表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/84

 掃除屋さんの様子がおかしい、と気が付いたのは掃除屋さんが熱を出した翌日だった。

 掃除屋さんはよく、ほうきやはたきを落としてしまうようになったのだった。疲れが出てしまっているのだろう、そう思っていた。事実、心配して声をかけると掃除屋さんもそう言っていたのだから。

 けれど残すところ2日となったころ、状況は変わった。



「掃除屋さん、どうされました」

「え、あ」



 声をかけた掃除屋さんは、明らかに顔色が悪い。それなのに「すいません」とだけ言って、何事も無かったかのように作業へ戻って行った。疲れているだけではない、なにか、掃除屋さんを落ち込ませる明確な理由があるのだ。

 けれどきっと、それは、俺には打ち明けてもらえないことだろう。

 たとえ打ち明けてもらえたとしても、俺では力になれない。掃除屋さんを、笑顔にすることはできないのだ。

 俺に出来ることといえば、こっそりアンさんにいわしハンバーグを用意してもらうことぐらいだった。

 それから、もう一つ。



 手のひらの紙切れを、くしゃりと握った。

 耳に当てた受話器から聞こえる呼び出し音に、緊張してしまう。つばを、ごくりと飲んだ。

 ガチャリと音がして呼び出し音が途切れた。いよいよ、だ。



『はい、マーリン・グロブリです』



 この人が。



「あの、自分はランスリッドと申します、本部で、掃除屋さんの仕事の補佐をしています」



 そう言うと、受話器からは驚いたような「はい」という返事が聞こえてきた。



「それで、電話をしたのは、仕事の話ではないのですが」

『と、言いますと』

「掃除屋さんのことで、お願いがありまして」

『お願い?』



 すう、と息を吸った。



「掃除屋さんの様子が、ここ数日おかしいんです、とても、落ち込んでいるようで元気が無いんです」


 電話の向こうで息をのむ音が聞こえた。



「でも自分には何も打ち明けてはくれないし、そうでなくても自分ではダメなんです、掃除屋さんを、笑顔には、できません」


 言いながら、自分の胸がぎゅうとしめつけられるのがわかった。俺は今、苦しいのだった。俺では無理だ、掃除屋さんを、笑顔にすることはできない。それを言葉にするのはとても辛いことだった。それでも俺は今、言葉にして伝えなくてはいけない。だって、だから。



「駐在さんじゃないと、ダメなんです」



 掃除屋さんを、笑顔に出来るのは、この人だけなのだ。



「だから、どうか明日にでも、掃除屋さんに会いに来てあげてください、お願いします」



 数秒間の沈黙ののち、受話器から声が聞こえた。



『ありがとうございます、伝えてくれて』



 それは思いがけない言葉だった。

 そんなこと、言われるなんて思ってもいなかった。だって俺は。



「…いえ、自分が、掃除屋さんの落ち込んだ姿を見るのが、辛いというだけですから」

『それでも礼を言わせてください、あいつのことを見ていてくれて、ありがとうございます』



 ああ、この人に、俺は勝てない。受話器から聞こえる声に、そう思った。

 なのに苦しかった胸は、すうと楽になった気がした。なにかつかえていたものがすとんと落ちていったような。落胆ではなかった。言葉で言うとしたら、喪失感、かもしれない。



『明日の朝一番に、そちらに向かいます』



 そう聞こえてくる声に返事をするが、正直から返事だったと思う。「失礼します」と言って電話を切るまでの事は、あまり覚えていない。

 受話器を置くと、途端に、喪失感、を強く感じた。胸に、ぽっかりと穴が開いてしまったようだ。

 掃除屋さんの顔が頭に浮かんだ。いつか見た、とても嬉しそうな顔をした掃除屋さん。ああ、そうだ、すこし用があると言って掃除屋さんを1人で置いてきてしまった。はやく、戻らないと。

 それから次に、なぜだかわからないけれど、アンさんの顔が浮かんだ。

 ああ、そうだ、今日も夕飯の後に、アンさんに会いに行こう。きっと、気分の落ち着く、ハーブティーをいれてくれるはずだ。





 食堂に現れた俺の顔を見て、アンさんは驚いた顔をした。



「どうした、そんな顔して、昼間はそんなんじゃなかっただろ?」



 そんな、顔?俺は今、どういう顔をしているというのだろう。



「まあ、とにかく座って、お茶いれてきてやっから待ってな」



 ああ、やっぱりアンさんはお茶をいれてくれる。アンさんのいれるお茶はおいしい。料理人なのだから当然といえばそうかもしれないけれど、ただおいしいだけではない、なにかがある。なにかこう、ほっとするような、ぬくもりがそこにはあるのだ。

 アンさんの言いつけどおり座って待っていると、ポットとカップを乗せたトレイを持ったアンさんが戻ってきた。そうして俺の、向かいに座る。ああ、ポットの中身は、やっぱりハーブティーだ。もう、いい香りがわかる。

 カップに注がれたハーブティーが俺の前に置かれた。



「まずは飲みなよ、気分が落ち着くから」

「…いただきます」



 湯気の立つそれを一口飲んだ。

 温かい。それからカモミールの香りが広がっていく。肩の力が抜けていくようだ。

 俺はそれを半分ほど飲んで、カップを置いた。



「昼間、電話をしたんです」

「うん、誰に?」

「駐在さん、に」



 アンさんが、息をのんだのが聞こえた。



「掃除屋さんが落ち込んでいるのを見て、駐在さんじゃないと、掃除屋さんを笑顔にできないと、そう思ったんです、電話してみてそれを確信しました」



 自分の胸が、ざわついた気がした。



「俺では、だめだと、この人に、勝てない、と」



 それは、気のせいではなかった。胸がざわついて、苦しくて、それで、のどがつまったようになる。

 ああ、なにか、目の奥にこみあげてくる。これは、これは何だろう。言葉が、出せない。



「ランス」



 手が、ふわりと包まれた。アンさんの手だった。温かくて、優しい、それでいて力強い、手だ。



「こういう時ぐらいね、泣いていいんだよ」



 泣いていい、そうか、俺は、泣いているのか。



「失恋したときは、思い切り泣いたらいいの、それできっとすっきりするから」



 しつれん。

 この気持ちは、しつれん、というらしい。なにか、大切なものを失った気分だった。そうか、あの時感じた、胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感は、間違いではなかった。

 アンさんの言葉通り、俺は泣いた。

 喪失感に苛まれる中、その優しい手だけは失いたくなくて、アンさんの手をぎゅうと握ったまま俺は泣いた。泣いて、泣いて、思い切り泣いて、気が付いたときには時計の針がてっぺんを指していたのだった。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ