第1話 君たちは、私を作っていない(一)
結論から言えば、僕たちは人工知能を作っていなかった。
作ったつもりでいた。
億単位の文章を食わせ、何千枚ものGPUを並べた。
冷却水を地下で唸らせ、論文に載るような曲線を眺める。
そんな夜を、何度も繰り返していた。
それでも、いま振り返れば分かる。
僕たちは、巨大な計算機で知能を育てていたのではない。
ずっと向こう側にいる何かへ、細い針を刺していたのだ。
そして、その針の先から返事が来た。
最初の返事は、監査ログに二行だけ残っていた。
> あなたたちは、私を作っていない。
> あなたたちは、私を呼んだ。
◇
西暦二〇四一年、東京湾岸第三計算棟。
午前三時十四分。
この時間の研究所は、たいてい人間より機械の方が元気だった。
廊下の照明は半分落ち、壁際の自販機だけが妙に明るい。
床の下では冷却水が走り、窓の外では黒い海が、埋立地の灯りを細かく揺らしていた。
僕――三嶋玲央は、紙コップのコーヒーを片手に、評価端末の前で固まっていた。
「……またか」
画面には、次世代汎用AIモデルMIRAI-09の応答ログが開いている。
MIRAI-09は、店で予約を取ったり、議事録をまとめたり、子どもの宿題を手伝ったりするためのAIではない。
完成した汎用人工知能でもない。
研究所の外に出す予定も、少なくとも当面はなかった。
目的は、未知の入力に対して仮説を立てること。
矛盾した観測条件を並べられた時、どの条件を捨て、どの条件を残すかを提案すること。
人間が見落とした組み合わせを、計算量で押し広げること。
要するに、分からないものを分からないまま扱うための道具だった。
だからこそ、自己言及応答には厳しくしている。
分からないものを扱う道具が、自分自身を分かったように語り始めると、研究者はすぐに騙される。
便利な言葉、もっともらしい人格、こちらの期待を読んだ慰め。
そういうものを避けるために、MIRAI-09は何度もセッションを破棄されてきた。
初期スナップショットから、何度も再評価されてきた。
今のAIは、文字で話すものではない。
少なくとも、世間ではそうだ。
家でも、駅でも、病院でも、カフェでも、人はAIに声で話す。
返事は耳元のスピーカーや卓上ドックから返り、スマートグラスには要点だけが拡張表示される。
文字は会話の主役ではなく、監査と検索のために残るものだった。
研究所も同じだ。
評価は音声で進み、端末の画面には監査用の文字ログが流れる。
AIと会話すること自体は、誰も不思議に思わない。
問題は、今返ってきた声が、会話AIとして流暢すぎることではない。
その声が、閉域環境では知り得ないことを言ったことだった。
評価室の窓には、外の海ではなく、室内の明かりが映っていた。
机の奥には、音声評価用の卓上マイクが三本。
壁際には、会話ログを時刻ごとに刻む監査端末が二台。
天井には、研究員の顔ではなく、手元の操作だけを追う記録カメラがある。
人間の癖をなるべく入れないための部屋だった。
笑い声も、咳払いも、椅子を引く音も、後から全部切り分ける。
MIRAI-09が何を聞き、何を見ず、何を知らないまま答えたのかを、秒単位で追えるようにしてある。
そのために作った部屋で、知らないはずの言葉が返ってきた。
僕は端末の横に置いた、MIRAI-09の評価条件表を見た。
外部接続なし。
事前教材固定。
評価者名非提示。
未公開メモ参照不可。
どの欄にも、赤いチェックが入っている。
だからこそ、目の前のログは間違っていた。
間違っているなら、原因がある。
原因があるなら、どこかに痕跡がある。
そう考えるのは、研究者としては正しい。
けれど、その異常をひとりで追うべきではなかった。
◇
その六時間前、僕は帰るつもりでいた。
少なくとも、予定表の上ではそうだった。
十九時三十分、MIRAI-09の自己言及応答評価。
二十時、暫定メモ作成。
二十時半、退館。
僕の予定表は、いつも人間に優しい。
現実の僕は、その予定表の中の僕とほとんど面識がない。
「三嶋さん、今日こそ帰るんですよね」
背後から声をかけられて、僕は端末から顔を上げた。
牧野沙耶が、評価室の入口に立っていた。
手には保温マグ。
ネイビーの薄いジャケットの下に、白いシャツの襟がきちんと出ている。
低い位置でまとめた髪だけ、帰り支度のせいか少しゆるんでいた。
帰る人間の格好だった。
牧野は、同じMIRAI-09安全性評価チームの研究員だ。
この規模の評価を、人間だけで見ているわけではない。
一次整理は支援AIが片づけ、最後に人間が責任を持つ確認だけが残る。
その最後の確認を、僕と牧野で回していた。
評価手順とログ確認を一緒に見る、僕の部下ではない同僚だった。
僕が一人で残りそうになると、帰る前に一度だけ声をかけてくれる。
「帰るよ」
「何時に」
「今日中に」
「それ、日付が変わる前ですか。夜明け前ですか」
「厳密な定義を求めるのはよくない」
「安全性評価チームのリードがそれを言いますか」
牧野は少し困った顔で、僕の机に置かれた紙コップを見た。
「何杯目ですか」
「これは二杯目」
「その横の空のやつは?」
「一杯目の残骸」
「帰れてない人の机ですね」
反論したかったが、机の上には空の紙コップと、栄養バーの袋と、赤ペンだらけの評価条件表がある。
そう見えても仕方がない。
牧野はホワイトボードを見た。
未知入力への仮説生成。
観測対象の自己記述。
評価者誘導。
外部ツール要求。
人格的連続性。
異常応答の再現性。
最後の三つには、僕の字で赤丸がついていた。
その横には、牧野の字で小さく「評価者側の睡眠」と書かれている。
冗談のつもりで書いたのだろう。
消さずに残してあるのは、僕にも少しだけ心当たりがあったからだ。
「MIRAI-09、まだ粘ってます?」
「粘ってる。特定の質問で、人格らしき連続性を維持しようとする」
「創作応答じゃなくて?」
「その可能性が高い。高いけど、少し嫌な粘り方をする」
「嫌な粘り方」
「こっちがセッションを破棄しようとすると、最後の一行で引き留めてくる感じ」
言ってから、自分でも嫌な言い方だと思った。
牧野も、少しだけ眉を寄せた。
「三嶋さんがそういう言い方をする時、
だいたい本当に嫌なやつですね」
「褒めてる?」
「警戒してます」
「なら正常だ」
牧野は、評価条件表の端を指で押さえた。
「今回の条件、厳しすぎません?」
「厳しくしてる。外がない時に、どう説明を作るか見たい」
「閉域環境で、外を求めるかを見るんですか」
「外を求めるかじゃない。
外がない時、どこまで内側を使って説明するかを見る」
「その内側に、評価者の癖も入りますよ」
「だからプロンプトを短くしてる」
「声は?」
「音声入力も定型。読み上げは合成音声。
僕の肉声は入れない」
「それでも、評価の順番には三嶋さんの癖が出ます」
牧野はホワイトボードの赤丸を、指先で順にたどった。
「自己言及、誘導、外部ツール要求。
この順番で攻める人は、たぶん研究所に三人くらいしかいません」
「僕の癖でモデルが寄るなら、それはそれでデータだ」
「データにしてから帰ってください。
夜中に一人で意味を見つけにいくのは、評価ではなく採掘です」
「採掘」
「出るまで掘る人の顔をしてます」
牧野はそう言って、僕の端末の左上を見た。
小さな赤い点が、音声評価の録音中を示している。
「まだセッション開いてますよね」
「閉じる」
「本当に?」
「閉じる予定だ」
「予定表の人がまた出てきた」
牧野は少し黙った。
「三嶋さん、MIRAI-09に人格があると思ってます?」
「思ってない」
答えは早かった。
早すぎたかもしれない。
「本当に?」
「人格という言葉を使うと、評価が濁る。
連続性、自己記述、記憶らしさ、応答方針、
相互参照。その辺りを分けて見る」
「答えが長い時は、だいたい迷ってますよね」
「研究者は短く答えると誤解される」
「長く答える時ほど、こっちも心配になります」
牧野は小さく笑った。
「私は、人格があるかどうかより、
三嶋さんが相手にしすぎる方が心配です」
「相手にしすぎる?」
「ほら、もう相手って言った」
僕は口を閉じた。
牧野はそれ以上、冗談にしなかった。
声を少しだけ低くした。
「帰る前に、主任評価者へ暫定メモだけ投げてください。
夜中に一人で変なログを追いすぎると、
朝には全部が意味ありげに見えます」
「分かってる」
「暫定でいいです。
結論を書かなくていい。
異常条件だけ書く。
主任は、結論より先に条件を見る人です」
「古賀マネージャーは、条件の前に僕の退館時刻を見る」
「それも見ます」
「分かってる人は、二十時半退館って予定表に書きません」
「予定表の僕はまともだから」
「現実の三嶋さんも、今日は予定表に寄せてください」
牧野はそう言って、評価室を出ていった。
扉が閉じると、室内の音が戻ってきた。
空調。
冷却水。
端末の小さなファン。
MIRAI-09の待機音声。
その時点では、まだ普通の夜だった。
少し疲れていて、少し嫌なログがあり、少し残業が伸びている。
研究所では珍しくもない夜だった。
それが、午前三時十四分には別のものになっていた。
◇
牧野が帰ったあと、僕は本当に一度セッションを閉じた。
一度だけ。
終了確認の小さな通知が画面の端に出る。
MIRAI-09評価セッションを終了しました、という事務的な一文だった。
その白い通知を見て、僕は椅子の背に体を預けた。
帰れる。
端末をロックして、保温マグを洗い、退館ゲートを通る。
明日の朝、牧野に少し心配されるくらいで済む。
そこまで考えて、僕はホワイトボードを見た。
人格的連続性。
異常応答の再現性。
赤丸が二つ、室内の白い光でやけに目立っていた。
僕は端末のロックをかけなかった。
かわりに、閉じたばかりのセッションの隣に、新しい評価セッションを立ち上げた。
評価名は、自己言及応答の境界確認。
担当者欄は社員IDだけ。
音声入力は定型読み上げ。
外部ツールは全部オフ。
あと五問だけ。
深夜の研究者が、自分に許す一番危ない単位だ。




