Rose & Crown
閉店まであと30分。それなのに、足が勝手に店へ向かっていた。
ROSE & CROWN――看板には、薔薇と王冠の絵が描いてある。
ガラス扉を開けると、ベルがちりんと鳴る。俺は制服のブレザーのまま、ネクタイも外さずに来てしまった。
「いらっしゃいませ。あの、お客様、あと30分で閉店ですが……」
奥から出てきた店員さんが、ちょっと驚いた顔をした。
栗色の髪、青い目、長身のイケメン外国人。二次元から出てきたみたいな人だ。
「あ、わかってます。紅茶だけでいいんで。ダージリン、ストレートで」
少し焦って言うと、空いてる席にすとんと座った。
「かしこまりました」
——この人、見覚えある。前にお母さんと来た時の人だ。
「お待たせいたしました。ダージリンです。こちらのカップは、1910年頃のコールドンの品になります」
金色の花と蔦模様、エンボス加工の太い金縁。うっとりするくらい優美で、こんなのが日常的に紅茶のために使われてるのが少し不思議だった。
黄金色の紅茶をしばらく眺めてから、ハンドルをそっとつまんで、静かに口に運んだ。
飲み終わってからも——カップをくるりと回して、裏側の模様を確認する。縁の装飾を指でなぞる。また見つめる。
——なんでこんなに気になるんだろう。
家にも似たようなカップはあるはずなのに、今まで一度もこんな風に見たことがなかった。気づいたら時間を忘れてた。カップと自分だけの世界みたいな感覚。
閉店5分前。他の客はもう全員いなくなっていた。
伝票を持った店員さんが近づいてくる気配がした。
——あ、まずい。
「あの、お客様……」
「あっ!もう閉店ですよね、すみません!」
慌てて立ち上がろうとした。
「いえ、ゆっくりしていただいて大丈夫ですよ。そうではなくて……カップ、お好きなんですか?」
「……え?は、はい。好きです……けど」
正直に答えるのが少し恥ずかしかった。普通そんなにじっくり見ないよな、と自分でも思う。
なのに、その瞬間、店員さんの表情がぱあっと明るくなった。
「やっぱりそうですか!真剣に見てくださってたので。お母様とご一緒の時もそうでしたね」
そう言われると、なんだか照れくさくて視線を逸らしてしまった。
「変わってますよね……母が洋食器好きで、家にたくさんあるんです。この前は無理矢理連れてこられて。……でも、ここのは、うちのと全然違って、衝撃だったんです。このカップの縁とか、すごく凝ってて——なんかパワー感じるって言うか……」
「わかる?!」
急に敬語が外れた。店員さんの方が嬉しそうに食いついてきたのが意外で、思わず「え……」と声が漏れた。
「この金縁はね、アシッドゴールドっていって——型紙を貼ってから特殊な液で釉薬を溶かして、浮き出た模様に金を塗っているんだ。金の色が落ち着いてるのは、純度が高い証拠なんだよ」
「へぇ〜!そうなんですか!」
知らなかった。そういう理屈があるって聞くと、急にカップの見え方が変わる気がした。
「職人が手間暇かけて作ったものだから、込められた思いが伝わるよね。良かったら、他のも見てく?」
「え!いいんですか?」
断る理由なんてなかった。
隣の陶磁器&紅茶占いコーナーでは、ちょうど別の店員さんが最後の客を見送ったところだった。
「あれ?お客さん?」
別の店員さんが声をかけてきた。ダークグレーの髪を無造作に流した、彼とはタイプの違う今っぽい雰囲気の人だった。こっちも二次元から出てきたみたいだな、と思う。
「ああ、興味があるみたいで。ゆっくり見せてあげようと思って」
「へぇ〜、男の子なのに珍しいね。中学生?」
「高校一年生です。……まだ伸びてますから」
——背が低いのいじられた。地味に効く。
「俺にも君と同じくらいの弟がいるよ」
最初に対応してくれた店員さんが微笑む。
「そうなんですね」
アンティークの磁器が並ぶショーケースの前に立つと、つい顔がガラスに近づいた。手描きの絵付けが施された華やかな作品たちが、ずらりと並んでいる。
「すげーな……この紋章、どうやって描いたんだろ。筆だよな? 超正確で超繊細。こっちの薔薇なんて、描き順どうなってんだ……?」
ひとつひとつ食い入るように見ていたら、自然と口から呟きが漏れていた。
そして、気づいたら自分から言ってしまった。
「あの、お願いがあるんですけど——俺、ここでバイトさせてもらえませんか」
「「ええ!?」」
二人の声がぴったり重なって、本気で驚かれてるのがわかった。でも言い出したら止まらなかった。
「バイトが無理ならボランティアでもいいんで。もっといろいろ知りたいです。お願いします!」
頭を下げた。勢いで言っちゃったけど、後悔はしてない。
二人がちらっと顔を見合わせて、何か相談してるような空気が伝わってくる。聞こえたわけじゃないけど、たぶん「どうする?」みたいなことを話していたんだと思う。
「え〜と……学校があるからあんまり来られないよね。時間がある時にお手伝いっていうのはどう?紅茶とおやつは賄いで出すから」
最初の店員さんが遠慮がちに言ってくれた瞬間、思わず顔がぱっと熱くなった。
「本当ですか!ありがとうございます!俺、石野湊って言います。よろしくお願いします!」
「石野君。よろしくね。俺はミーキン、彼はリッジウェイって呼んで」
もう一人の店員さんが柔らかく笑った。
「俺はショップの方で物販と紅茶占いをしてて、リッジウェイはティールームで調理とウェイターをしてる。けど、まあ、仕事は臨機応変で」
リッジウェイさん、ミーキンさん——心の中で繰り返して、ちゃんと覚えておくことにした。
「じゃあ早速——君が使ったカップ、洗うの手伝う?」
「はい!」
キッチンのシンク横には、使用済みのカップや皿が並んでいた。
リッジウェイさんはゴム手袋をはめて、スポンジに洗剤を含ませてしっかり泡立てた。
「100年以上経ってないヴィンテージの食器は、普通の食器と同じように洗って大丈夫だよ。」
「ヴィンテージって、さっきのカップより重厚感ないですね」
——自分で言って、ちょっと得意になった。さっき教わった単語、もう使えてる。
「素材が丈夫になってるし、装飾が比較的シンプルだからね」
手際よく洗って、皿立てへ。
「さて、次は君が使ったアンティークの方だけど」
リッジウェイさんはシンクにマットを敷いて、手袋を外した。スポンジの泡を手ですくって、カップを撫でるように丁寧に洗っていく。
「マットは落として割れるのを防ぐため。スポンジより手洗いの方が優しく洗えるんだ。やってみる?」
「はい!」
横には三人分のカップが並んでいた。
「口紅……」
——さっきの女の子たちが使ったやつだ。
思わず顔が赤くなった。
リッジウェイさんはふふっと笑った。
「口紅は指でくるくる、泡と馴染ませてね」
「……はい」
しばらく無言で、作業に集中した。そして無事に終了。
「うん、上手に洗えたね。昔の貴族のお屋敷では、高級品の磁器は専用の木製のシンクで、男性の使用人が洗ったんだ。執事の監視付きでね」
「そうなんですか」
「うっかり割ると一年分の給料が吹っ飛んじゃうからね」
「ええ~怖え~」
——気をつけよう、本当に。
食器を拭きながら、つい聞いてみた。
「どう扱えばいいかわからなくて怖かったけど、ちょっとハードル下がりました」
「そう?良かった」
「お店のカップって柄も年代もバラバラじゃないですか。いつもお客さんには、どうやって出してるんですか?」
「そうだね……服の好みや雰囲気に合わせたり、大きな指輪してる人には当たっても傷がつかないように丈夫なカップにしたり、ケースバイケースかな」
「注文取る時にそこまで観察してるんですか!?」
——そんなこと考えながら接客してるなんて、思わなかった。
「うん。あと、常連さんなら、毎回違うカップを出して反応を見て次を決めたりとか。嬉しそうな顔してくれると——やった!って思うよ」
「は〜……すげー……」
純粋にすごいと思った。こういう仕事、初めて知った。リッジウェイさんは目を細めて、ふふっと笑った。その時、ジャケットを羽織ったミーキンさんがキッチンを覗き込んだ。
「じゃ、出かけてくる。今日は遅くならないよ」
「ああ、後で」
「石野君、またね」
ニッコリ手を振って、ミーキンさんは店を出た。
リッジウェイさんと一緒に、拭いたカップをしっかり乾かすために上向きに並べていく。
「これでよし。お疲れ様。君ももう帰っていいよ」
「はい!ありがとうございました。また明日来ます!」
店を出る時、もう一回振り返った。
閉店後のティールームが、来た時よりキラキラして見えた気がした。




