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契約


「――契約!?」


 思わず、スコルは声を上げた。


「そうだ」


 フェンリルは、静かに黄金の瞳を細める。


「おまえは女神が数百年に一度だけ創り出す“霊獣聖顕の杯”。ワシと契約できる、唯一無二の器だ」


 低く響く声には、不思議な威圧感があった。


「ワシと契約すれば、聖獣フェンリルの加護を得ることになる」


「契約したら……僕は、どうなるの?」


 スコルは警戒を隠さず問い返した。


「ワシの加護によって、おまえの内に“マナの回路”が生まれる」


「……っ!?」


 その瞬間、スコルの呼吸が止まる。


 マナの回路。それは、この世界では誰もが絶対に持っているもの。それ故、生まれつき回路を持たなかったスコルは、ずっと“欠陥品”として扱われてきた。


 喉が震える。夢にまで見た力。だが同時に、胸の奥に強い恐怖が渦巻いていた。


「……本当に、まだ聖獣なの?」


 スコルは唇を噛みしめる。


「司祭様が言ってた。“フェンリルは魔族に堕ちた裏切りの聖獣だ”って……」


 脳裏に、幼い双子の弟たちの顔が浮かぶ。


「僕には弟たちがいるんだ……。もし契約して、僕が魔物みたいになったら……弟たちはどうなるんだよ……!」


 フェンリルは鼻を鳴らした。


「くだらん」


 その声には怒りではなく、深い侮蔑が混じっていた。


「ワシが魔族の仲間なら、先ほどの魔族をなぜ葬った。安心しろ。契約したとて魔物になることはない」


 そこでフェンリルの巨体が、わずかによろめく。


 蒼色の毛並みの隙間から、黒い亀裂のようなものが走っていた。


「……それに、時間がない」


「え……?」


「ワシは“黒陽崩界”を受けている」


 その名を口にした瞬間、空気が重く沈んだ。


 “黒陽崩界”――超高密度の闇魔力を極限まで圧縮し、触れた存在を跡形もなく蒸発させる、古代禁呪。並の生物なら、掠っただけで消滅する。


「それに、ここで魔族を葬っておる、仲間が、じきここへ来る。今のおまえでは逃げ切れん」


 フェンリルは真っ直ぐスコルを見つめた。


「……どうすればいいの?」


 少年の震える問いに、聖獣は静かに答える。


「ワシの輝きを受け入れろ。それだけで契約は成立する」


 スコルは拳を握り締めた。怖い。だが、ここで拒めば終わりだ。弟たちを守る力も、未来も、何一つ手に入らない。


「……わかった」


 震える声で、それでもスコルは前を向く。


「でも約束しろ……!何があっても、弟たちには手を出すな!」


 フェンリルは小さく笑った。


 次の瞬間――


「では、契約だ」


 フェンリルの全身が、蒼白い輝きに包まれる。


 そして胸元から、ひとつの光球がゆっくりと浮かび上がった。


 月光を凝縮したような、神々しい蒼い光。


 それは意思を持つかのように宙を漂い――


 やがて、スコルの胸へ静かに吸い込まれていく。


「――がぁっ!?」


 直後、全身を凄まじい衝撃が貫いた。


 心臓が暴れ狂う。血管が焼ける。骨の内側を、灼熱の奔流が駆け巡った。



「う、あああああああああっ!!」


 スコルは堪えきれず、その場に膝をついた。全身の血管を焼くような熱が駆け巡る。体内に、今まで存在しなかった“何か”が無理やり刻み込まれていく。


 流れる。巡る。脈動する。見えなかったはずの力が、確かに身体の中を駆け巡っていた。


 ――マナの回路。


 それが今、この瞬間。スコルの中に、産声を上げた。



 そして――


『——加護“フェンリルの聖痕”を獲得しました。』


『——スキル”牙王疾風がおうしっぷう”を獲得しました。』



 ――思念が直接流れ込んでくる。


『……成功したようだな』


 フェンリルが満足げに告げる。


「はぁ……っ、はぁ……っ……身体が、熱い……」


 荒い息を吐きながら、スコルは胸を押さえた。皮膚の下を、灼熱の何かが走り続けている。


『すぐに収まる。それより――見事だ、スコル』


 フェンリルの声が太くなる。


『“内循環”と“外放出”。マナ回路が二つ同時に形成されている」


「……え?」


 スコルは顔を上げた。


「二つ……?」


『うむ。本来ならば、回路は一つのみ。だが、おまえには二つも存在している』


 フェンリルは感心したように続ける。


『肉体を強化し、闘気として巡らせる戦士の回路。そして、外界へマナを放出し、術式へ変える魔術師の回路――その両方を併せ持つ者は、“勇者の回路”と呼ばれる』


「ゆ、勇者……!?」


 自分とは最も縁遠いはずの言葉に、スコルの目が見開く。


『もっとも、今は未熟な芽にすぎん。だが素質だけなら、間違いなく規格外だ……ところで、足の方はどうだ?』


「あ……」


 スコルは恐る恐る足を動かす。痛みはある。だが、先ほどまでの激痛とは明らかに違った。


「痛むけど……血は止まってる……」


 裂けていたはずの傷口は、うっすらと塞がり始めていた。


『ふむ。あの程度なら、ワシの加護で多少は修復できる』


 フェンリルは鼻を鳴らす。


「にしても……勇者の回路って、本当に……?」


 困惑と興奮が入り混じった声で、スコルは呟く。


『詳しい話は後だ』


 フェンリルの声から、先ほどまでの柔らかさが消える。


『魔族がこちらへ向かっておる。それに……周囲には魔物の気配もある。奴らは、ワシを警戒して遠巻きに様子を窺っていたようだが、お主と同化したことで、ワシの肉体は消えた。

 ……脅威が消えたと判断すれば、魔物どもはすぐに襲いかかってくるだろう』


 そう告げると、フェンリルは鋭く声を張り上げた。


『急ぐぞ。今すぐここを離れる』


「ど、どこへ行けばいいの?」


 スコルは不安を滲ませながら尋ねた。


『まずはこの森を出る。それが先だ』


 低く言い放つフェンリル。


 スコルはごくりと唾を飲み込み、力強く頷いた。


『わかった。……この森のことなら、僕が一番詳しい。まかせて』


 そう言って、スコルが駆け出そうとした、その時だった。


『待て』


 フェンリルの低い声が、鋭く響く。


『そこで倒れている人間たちは……お主を囮にして逃げた連中か?』


 スコルは足を止め、少しだけ視線を落とした。


「うん。魔族にやられちゃったんだ。森に詳しい僕だけ残してね」


 その言葉に、フェンリルは倒れた冒険者たちへ視線を向ける。


『……剣があるな。足の傷は、その剣によるものか?』


「うん」


 スコルが小さく頷く。


 フェンリルは愉快そうに喉を鳴らした。


『ちょうどよい。魔物が近くまで来ておる、武器が必要だ。刺された慰謝料代わりにもらっておけ』


「えぇ……? でも、鋼鉄の剣なんて……」


 恐る恐る、スコルは地面に落ちていた剣を握る。


 ずしり――。想像以上の重みが腕へ食い込んだ。


「う……なんとか持てるけど、重いや……。これで戦うなんて、今の僕じゃ無理かも……」


『案ずるな。今のお主には、“マナの回路”がある』


「あ……そっか」


 スコルははっと息を呑む。


「僕、マナを使えるようになったんだった。でも……どうやって操ればいいの?」


『マナの核となる場所はいくつも存在する。だが、人間なら――まずは丹田を意識するのが分かりやすい』


「たんでん……?」


『ヘソの少し下だ。そこに意識を沈めろ』


 言われるまま、スコルは静かに目を閉じた。呼吸を整え、意識を腹の奥へ向ける。


 すると――


 丹田の奥で、消えかけた炭火が、ふっと赤みを取り戻すような感覚が広がった。じんわりとした熱。細く、頼りない。けれど確かに“何か”が、そこにあった。


「……来た」


 思わず漏れた呟き。声に出した瞬間、消えてしまいそうなほど繊細な感覚だった。やがて、その熱は血流のように身体中へ広がっていく。腕へ、脚へ、胸へ、全身へ。


「……すごい」


 スコルは自分の手を見つめた。


「まるで体が、自分の名前を思い出したみたいだ……」


 フェンリルは満足そうに頷く。


『うむ。その感覚を忘れるな。あとはイメージだ』


「イメージ……?」


『自分の身体が強くなった姿を思い描け。筋肉、骨、呼吸、そのすべてが研ぎ澄まされる姿をな』


 フェンリルの思念が、低く唸るように響いた。


『――その状態で、もう一度剣を持ってみろ』


 言われるまま、スコルは再び剣の柄を掴んだ。


 その瞬間、目を見開く。


「え……!? 軽い! まるで木の枝みたいだ!」


 つい先ほどまで腕が沈みそうだった重さが、嘘のように消えている。


 フェンリルは声を鳴らした。


『ふむ……加護は問題なく馴染んでいるようだな』


 そのとき――茂みの奥で、がさり、と草木が揺れた。


『ちょうどよい。魔物が来た。試しに戦ってみるか』


 そしてフェンリルはゆっくりと尋ねる。


『剣術の心得はあるか?』


「ないよ、そんなの!」


 スコルは即答した。


『では、剣士の戦いを見たことはあるか?』


「それならある。そこで倒れてるアーロンたちが戦うところ、何度も見たよ」


『なら十分だ』


 フェンリルは静かに続けた。


『その動きを思い出せ。今のおまえは、ただの人間ではない。ワシの加護を受けた時点で、頂に届く才がある』


 その言葉に背中を押されるように、スコルは剣を構えた。


 見よう見まね。だが――剣は驚くほど自然に動いた。踏み込み、腰の回転、振り抜き。身体が勝手に最適な動きを選んでいく。


「すごい……!」


 自分でも信じられなかった。


「これなら……戦えるかもしれない!」


『近くに三匹おる。わかるか?』


 スコルは息を呑んだ。


「……わかる」


 鼓動のような気配が、夕暮れの森の奥から伝わってくる。今までなら、魔物が目の前に現れるまで気配など何ひとつ感じられなかった。


 だが今は違う。位置まで、はっきりと認識できる。


 フェンリルが低く唸った。


『大した相手ではない。丁度いい鍛錬だ。――行け、スコル!』


 その瞬間、スコルは地面を蹴った。


 茂みへ一直線に飛び込み、気配の中心へ剣を突き出す。


 ――ザシュッ!


 鈍い感触。


 次の瞬間、一匹の魔物が倒れ伏した。


「……え?」


 そこにいたのは、昼にアーロンたちが倒した魔物と同種のリーフディアだった。


 スコルは、一撃で仕留めることができた。


 リーフディアは小柄な鹿に似た魔物。鋭い角と牙を持つが、動きを見切れば脅威ではない――と、アーロンたちの言葉を思い出した。


『まだ二匹おるぞ』


 フェンリルの声が飛ぶ。


「う、うん!」


 スコルは振り返る。身体が軽い。視界が鮮明だ。森の空気すら、手に取るように感じられる。


 次の一匹。さらにもう一匹。


 スコルは迷いなく剣を振るい、立て続けに魔物を倒していった。やがて、静寂が戻る。


 フェンリルは満足そうに頷いた。


『ふむ。初陣にしては上出来だ。では――この森を出るぞ、スコル』


「……うん!」


 スコルは強く頷き、森の外へ向かって駆け出した。


 しばらく走ったあと、不安そうに振り返る。


「……森を出たら、どうすればいいの? 街に魔族が押し寄せたりしないよね?」


 フェンリルは断言した。


『街に? それはない』


 巨狼は続ける。


『奴らの狙いはワシだ。ワシほどの存在が街に現れれば、すぐに騒ぎになる。

 ゆえに魔族どもは、“ワシは森に留まっている”と考えるはずだ。それにワシは、《黒陽崩界》を受けている』


 その声音には、かすかな重みがあった。


『古代魔法に属する禁呪法だ。触れたものを骨どころか、毛の一本すら残さず蒸発させる。

 扱いが極めて難しく、魔族ですら滅多に使わん術なのだが……連中は、それほどワシを煙たがっていたらしい』


 スコルは息を呑む。


 フェンリルは淡々と語った。


『だからこそ、奴らはワシがいずれ森で朽ち果てると思っているだろう。黒陽崩界を受けて生き延びるなど、普通はあり得んからな。

 ――加護の力を知っているのは女神だけだ。魔族は、ワシが消えた理由を禁呪のせいだと思い込むはずだ』


 その言葉を聞き、スコルはようやく胸を撫で下ろした。


「……よかった。街には来ないんだね」


 ぽつりと呟く。


「僕の家、町外れにあるから……少し安心したよ」


『そうか』


 フェンリルは低く応じた。


『ならば、まずはお主の家へ向かおう。聞きたいことも、話しておきたいことも山ほどある』


「うん」


スコルは力強く頷いた。


――森を抜ける頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。


だがスコルは、無事に“封印の森”を抜け出すことができたのだった。


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