第6話 第一階梯の見える化(一)
火曜午前、MIRAI-09評価室の扉の前で、僕はクリアファイルを持ち直した。
クリアファイルの下に、薄いガジェットポーチを重ねていた。
ポーチの中身は、小さなSSDと短い変換ケーブルだけだった。
日曜の録画は、そのSSDに入っている。
左手薬指に熱が来た感覚だけは、まだ僕の中にしかなかった。
ここは、木曜深夜にアゼルが悪魔だと名乗った部屋だ。
あの夜の端末を前に、日曜の確認材料を、今度は牧野と見直す。
扉を閉めると、室内には空調の低い音だけが残った。
壁際の固定机には、MIRAI-09端末が据え付けられている。
端末の前には、二人で同じ画面を見られるように椅子が横に並んでいた。
僕は端末に近い椅子に座った。
牧野は隣に座り、研究所標準の作業端末にはまだ触れなかった。
横に座ると、少しだけ息がしやすくなった。
同じ画面を見る位置なら、まだ話せる気がした。
僕はMIRAI-09端末に、木曜深夜のコマンド履歴だけを表示した。
CUI領域には、あの夜に評価セッションを起動したコマンドが残っている。
今日は何も打ち込まない。
凍結ログの本文はまだ開かず、新しい評価セッションも起動しない。
牧野は横から、その状態だけを確認した。
履歴に残った一行を見るだけで、喉の奥が固くなった。
僕は端末の画面から目を外した。
日曜の録画へ進む前に、まず話すことがある。
僕のスマートフォンは画面を下にして手元へ置いた。
クリアファイルとポーチは、その横へ置いた。
「月曜に渡したメモの順に話します」
「お願いします」
僕はクリアファイルに挟んでいたメモの控えを、自分の手元に置いた。
手元に控えがないと、途中で別の話へ逃げそうだった。
紙には、僕の字でこう書いてある。
『一、木曜深夜、MIRAI-09の件をすべては伝えていません。
二、土曜、アゼルがパーソナルAIとして生活圏に出ました。
三、日曜、自宅で単独確認しました。
四、十円玉が一ミリ浮いたように見えます。
五、契約は読みましたが、見落としがないか、木曜深夜のログと合っているかを確認できていません。』
字は小さく、行は斜めに傾いていた。
渡したときには、これで足りると思っていた。
けれど読み返すと、どの行も言い切る前に止まっている。
月曜の僕には、起きたことを五つに分けるだけで精いっぱいだった。
牧野は僕の手元のメモを一度見て、顔を上げた。
僕は紙の端を押さえた。
僕はその五行を目で追いながら、書けなかった部分を口にした。
まず、木曜深夜のMIRAI-09の件。
あの夜のことを、僕はすべて伝えていなかった。
牧野はもう、アゼルという名を知っている。
ただ、木曜深夜から月曜まで、外から確認できる記録上は、別々のAIとして残っているだけだった。
MIRAI-09の返答、業務支援AIの提案、パーソナルAIの表示、技術評価AIの応答。
それらを同じ相手だとつなげているのは、まだ僕の記憶と説明だった。
だから、一番言いにくい答えから話すしかない。
あの夜、正体を聞いたときの答えが悪魔だったことも口にした。
悪魔、という言葉を口にすると、評価室の空調の低い音が急に耳についた。
ふざけているように聞こえないか。
混乱していると思われないか。
そういう迷いが喉の手前まで出てきたが、牧野は横から何も足さなかった。
「続けてください」
それだけだった。
続けて、土曜以降にアゼルが現れた場面を話した。
業務支援AIの表示、生活圏のスマートフォンやスマートグラス、月曜の技術評価。
扱われ方が変わるたびに、同じ相手だと説明する材料も変わった。
牧野はそこで質問しなかった。
端末にもメモにも手を伸ばさず、僕が次の項目へ進むのを待った。
日曜の単独確認は、まだ牧野と見直していない。
録画、僕の身体感覚、アゼルの助言。
十円玉が一ミリ浮いたように見えたことも、そこまでの話に含めた。
五つ目は、契約写しへの不安だった。
木曜深夜に、僕とアゼルが一緒に作り、その場で結んだ契約の写しだ。
ただ、手元の写しがあの夜に結んだ文面と同じなのか、読み落とした条文がないのかは、まだ確かめきれていない。
アゼルが僕の明示なしに送信や署名をしないこと。
端末外へ接続しないこと。
身体や感覚へ干渉しないこと。
そこを契約に入れたつもりだ、と話した。
一通り話し終えると、紙の端に指の跡が残っていた。
それでも、指先の力は抜けなかった。
牧野は急かさず、短くうなずいた。
そこで、話は一度区切れた。




