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しばらく休暇をもらっていたことは幸いだった。
掃除屋さんの補佐のために連勤したからと、隊長がくれた5日間の休暇だ。実家に戻って、頭を冷やそう。それからできれば、姉さんに話したい。そう思って実家に戻ったのだけれど、俺が戻ったその日、姉さんは実家を訪ねては来なかった。
考えてみれば、実家で待っていて姉さんに会えるなんてことはいつもあることじゃない。幸運だと思わなければいけないことだ。本当に会いたいと思うのなら、俺の方から出向かなくては。
そう考えた俺は休暇2日目の午後、姉さんの住む屋敷へと向かっていた。そしてその道中、前方から歩いてきた男性に、親しげに手を振られることになるのだった。
「や、ランスリッド」
「義兄さん?」
俺に向かって親しげに手を振ったのは、白を基調とした軍服に身を包んだ義兄さんだった。軍服を着ているということは仕事中なのだろうけれど、こんな時間に、こんなところで何をしているのだろう。
「いやあ、ちょっと家に忘れ物をしちゃってね、取りに戻ってたんだよ」
相変わらずにこにこと笑いながら、義兄さんは俺が聞く前に答えをくれた。姉さんや使用人に届けさせてもいいものを、わざわざ自分で取りに戻るなんて、きっと息抜きの口実なのだろうな。まったく、義兄さんらしいといえばらしいけれど。
「ランスリッドはこんなとこで何してんの?見たところ非番みたいだけど、こんなとこ歩いてるなんて、もしかしてうちに来るとこだった?」
義兄さんはいとも簡単に俺の図星をついた。俺が「はい」とうなずくと、義兄さんは「おお」と驚いたような声を上げた。
「あの、姉さんに会いたくて」
「ニーナに?」
俺がそう言うと、義兄さんは顎に手を当ててうーんとうなった。少し、困ったような顔だ。
「んー、ニーナは今親友のやってるカフェに行ってて、家にはいないんだよね」
「そうなんですか」
「それに行ったら長いから、しばらく会えないかもしれない」
「そう、ですか」
姉さんは今、いない、のか。姉さんの予定も聞かずに来るんじゃなかったな。はあ、なんだかうまくいかない。自分で思っている以上に俺はいろいろと判断力が落ちているのか。
「どうしてニーナに会いたいのか、聞いてもいい?」
「その、姉さんに相談したいことがあって」
俺がそう理由を告げると、義兄さんはほうという顔をした後に、にんまりと笑った。あ、なにか、企んでいる。「そっかー」と言いながら義兄さんは俺の肩に手をまわしてきた。そして俺の顔をその細い目でじっと見た。
「ね、その相談、俺にのらせてよ」
「え」
そして義兄さんは、そんなことを言うのだった。
俺の返事を待たずに、というかたぶん聞く気がないのだと思うけれど、義兄さんは俺の肩をぐいぐいと押して強引に歩き出そうとする。俺はそれに逆らえずに歩き出してしまう。義兄さんはどこへ行くつもりなのだろう。
「まあほら、男同士の方が話しやすいこともあるでしょ?俺としてもこんなに落ち込んでる義弟を放っておけないしさ、ね、どっか落ち着ける喫茶で話を聞いてあげたいんだよ」
「でも義兄さん、仕事は」
「忘れ物を取りに戻るって言ってあるし、今は忙しくないし、平気平気、それに言ったでしょ?落ち込んでる義弟を放っておけないってさ、俺の部下も野暮じゃないからそう言えば許してくれるって」
義兄さんは笑ってそう言うけれど、半分は俺をだしにして仕事をさぼる時間をのばそうとしているのだ。そうでなければこんなに強引に俺を連れていこうとはしない。こういうところはわかりやすい義兄だ。まあ、半分は、本当に俺のことを心配して言ってくれているのだろうけれど。
義兄さんに仕事に戻ってもらわなくてはいけないのだと理性は言うのだけれど、体はただ義兄さんがぐいぐいと肩を押すのに負けてしまっている。結局義兄さんを押しのけることができないまま、俺はとある喫茶の片隅にある席に座らされているのだった。
席に座ってから少しの間、義兄さんは何も話さなかった。俺も、どう会話を切り出せばいいのかわからずうつむいて黙っていると、少ししてこちらの席に近づいてくる気配に気が付いた。顔をあげると、老紳士といった佇まいの男性がコーヒーを運んできてくれたところだった。男性は何も言わず、静かな動作でそれを義兄さんと俺の前に置くと、少しだけ頭を下げてから戻って行った。
義兄さんが置かれたカップを持ち上げてコーヒーをすする。視線で俺にも勧めてきたので、俺もいただくことにした。
あ、おいしい。
「で、相談って?まあ、たぶん恋のことだろうけど」
カップをソーサーに戻した義兄さんは、やはり俺の図星をついた。
「ええと、その、まずはどこから話したらいいのか」
「そうだね、俺がニーナから聞いてる話は、ランスリッドが初めて恋をして、奇跡的にその相手ともう一度会うことが出来た、けれど彼女には想い人がいたからランスリッドは諦めた…と、そこまでかな」
俺は思わず義兄さんを凝視していたらしい。目が合った義兄さんは、にこりと笑った。
「ニーナがね、ランスリッドからもらった手紙を見せながら話してくれたんだよ」
たしかに、もう一度掃除屋さんと会えたことを姉さんに手紙で伝えたのは事実だ。それからというもの、姉さんからそれからどうなったのか知らせてほしいと催促の手紙を何度ももらって、いろいろと気持ちの整理がついたころにようやく姉さんに手紙を書いたことも事実だ。
まさか、その手紙の内容が義兄さんにまで伝わっているとは思わなかったけれど。なんというか、恥ずかしい。
「最後の手紙をもらったときなんかはニーナ、とても心配しててね、でもほら、ニーナは叶わない恋をしたことがないから、かける言葉がわからなくて返事が書けないって、申し訳なさそうにもしてたよ」
「姉さんが…そうですか」
心配してくれていたのか。そちらのことに関してはもう大丈夫だと、姉さんに手紙を書こう。それか、会えれば話そう。
「でも、今のランスリッドが悩んでるのは失恋のことじゃなさそうだね」
なぜ、義兄さんは何度も俺の図星をつくことができるのだろう。俺はそんなにわかりやすいかな。
義兄さんが「それで?どんなこと?」と言って促すので、俺は話すことにした。
アンさんのことは名前を出すのはなんとなく恥ずかしい気がしたので、ある女性と言うことにして話し始める。
はじめは、いつもと雰囲気の違うその人から目がはなせないなと、ぼんやり思っていた程度だったこと。ぼんやりと見つめていると、もっとその人のことを知りたいと思い始めたこと。その人から褒められて、いつもとは違う嬉しさを、充実感を感じたこと。その人の、いつもとは違う笑顔を、自分を強く見せようとする弱い笑顔を見てしまったこと。それが、俺の胸をぎゅうとしめつけたこと。そんな顔を見て、俺は、その人の力になりたいと強く思ったこと。そして、俺を頼って欲しい、他の誰でもない俺を、そんなわがままで、傲慢な気持ちが湧き上がってきてしまったこと。
義兄さんは俺の話を、うんうんと相槌をうちながら聞いてくれた。
「こんな気持ちはまるで」
「恋、してるみたいだって?」
義兄さんの言葉に、思わず息をのんでしまう。そんな俺を余所に、義兄さんは穏やかに笑ってからコーヒーを一口すすった。
「ランスリッドはずっと、誰かのために生きてきたから、その人の力になりたいって気持ちは何も特別なことじゃないかもしれないね、でも」
義兄さんはカップをソーサーに戻しながら、おかしそうに笑った。
「はは、やっぱり姉弟だなあ、ランスリッドがそういうわがままな気持ちを抑えられないんだったら、それはきっと、恋だよ」
恋。
「恋なんてけしてキレイなだけの感情じゃないんだよ、わがままで自分勝手、だから相手を傷つけることもあって、でもランスリッドはちゃんとそれをわかってる」
義兄さんが小さな声で、「俺と違ってね」とつぶやいたのが聞こえた。どういう意味だろうと思ったのだけど、いつものように笑う義兄さんにそんなことは聞けないのだった。
「だから怖がらないでいいと思うな、まあ、決めるのはランスリッドだけどね」
義兄さんの言葉は、不思議と俺の気持ちを落ち着かせてくれた。今なら、このわがままな気持ちとちゃんと向き合うことができる。そう、思えたのだった。
「義兄さん、ありがとうございます」
「あはは、俺こそ、仕事さぼってゆっくりできたことにお礼を言わないとね」
あっ、そうだ、義兄さんは今仕事をさぼっている最中なのだった。仕事へ戻るよう促さなくては。そう思って口を開こうとしたとき、義兄さんの背後にいつの間にか立っていた影に気が付いたのだった。そしてその影が、俺よりも先に口を開いた。
「ディースバッハ様、お話は済みましたか」
「うおっ!?」
義兄さんが気を抜いていたのか、背後に立った女性が気配を消していたからか、義兄さんは思い切り肩を跳ね上げて驚いた。後ろを振り返った義兄さんがどんな顔をしたのかはわからないけれど、大きくついたため息からその表情が想像できた。
「うわあミセス・グーリーン…いつからいたの」
「それはディースバッハ様の背後に、という意味でしょうか?それともこの店に、ですか?」
「うん、後者で」
「…機密事項です」
「まさかの」
少しだけ気の弱そうな、背の低いその女性はその口ぶりから察するに義兄さんの部下なのだろう。
「あの、すみません、俺のせいで」
「あっいえ、カーマイン様はお気になさらず、全ての非はディースバッハ様にありますから」
「ねえミセス・グーリーン、君ってちょっと性格変わったよね、俺に対してやけに辛辣というかそういうところ夫婦で似なくてもいいのになあ」
「さっ参りましょうディースバッハ様、オードさんもお待ちかねですよ」
「あれ、ねえ、俺の言ってること聞いてもらえてるかな?ねえ?」
うん、部下、なのは、間違いないと思うのだけど。
結局その少しだけ気の弱そうな、背の低い女性は義兄さんの必死な「ねえ」という呼びかけに一切答えることなく義兄さんを連行して、ごほん、連れて帰っていったのだった。




