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聖杯

 天上に座す女神から、地上に舞い降りる新たな命へ贈られる唯一の祝福――「ギフト」。


それは、生まれた瞬間に魂の形を決定づける絶対的な才能だ。

剣を振るうために生まれる者もいれば、魔法の深淵を覗くために生まれる者もいる。

癒しの御手を持つ者も、商いの勘を研ぎ澄ます者も、皆がその授かりものを道標として生きていく。


この刻印なき者に、戦うためのスキルは目覚めず、理を編む魔法も微笑まない。

相応しき天職に就くことすら許されぬその身は、世界の歯車から零れ落ちた「空っぽ」の器に等しい。

この世界において、ギフトを持たぬということは、女神に背を向けられたことと同義であった。


 だが――


何も持たない者も、ごく稀に存在した。


少年には、何もなかった。


十五歳。名もなき街の外れに住む彼は、親を亡くし、幼い弟たちを養うために働いていた。

剣も振れない。魔法も使えない。

明日を繋ぐためだけに、光の届かぬ森で、山菜を拾い続ける日々が、終わりもなく続いていた。


それでもよかった。

生きていければ、それでよかった。



 ――その日までは。


 少年の名はスコル。

 今日も朝から、まだ眠たげな幼い弟たちに硬いパンをちぎって食べさせる。


「……じゃあ、いってくるよ」


 そう言い残し、軋む扉を押して外へ出る。


 朝日が差し込み、スコルは目を細めながら、少し癖のあるブラウンの髪をかきあげた。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、いつものように森へと足を向ける。


 その森は、一年を通して豊富な山菜が実る、恵みの森だった。不思議なことに、魔物はおろか、熊や狼といった猛獣すら姿を現さない。


 その異様な静けさは、記録を辿る限り数百年も続いており、人々は畏敬を込めて、この地を「神鎖の森グレイプニル」と呼んできた。


 ――女神に守られた、決して穢されぬ森。


 だが、その伝承は、数年前にあっけなく崩れ去る。神鎖の森に、ついに魔物が現れたのだ。


 それ以来、森の奥へ容易に足を踏み入れることできなくなった。


 魔物の数は日を追うごとにじわじわと増え続け、スコルのような採集者にとって、それは静かに、しかし確実に――生きる糧を削り取られていくことを意味していた。


 それでも彼は、毎日森へ入る。危険の少ない手前の区域で、ありったけの山菜をかき集め、街へと持ち帰るのだ。



「やあ、スコル」


 馴染みの店先で声をかけてきたのは、山菜を買い取ってくれる店主のジンだった。


「ジンさん……今日も、なんとかこれだけ集められました」


 肩で息をしながら差し出された籠を見て、ジンは目を細める。


「この時期にこれだけ採れれば上出来だ。いつも助かってるよ」


 その言葉に、スコルはわずかに笑みを浮かべるが、すぐにその表情は陰る。


「でも……もう、これだけ集めるのは難しくなるかもしれません」


 森に魔物が現れてから、採れる場所は日に日に狭まっている。安全な範囲だけでは、いずれ限界が来る――それは誰の目にも明らかだった。


「弟たちがいるんだ。無茶はするなよ」


 ジンの言葉は、叱責ではなく、重みのある気遣いだった。


「はい……そのつもりです。でも――」


 そこでスコルは、少しだけ明るい声になる。


「最近は、案内人の仕事も入るようになってきたんです」


 数百年の静寂を破った異変に、森を治める領主は危機感を抱いた。冒険者ギルドへ調査を要請し、多くの冒険者たちがこの地へ集められている。


 そして――幼い頃から森に通い続け、その地形を知り尽くしているスコルに、白羽の矢が立った。


 危険と隣り合わせではあるが、それでも――弟たちを養うための、新たな道が、彼の前に開かれつつあった。



「たしかに、あの森を知り尽くしているお前には、うってつけの仕事だろうな……。だが、気をつけろよ。冒険者ってのは、いざとなれば案内人や荷物運びを囮にして逃げる――なんて話も聞くからな」


 ジンはそう言って、いつになく真剣な眼差しを向けた。


「大丈夫ですよ。いま依頼してくれている人たちは、何度も助けてくれていますし……本当に、いい人たちなんです」


 スコルはそう答え、安心させるように笑ってみせる。


「それじゃあ、今日は案内の仕事がありますので。また明日、お願いします!」


 軽く頭を下げると、スコルは店を後にした。向かう先は、街の出入り口――冒険者たちとの待ち合わせ場所だ。



 石畳の通りは、人で溢れていた。


 活気に満ちた商人の呼び声、鍛冶屋が叩く規則正しい槌音、そして隙間を縫って駆けていく子どもたちの笑い声。


 その喧騒の真っただ中を、スコルが歩いているときだった。


「なあ、見ろよ……あいつだ。例の“回路なし”ってやつ」


 背後から突き刺さるような、わざとらしい大声。振り返ると、そこには鎧もまともに整えていない粗野な冒険者たちがいた。肩で風を切るように歩きながら、下卑た笑いをこちらに向けている。


「コイツ、回路がねぇんだとよ」


 その言葉が投げかけられた瞬間、ざわり、と周囲の空気が揺れた。何気なく通り過ぎようとしていた人々が、弾かれたように足を止める。


「は? 回路がない?」

「そんなわけあるかよ。小さなガキだって持ってるもんだろ」

「だよなぁ。才核さいかくってのは、“必ず”あるもんだ」


 向けられる視線が、好奇から明確な「忌避」へと変わっていくのをスコルは肌で感じていた。


 才核——それは女神から授かるギフト、魂の設計図だ。


 人は生まれ落ちた瞬間、この世界に満ちる目に見えぬ力「マナ」を扱うための核を授かる。


 マナはこの世界の遍在する息吹であり、万物と結びつく霊的な力そのもの。その力をどう引き出し、どう生きるかを決定づけるのが才核である。


 それは三歳までに芽吹き、八歳を迎える頃には完全に形を成す。その時点で、その者の“道”はほぼ決まる。何になれるかではない。“何にしかなれない”かを突きつけられる、残酷な審判でもある。


 一人の男が、逃げ道を塞ぐようにスコルの前に回り込んだ。


「じゃあ、試してみろよ」


 男がニヤつきながら顎でしゃくる。


「内循環。ほんの少しでいい。身体、強化してみろ」


 その要求は、この世界の住人にとっては「瞬きをしてみろ」と言っているのと同義だった。



 マナの回路は大きく三つに分かれる。


 外へと現象を放つ「外放出型」、他者の内側に干渉する「外部循環型」。そして、九割以上の人間が宿しているのが、体内を循環させて肉体を補強する「内循環型」だ。


 外放出型は魔法を扱い、外部循環型は他者を癒し、あるいは侵す。内循環型はいわゆる戦士タイプだが、戦いに適したスキルを持つ者は数%にとどまる。


 しかし、たとえ戦う力を持たない農夫であっても、内循環によって筋力を底上げし、疲れを逃がし、日々の糧を得ている。


 人は皆、何らかの“回路”を巡らせて生きているのだ。



 だが。


(——できるはずがない)


 スコルは奥歯を噛み締めた。この世界の誰もが当たり前に触れている“流れ”を、彼はただの一度も捉えたことがないのだ。


「……ほらな。マジで空っぽじゃねぇか」


 沈黙に耐えかねて男が肩をすくめると、くすくすと冷ややかな笑いが周囲に広がった。通行人たちは、まるで理解できない化け物を見るような目で、あからさまに距離を取る。


「なぁ、それってさ……人間って言えるのか?」


 誰かがわざとらしく張り上げた声に、周囲の視線が一斉に突き刺さった。好奇、軽蔑、困惑。そして、その暴言を否定する者は一人もいない。


「マナがねぇってことは、スキルもゼロだろ?」

「じゃあ何ができるんだ、お前」

「この世界で生きてくならな、“使えねぇ奴”に居場所なんてねぇんだよ」


 浴びせられる言葉を、スコルはただ受け止めるしかなかった。それが事実だからだ。


 嘲笑が通りに響き、さっきまで賑やかだったはずの町の音が、急に遠くなる。


 ふわり、と風が吹いた。

 露店の布が揺れ、旗がはためく。


「いい風だな」

 誰かが無邪気に呟いた。


 けれど、その風の中にあるはずの“流れ”を、スコルだけが感じ取れない。


 世界を繋ぎ、人々を生かしているはずの力。その祝福は、最初から——僕の中には存在していなかった。



「——おいおい。どこのどいつかと思えば、酒代も稼げねぇ三流冒険者様たちが、随分と威勢がいいじゃねぇか」


 少し低めの、よく通る声が響いた。


 振り返ると、そこには一人の男が立っていた。陽光を受けて輝くブロンドの髪に、鍛え上げられた体躯。重厚な鋼の鎧をまとったその姿は、いかにも歴戦の戦士といった風格を漂わせている。


「あ……アーロンさん」


 スコルが小さく声を漏らす。彼はこの界隈で活動する冒険者——アーロンだ。


「なんだ、アーロンか。……あんたには関係ねぇだろ」


 粗野な男たちが、忌々しげに顔を歪める。同じ冒険者同士、アーロンの実力は知っているのだろう。戦えば自分たちが痛い目を見ることはわかっているらしく、わずかに腰が引けている。


 アーロンは鼻を鳴らし、スコルの隣に並んだ。


「関係ねぇ? 俺の知人が路地裏の野良犬に絡まれてりゃ、追い払うのは当然だ。……いいか、よく聞け」


 アーロンは冷めた視線で男たちを射抜いた。


「『回路がないから人間じゃない』? へっ、そんな下らねぇ基準でしか人を測れねぇのか。

だったら、その大層な“回路”を持ってて、ガキ一人を寄ってたかって馬鹿にすることしかできねぇお前らは、一体何なんだ? 

女神様が回路を授けたのは、自分より弱い奴を嘲笑うためじゃねぇはずだぞ」


「うっ……それは……」


「これ以上やるってんなら、俺が相手をしてやってもいい。俺の回路はそこまで上等なもんじゃねぇが、お前らみたいな、回路の使い方も知らねぇ三流に後れを取るほどヤワじゃねぇつもりだ」


 アーロンが剣の鞘を軽く叩く。その冷徹な「プロ」の構えに、男たちは顔を見合わせた。圧倒的な才能ではない。けれど、日々命を懸けて戦う者だけが持つ、実戦のあつがそこにはあった。


「……けっ、行くぞ。真面目腐った中堅野郎に構ってる暇はねぇんだ」


 男たちは吐き捨てるように言うと、足早に人混みへと消えていった。


 それを見届けると、周囲の野次馬たちも「なんだ、終わりか」と言いたげに、興味を失ってそれぞれの日常へと戻っていく。


 静かになった通りで、アーロンは深くため息をついた。


「……ったく。あいつらも、自分が大して強くねぇからって、八つ当たりする相手を探してやがるんだ。……大丈夫か、スコル」


 アーロンは無造作にスコルの頭を撫でた。その手のひらは、剣ダコで硬く、ひどく熱い。


「……すみません、アーロンさん。助かりました」


「謝るな。スコルが悪いわけじゃねぇ」


 アーロンの手から伝わるのは、研鑽によって磨かれた「内循環」の、ささやかだが力強い拍動だ。


 彼のような冒険者たちが、血の滲むような努力で練り上げたマナの熱。それは、最初から「何も持たない」スコルにとって、やはり眩しく、少しだけ胸を締め付けるものだった。


「ほら、いつまでもそんな顔してんな。……あいつらの言うことなんて、気にする必要はない。回路がなくても、スコルはここにいる。そうだろ?」


 そう言って、アーロンは自分の胸を拳でトントンと叩いた。


「さあ、行こうか。今日も頼むぜ」


 歩き出したアーロン。それは着実にこの世界を歩み続けている「持てる者」の背中だった。


 スコルは自分の空っぽの手のひらを握りしめ、その頼もしい影を追うように歩き出した。


 気がつくと、柔らかな雰囲気をまとった女ヒーラーのラミと、まだ若さの残る魔術師ネスの姿もあった。


「東側はだいたい調査が終わったからな。今日は中央部を見て回りたいんだが……案内できるかい?」


 アーロンの問いに、スコルは小さく頷く。


「中央部ですね。道はわかります。ただ、あそこは険しい場所が多いので、あまり長くは動けないかもしれません」


「構わないさ。行けるところまででいい」


 アーロンは迷いなく言い切り、仲間たちに目配せする。


「――じゃあ、決まりだ。出発しようぜ!」


 その一言を合図に、四人は並んで歩き出す。

 

 再び、不穏な気配を孕んだ森の奥へと――。



「こっちですよ」


 森に足を踏み入れた途端、スコルは弾むような足取りで三人を先導した。ここしばらくは魔物の出現で奥へ進めず、森の気配を感じることすら久しぶりだったからだ。


「魔物を見たら、すぐ教えてくれ。あとは俺たちが片付ける。スコルに何かあったら、弟たちに顔向けできねぇからな」


 アーロンの低い声には、軽口の裏に確かな気遣いが滲んでいた。


 それを聞いたスコルは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、ぱっと顔を明るくする。


「はい!」


 だが、その返事が森に消えるより早く――


「――スコル、動くな!」


 鋭い怒号が空気を裂いた。


 同時に、アーロンの剣がスコルのすぐ脇、茂みへと一直線に突き込まれる。


 鈍い手応えとともに、くぐもったうめき声が漏れた。


 アーロンは躊躇なく茂みをかき分け、何かを掴んで引きずり出す。


 現れたのは、小柄な鹿に似た魔物だった。細い体に不釣り合いなほど鋭い角、口元には小さな牙が覗いている。


 くすんだ緑色の体毛には葉のような模様が浮かび、森の中では完全な保護色となる――じっとしていれば、まず見抜けない。


「リーフディアだな。群れで動くやつだ」


 短く言い放つと、アーロンは周囲へ視線を走らせる。


「ラミ、ネス。まだ潜んでるはずだ、探れ」


 二人は即座に頷き、それぞれの方向へ散った。


 ほどなくして、草を踏む音とともに小さな影がいくつも浮かび上がる。結局、合計四匹のリーフディアが見つかり、逃げる間もなく仕留められた。


 静けさが戻る。


「助かりました、アーロンさん」


 スコルがほっと息をつきながら頭を下げる。


「気にすんな。この調子で案内を頼むぜ」


 アーロンは剣に付いた血を軽く振り払い、いつもの調子で言った。



 それから調査は驚くほど順調に進み、気づけば森の中央部へと差し掛かっていた。


 木々の隙間から差し込む光は、すでに橙色へと傾き始めている。


「やっぱり……そろそろ戻ったほうがいいんじゃないですか。じきに日が暮れます」


 スコルが空を見上げながら言った。


「そうだな、戻るか。まあ、この辺りの魔物は大したことねぇ。夜になっても脅威ってほどじゃないが……」


 アーロンが肩をすくめた、その時だった。


――グォオオオオッ!!


 耳をつんざくような魔物の雄叫び。


 直後、地面の奥底から響くような爆音が、立て続けに森を震わせた。


「……何だ、今の!?」


 アーロンの表情が、はっきりと強張る。


「この音……魔法だ。それも、とんでもなく規模の大きい――極大魔法……!」


 ネスが息を呑みながら呟いた。


「調査に来てる連中で、そんなもん使える奴がいたか?」


 アーロンの問いに、ネスは首を横に振る。


「いや……ここは低ランク向けの森だ。そんな上位の冒険者が来るはずがない。……いずれにしろ、まずいな。すぐ戻ろう」


「私も……すごく嫌な感じがする……」


 ラミが胸元を押さえ、不安げに呟いた。


「決まりだ。無駄話はなしだ。スコル、帰りは少し飛ばすぞ!」


「はい!」


 短く応じ、スコルは踵を返す。四人は一斉に森の出口へと駆け出した。


 その帰路――


「あそこ……何かいる」


 不意に、ネスが足を止めた。


 夕日に染まる木々の合間。揺れる影の中に、ひときわ大きな“黒”が立っている。


 それは、ただそこにいるだけで、周囲の空気を歪めているかのようだった。


「どう見ても……ヤバいな……」


 アーロンが声を潜める。


「あれ……ミノタウロスじゃない……?さっきの爆音と関係あるのかな……でも、音とは逆方向だよね……」


 ラミの声も、どこか震えていた。


「もし本当にミノタウロスなら……俺たちはここで終わりだ……」


 アーロンの額に、冷たい汗が滲む。


 ――その瞬間。


「違う!!」


 ネスが、張り裂けるような声で叫んだ。


「あれは……魔族だ!!」


 ネスの叫びが森に響いた、その直後だった。


「――走れ!」


 アーロンが低く、しかし有無を言わせぬ声で言い放つ。


 一瞬の躊躇もなく、ラミとネスが踵を返す。その動きはあまりにも早く、まるで最初から決まっていたかのようだった。


「え……?」


 スコルが戸惑いの声を漏らした、その刹那――


 ドスッ、と鈍い音が響く。


「……っ!?」


 視界が揺れた。


 遅れて、焼けつくような激痛が太ももを貫く。


 見下ろせば、アーロンの剣が深々と突き刺さっていた。


「な……んで……」


 言葉にならない声が漏れる。


 アーロンは、振り返りもせずに剣を引き抜いた。


 血が噴き出し、スコルの足から力が抜ける。


「恨むなよ――案内人ってのは、こういう時に“使い潰される”役なんだ」


 吐き捨てるような声だった。


「魔族相手に全員で逃げ切れるほど、甘くねぇんだよ」


 スコルの体が崩れ落ちる。


 地面に手をついた瞬間、鉄の匂いが一気に広がった。


「弟たちには……“運が悪かった”って言っとく」


 それだけ言い残し、アーロンは振り返ることなく駆け出した。


 ラミもネスも、一度もこちらを見ない。


 ただ、遠ざかっていく足音だけが残る。


「……ま、って……」


 伸ばした手は、誰にも届かない。


 その時だった。


 ざわついていた梢の音が消え、風が止まった。


 一閃。


 大気が悲鳴を上げる暇さえ与えない、無音の蹂躙。


 ――ぐしゃり。


 肉が裂ける、生々しい音が遅れて耳に届く。


 スコルの視界の先。逃げ出したはずの三人の背中が、不自然に揺れた。


「……え?」


 アーロンの体が、ゆっくりと前のめりに傾く。その上半身が――滑り落ちた。


 まるで、見えない線で切り分けられたかのように。


 ラミとネスも同じだった。胴の半ばから上が無残にずれ落ち、断面から噴き出した鮮血が、森の静寂を毒々しい赤に染め上げる。


 自分が殺されたことさえ、彼らは理解していなかったに違いない。事切れた肉塊が地面を叩く音が、三つ。それだけで、全ては終わった。


 再び、森に静けさが戻る。


 ただ一人、地面に崩れ落ちたままのスコルだけが、その光景を見ていた。息をすることすら忘れたように、ただ、目の前の現実を受け止めきれずに。


 やがて――


 ずしり、と。


 重い足音が、すぐ背後で止まる。ゆっくりと影が差し、スコルの体を覆った。


 振り返らなくてもわかる。それが、今しがた三人を“消した”存在だと。


 スコルは震える体で振り返った。


 そこに立っていたのは、先ほど見た“黒い影”。


 人の形をしていながら、人ではない存在。


 圧倒的な威圧と、底知れぬ殺気をまとった――魔族。


 逃げ場は、もうどこにもなかった。


「――小僧。蒼い毛並みの魔獣を見なかったか?」


 低く、底の見えない声だった。


 魔族は、血のように赤い四白眼でスコルを射抜くように見据える。


「正直に答えろ。そうすれば……命だけは拾わせてやる」


 その言葉には、情けも温度もない。ただ事実を告げているだけの響きだった。


 スコルは喉を鳴らすことすらできず、ただ必死に首を横に振る。


「……嘘ではなさそうだな」


 わずかに視線が細められる。


「お前、案内人だろう。この森には詳しいはずだ。――この辺りに、大型の魔獣が身を潜められる場所はあるか?」


 どうやら先ほどの会話を聞かれていたらしい。生かされている理由が、そこでようやく理解できた。


「……この辺には、ありません……。洞窟なら……もっと東へ行かないと……」


 震える声で、どうにか言葉を絞り出す。


「東か……」


 魔族はわずかに空を仰ぎ、鼻で笑う。


「……逆だな」


 その一言で、すべてが無意味だったと告げられた。


「質問には……答えました……もう……帰っても……」


 かすれた声で懇願する。


「弟たちが……待ってるんです……」


 だが、魔族はその言葉に一切の興味を示さなかった。


 ふと、値踏みするようにスコルを見下ろす。


「……妙だな」


 ゆっくりと一歩、近づく。


「お前――マナの回路がないのか?」


 その声音には、初めて“興味”が混じっていた。


「そんな個体もいるとはな……」


 薄く、歪んだ笑みが浮かぶ。


「なるほど。女神に見放された存在か」


 赤い瞳が、より深くスコルを覗き込む。


「……どうりで、こんな場所で俺と出会うわけだ。運命にさえ見捨てられている」


 そして――


「案ずるな」


 静かに、告げる。


「力なき貴様にとって、死は絶望ではない」


 わずかな間。


「……ただの“解放”だ」


「死ね――」


 魔族の口から、冷酷な宣告がこぼれる。


 頭上から振り下ろされる巨大な斧。死の質量がスコルを押し潰そうとした、その時だった。


 突如として、銀翼のような閃光が走った。


 肉を断ち、骨を砕く凄まじい音。次の瞬間、スコルの目の前で魔族の巨体が、まるで紙細工のように三つの肉塊へと引き裂かれた。


 呆然とするスコルの喉元へ、巨大な「爪」が突きつけられる。


 だが、その鋭利な刃は、皮膚を裂く寸前でぴたりと止まった。


「……人か?」


 低く、しかしどこか拍子抜けしたような声が響いた。


「話し込んでおったから、てっきり魔族かと思うたが」


 そこにいたのは、燃えるようなエメラルドブルーの毛並みを湛えた、山ほども大きな狼だった。その瞳は理知の光を宿し、傷だらけの体からは、なおも神々しいまでの威圧感が溢れ出している。


「……ぼ、僕を……殺さないのか……?」


 かすれた声で問う。


 すると狼は、鼻で笑うように息を吐いた。


「我が名はフェンリル。むやみに人の命を奪うことはせぬ」


「フェンリル……。あの、『堕ちた聖獣』の?」


 その瞬間、空気がわずかに張り詰めた。


「……堕ちた、だと?」


 黄金の瞳が細められる。


「かつて“白耀の守護獣”と謳われた、このワシが……?」


 だがすぐに、興味を失ったように顔を逸らす。


「まあよい。少年よ、ここは危うい。奥には魔族が群れておる。早く立ち去るがいい」


「僕だって……逃げたいよ」


 スコルは苦笑のような表情を浮かべ、自らの足を見る。


「足をやられて……動けないんだ……」


「……ほう」


 フェンリルは静かに視線を落とした。


「ワシと同じか……。しくじったわ」


 その巨体のあちこちには、深い傷が刻まれている。


「もはや、動く力も残り僅かよ……」


 フェンリルは自嘲気味に息を吐いた。その脇腹からは、どす黒い血が止めどなく溢れている。


「その傷……魔族にやられたの?」


「…………」


「……僕は、人にやられたよ。僕には、何もないから……囮にされたんだ」


 沈黙が落ちる。


「……何もない、か」


 フェンリルの目が、じっとスコルを見据えた。


 そして――


「……む?」


 わずかに身を乗り出す。


「おまえ……マナの回路が、ないな?」


「……ああ」


 スコルは自嘲気味に笑う。


「生まれつき、何もないんだ。運も……才能も……女神様にも、見捨てられてる」


 その言葉を聞いた瞬間、フェンリルは天を仰ぎ、喉を震わせて笑い声を上げた。


「ハハハハハ! 愉快、愉快よ! 女神の奴め、またワシに手を貸せというのか? 癪ではあるが、その悪巧みに乗ってやろうではないか」


 フェンリルは表情を正し、厳かな声で問うた。


「少年。名を、なんという」


「……スコル。だけど……」


「スコルよ。たしかにお主の身に回路は『ない』。だが、それこそが何よりの意味が『ある』のだ」


「意味……?」


 スコルの声が震える。


 フェンリルの瞳が、深く輝いた。


「才核とは、この世に生まれしすべての命へ贈られる女神のギフトだ。それを……おまえだけが、与えられていないと本気で思うか?」


「……違うの?」


「――否」


 断言だった。


「才核がないのではない」


 ゆっくりと、言い放つ。


「おまえは“器そのもの”だからだ」


「……え?」


 スコルの思考が止まる。


「回路がないのではない。お主自身が、溢れんばかりの聖なる力を受け止めるために空けられた『聖なる器』――すなわち『聖杯グレイル』だからよ」


「僕が、聖杯……?」


「聖杯とは、『霊獣聖顕セイクリア・レイジュグレイル』のことだ。すなわち、ワシのような聖獣を、その身に取り込み、一体化できる唯一の器」


フェンリルの視線が、まっすぐにスコルを射抜いた。


「聖杯は、数百年に一度しか生まれぬ」


 静かに、しかし確信を込めて告げる。


「……ゆえに、おまえがここにいるのは――決して偶然ではない」


 フェンリルの双眸が、スコルを絡め取るように捉える。


「スコルよ――ワシのすべてをくれてやる」


一歩、踏み出す。


「その身を器とし、我を受け入れよ」


 低く、しかし揺るがぬ声音で告げた。


「――契約せよ」


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