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「…は?」
それは、忙しい昼が終わってひと段落したころのことだった。
あたしは食堂のキッチンでゆっくりと、洗い終えた食器を1人で拭いているところだったのだけど、そこにいきなり飛び込んできたランスは弾む息を整える暇もなく、ええと、なんて、言った?
そんなことを思ってみても目の前で立ち尽くすランスがもう一度その言葉を繰り返してくれることはなく、ただあたしの頭の中でさっき聞いた声が繰り返された。
―俺は、あなたに
ガシャン、と音が鳴った。
そのけたたましい音にあたしも、ランスも肩を跳ね上げて驚いたようだった。自分の足元を見ると、粉々に割れてしまった皿。
ランスが「大丈夫ですか」と言って心配そうな顔でこちらに近づいてくるのが見える。あたしは、あたしはなぜだかランスに近寄られたくなくて、後ずさっていた。なぜ?だって、わからない、あたしは。
「…ご、ごめんっ!」
ランスから目をそらしてそう叫んだ。それからのことはよく覚えていない、けど、なんとかこの場から離れようと夢中で足を動かしたことだけは覚えている。
勝手口の扉を閉める音で、ようやく自分のいる場所がわかった。
だいたい、ランスの様子はあの夜からおかしかった。翌日からなんとなく顔を合わせるのが気まずいなと思っていたらランスは食堂に来ないどころか、騎士団本部のどこにもいないし。聞けば、休暇をもらっていたからということらしいけど。
緊張の糸が切れたせいか、扉に背を預けたままずるずると座り込んでしまった。
さっき起きたことは、現実、だったのだろうか。手が震えている、きっと、現実だったのだ。だとしたら、だとしたら何事なんだ?ランスが、ランスがあたしに。ひい、言葉になんかできない。恥ずかしすぎる。だってそんなこと。
ランスは、ランスはあたしよりずっと年下で、若くて、キレイな顔をしていて、いいとこの坊ちゃんで。あたしなんかとは釣り合わない、いや、まて、そんなことを言ったらまるであたしがランスに気があるみたいじゃないか。そうじゃなくて、ランスは世話の焼ける、あたしに弟はいないけれど、弟みたいな存在で。
でも、それがあの夜、いつもの情けない顔なんかじゃなくて、とても強い意志を持った、男みたいな表情をしたから。だからあたしは、なんだかランスと顔を合わせるのが気まずいと思って。
「あああああ…」
あたしの口からはため息とともに思わずそんな、情けない声が出た。
違う、違う、こんなに落ち着かないのは、そわそわしてるのは、ランスにドキドキしてるとかじゃなくて、あんまり驚いたからで。弟みたいに思ってたあいつが、いきなりあんな顔するからで、けっして、けっして。
…違う、はずだ。
いや、わからない。わかるわけないじゃんか、だって。
こんなのは、初めてだ。
ランスの顔が頭に浮かぶたびに恥ずかしくて頭を横に振るけれど、またすぐに浮かんできてしまう。なんでこう、ランスに振り回されてんだあたしは。だってランスは、誰にでも優しくして、それがじいさんの教えだとか言ってたっけ、なんでもそつなくこなすくせにもっと上手くなりたいって努力するやつで、そのために無理することもあるから放っておけなくて。そうだよ、そういうところが弟みたいで、だから目がはなせなくて。
あいつが、恋をしたときも。
嬉しそうにしたり、落ち込んだり、笑ったり、泣いたりするあいつから目がはなせなかった。そしてそれはやっぱり、弟みたいだから放っておけないと思っただけで、けして、けっして、そんな気持ちなんかじゃ。ない、はず、なんだけど。
「アンナリル、どうした?」
「え、あ、父さん」
突然頭の上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、そこには、心配そうな顔をした父さんが立っていた。足音にすら気が付かなかった。
父さんはすぐにひざをついてあたしに視線を合わせると、あたしの額に手を当ててずいと顔を覗き込んだ。
「具合でも悪いのか?顔が赤いぞ」
気が付かないふりをしていた事実を指摘されて、あたしはたぶん初めて、父さんの前で「なんでもない!」と大きな声をだしてしまった。
夕飯に、ランスは現れなかった。
昼間に現れたとき、制服を着ていなかったからおそらくまだ休暇中なのだろう。あいつ、休暇中だってのにわざわざあれを言いに来たのか。ああ、だめだ、思い出したらまた恥ずかしくなる。
「アンさん」
「えっ、あ、隊長、ええと、何か」
そんなことを考えていると、いつの間にやらカウンターの目の前に隊長が立っているのだった。手にはキレイに食事を終えた後の食器を乗せたトレイ。ああ、持ってきてくれたのか。
「やっぱり、今日はなんだか上の空ですね」
「やっぱり?」
つい声に出して隊長の言葉を繰り返してしまった。やっぱりなんて、どういう意味だろう。
隊長は相変わらずの、こう言ってはなんだが、威厳を感じさせない穏やかな笑顔を見せて答えてくれた。
「食事をもらったときも、なんだかぼーっとしているなと思っていたんですよ、それに今もほら、僕が目の前にいるのに気が付かなかったでしょう?」
「ああ、それは…」
ランスのことを考えてた、なんてことは、言えるはずがない。
「ねえアンさん」
答えられずにいると、隊長がやはり穏やかな口調であたしの名前を読んだ。
「明日か明後日、お休みをとったらどうですか?」
そして隊長はそんなことを言うのだった。休みをとる、か。
「アンさん近頃お休みをとっていないでしょう?いくら好きなことでもたまには休まないと疲れますよ」
ああ、そうか、慣れないことが続きすぎて少し疲れたのかもしれない。キッチンにいるときでさえぼーっとしてたら仕事になんないよな、うん。
「そう、ですね、そうします隊長」
「うん、そうしてください」
あたしの答えに満足そうに笑った隊長は、「ああ、それと」と続けると少し腰をかがめてこちらに顔を近づけた。丸い、ふちのないメガネの奥にある瞳が細められているのがよく見える。そして手を口の横に添えて内緒話をするような構えをすると
「ランスには僕からうまく言っておきますね」
と、小声でとんでもないことを言うのだった。そのとんでもない不意打ちに思わず「えっ?」と声が出る。
不意打ちを仕掛けた当人はといえば、やはりいつものようにニコニコニコニコと笑っているだけだ。え、いや、ランスにはって、隊長はなにをどこまで知って。
「ふふ、顔が赤いですよ、アンさん」
だ、だ、誰のせいだと思ってんだ!




