢者だ。
魔法、術式、結界、封印――あらゆる神秘を極めた存在であった』
そして、少し間を置いて続ける。
『それに、ワシの加護は“女神の加護”とは根本から理が異なる。鑑定スキルでも見えず、魔法でも感知できぬ。本来なら、その存在を知る者は女神のみ……のはずだった』
「えっ……じゃあ、普通はフェンリルの加護を持ってても誰にも気づかれないの?」
『うむ。だが、ニアリスだけは違った』
フェンリルの声に、わずかな感嘆が混じる。
『奴はウルミアに宿る“フェンリルの加護”の存在を見抜いたのだ。あれほどの化け物じみた術師、他に見たことがない』
「……だから、封印もできたかもしれないってことか」
『おそらくな』
スコルは腕を組み、小さく唸る。
「でも……そんなすごい人が、なんでフェンリルを封印したんだろう」
『さあな』
フェンリルは静かに答えた。
『ニアリスのことだ。ただ感情で動く女ではない。何か理由があったのだろうが……今となっては分からぬ』
部屋に短い沈黙が落ちる。
やがてスコルが、ふと疑問を口にした。
「でもさ、封印が解けたタイミングで魔族が現れたのって、やっぱり変じゃない? まさかニアリスが、魔族にフェンリルのことを教えてた……なんてことはないよね?」
フェンリルは低く唸った。
『その可能性を完全には否定できぬ』
だが、すぐに続ける。
『……しかし、ニアリスが魔族と通じていたとは思えぬな』
「どうして?」
『もし奴が魔族側の人間なら、ワシを封印などせず、確実に殺していたはずだ』
フェンリルの声に、確信が宿る。
『封印とは、“生かす”ための選択でもあるからな』
そして、静かに推測を口にした。
『おそらく、あの森で長年漏れ続けていたワシのマナを辿り、魔族どもは封印されたワシの存在に気づいたのだろう』
「“魔物が出ない森”として有名だったから……魔族も、ずっとあの森を調べていたのかもしれないね……」
『うむ。魔族は昔から、ワシの動向を執拗に追っていた。連中にとって、ワシはそれほど邪魔な存在だったのであろうな』
「……なんだか、急に眠くなってきちゃった。続きの話は、また明日でもいい?」
スコルがそう呟くと、
『うむ。今日は色々ありすぎたからな。お主も疲れておろう。今は何も考えず、ゆっくり休め』
フェンリルの声は、どこか優しかった。
その言葉に安心したのか、スコルは布団に身体を沈めると、ほどなくして静かな寝息を立て始めた。




