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掃除屋さんの様子がおかしい、と気が付いたのは掃除屋さんが熱を出した翌日だった。
掃除屋さんはよく、ほうきやはたきを落としてしまうようになったのだった。疲れが出てしまっているのだろう、そう思っていた。事実、心配して声をかけると掃除屋さんもそう言っていたのだから。
けれど残すところ2日となったころ、状況は変わった。
「掃除屋さん、どうされました」
「え、あ」
声をかけた掃除屋さんは、明らかに顔色が悪い。それなのに「すいません」とだけ言って、何事も無かったかのように作業へ戻って行った。疲れているだけではない、なにか、掃除屋さんを落ち込ませる明確な理由があるのだ。
けれどきっと、それは、俺には打ち明けてもらえないことだろう。
たとえ打ち明けてもらえたとしても、俺では力になれない。掃除屋さんを、笑顔にすることはできないのだ。
俺に出来ることといえば、こっそりアンさんにいわしハンバーグを用意してもらうことぐらいだった。
それから、もう一つ。
手のひらの紙切れを、くしゃりと握った。
耳に当てた受話器から聞こえる呼び出し音に、緊張してしまう。つばを、ごくりと飲んだ。
ガチャリと音がして呼び出し音が途切れた。いよいよ、だ。
『はい、マーリン・グロブリです』
この人が。
「あの、自分はランスリッドと申します、本部で、掃除屋さんの仕事の補佐をしています」
そう言うと、受話器からは驚いたような「はい」という返事が聞こえてきた。
「それで、電話をしたのは、仕事の話ではないのですが」
『と、言いますと』
「掃除屋さんのことで、お願いがありまして」
『お願い?』
すう、と息を吸った。
「掃除屋さんの様子が、ここ数日おかしいんです、とても、落ち込んでいるようで元気が無いんです」
電話の向こうで息をのむ音が聞こえた。
「でも自分には何も打ち明けてはくれないし、そうでなくても自分ではダメなんです、掃除屋さんを、笑顔には、できません」
言いながら、自分の胸がぎゅうとしめつけられるのがわかった。俺は今、苦しいのだった。俺では無理だ、掃除屋さんを、笑顔にすることはできない。それを言葉にするのはとても辛いことだった。それでも俺は今、言葉にして伝えなくてはいけない。だって、だから。
「駐在さんじゃないと、ダメなんです」
掃除屋さんを、笑顔に出来るのは、この人だけなのだ。
「だから、どうか明日にでも、掃除屋さんに会いに来てあげてください、お願いします」
数秒間の沈黙ののち、受話器から声が聞こえた。
『ありがとうございます、伝えてくれて』
それは思いがけない言葉だった。
そんなこと、言われるなんて思ってもいなかった。だって俺は。
「…いえ、自分が、掃除屋さんの落ち込んだ姿を見るのが、辛いというだけですから」
『それでも礼を言わせてください、あいつのことを見ていてくれて、ありがとうございます』
ああ、この人に、俺は勝てない。受話器から聞こえる声に、そう思った。
なのに苦しかった胸は、すうと楽になった気がした。なにかつかえていたものがすとんと落ちていったような。落胆ではなかった。言葉で言うとしたら、喪失感、かもしれない。
『明日の朝一番に、そちらに向かいます』
そう聞こえてくる声に返事をするが、正直から返事だったと思う。「失礼します」と言って電話を切るまでの事は、あまり覚えていない。
受話器を置くと、途端に、喪失感、を強く感じた。胸に、ぽっかりと穴が開いてしまったようだ。
掃除屋さんの顔が頭に浮かんだ。いつか見た、とても嬉しそうな顔をした掃除屋さん。ああ、そうだ、すこし用があると言って掃除屋さんを1人で置いてきてしまった。はやく、戻らないと。
それから次に、なぜだかわからないけれど、アンさんの顔が浮かんだ。
ああ、そうだ、今日も夕飯の後に、アンさんに会いに行こう。きっと、気分の落ち着く、ハーブティーをいれてくれるはずだ。
食堂に現れた俺の顔を見て、アンさんは驚いた顔をした。
「どうした、そんな顔して、昼間はそんなんじゃなかっただろ?」
そんな、顔?俺は今、どういう顔をしているというのだろう。
「まあ、とにかく座って、お茶いれてきてやっから待ってな」
ああ、やっぱりアンさんはお茶をいれてくれる。アンさんのいれるお茶はおいしい。料理人なのだから当然といえばそうかもしれないけれど、ただおいしいだけではない、なにかがある。なにかこう、ほっとするような、ぬくもりがそこにはあるのだ。
アンさんの言いつけどおり座って待っていると、ポットとカップを乗せたトレイを持ったアンさんが戻ってきた。そうして俺の、向かいに座る。ああ、ポットの中身は、やっぱりハーブティーだ。もう、いい香りがわかる。
カップに注がれたハーブティーが俺の前に置かれた。
「まずは飲みなよ、気分が落ち着くから」
「…いただきます」
湯気の立つそれを一口飲んだ。
温かい。それからカモミールの香りが広がっていく。肩の力が抜けていくようだ。
俺はそれを半分ほど飲んで、カップを置いた。
「昼間、電話をしたんです」
「うん、誰に?」
「駐在さん、に」
アンさんが、息をのんだのが聞こえた。
「掃除屋さんが落ち込んでいるのを見て、駐在さんじゃないと、掃除屋さんを笑顔にできないと、そう思ったんです、電話してみてそれを確信しました」
自分の胸が、ざわついた気がした。
「俺では、だめだと、この人に、勝てない、と」
それは、気のせいではなかった。胸がざわついて、苦しくて、それで、のどがつまったようになる。
ああ、なにか、目の奥にこみあげてくる。これは、これは何だろう。言葉が、出せない。
「ランス」
手が、ふわりと包まれた。アンさんの手だった。温かくて、優しい、それでいて力強い、手だ。
「こういう時ぐらいね、泣いていいんだよ」
泣いていい、そうか、俺は、泣いているのか。
「失恋したときは、思い切り泣いたらいいの、それできっとすっきりするから」
しつれん。
この気持ちは、しつれん、というらしい。なにか、大切なものを失った気分だった。そうか、あの時感じた、胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感は、間違いではなかった。
アンさんの言葉通り、俺は泣いた。
喪失感に苛まれる中、その優しい手だけは失いたくなくて、アンさんの手をぎゅうと握ったまま俺は泣いた。泣いて、泣いて、思い切り泣いて、気が付いたときには時計の針がてっぺんを指していたのだった。




