第21話 天使、先生、汚泥
目を開けて、最初に見えたのは、電灯の小さな明かりに照らされた、天使の顔だった。
「まさか、天国に行けるとは思ってなかったけど、人生、何があるかわからないものね」
いや、死んでるから人生は終わっているのか?
「伶、正気ですか?」
天使が私の名前を読んでくれた。大戦期以来、数え切れない人が死んでいるだろうに、いちいち迎える相手の名前を覚えなくてはならないとは、天使も存外大変なのかもしれない。
「私のこと分かりますか?偲です。伶の、ええっと、私は伶の何ですかね?」
いや、ここはいっそ。あわよくば。などと、偲と名乗った天使が――
「偲!怪我は?」
「大丈夫です。伶が抱きかかえて離してくれませんでしたから」
「よかった……」
「痛みはあります?」
「いや、ぜんぜん、木の枝とか、植物とかがクッションになったんでしょ」
「早く離れたいところですけれど動けますか?」
偲に尋ねられ、ゆっくり時間をかけて、近くの木によりかかりながら立ちあがる。
つま先から頭頂まで、痛みどころか違和感すらない。
「大丈夫、心配ないわ」
「伶、ファンブルじゃないんですよね……?」
偲が訝しげな目を向けているのが暗闇の中でも分かる。
「服よ、服。昨日自分で特別製だって言ってたじゃない」
「あ、確かに。伶、その服を調べさせてもらってもいいですか」
偲が神妙な顔つきで私の襟首に手をかける
「いやいや、落ち着きなさい」
そういって私は指で空を――頭上に空は視えないので正しくは枝葉を――指さす。
「そうでしたね」
私の指指す先を偲が苦々しげに睨みつける。先ほどから表情がころころ変わってみていて飽きないが、それはそれ。
今さっき偲が言った通り、早くここから離れるべきだ。
幸い、近くに『獣』がいるせいか、虫や動物たちの姿は見当たらない。少なくとも、この静けさがなくなるところまで動くべきだろう。
「歩けなくなったらすぐに言いなさい」
そういって私は偲の手を引く。
「伶、方向が分かるんですか?」
「地面の草とか花とかが同じ方向に傾いてるでしょ。その方向が『獣』が来たのとは逆方向になってるはず」
『獣』がやってきたとき、人を除く生き物は『獣』から逃げるように動く。それは植物ですら例外ではない。しばらくすれば元に戻ってしまうが、『獣』が近くにいるかどうかを知る手掛かりの一つだ。
「ううん、生き物が動いた跡、なんでしょうか?」
考察は偲に任せて、私は彼女の手を引いて歩き出す。
「ひとまず西ね。例の果実がもう少ししか残ってないから採りに行きましょう」
鬱蒼と茂った草木の間を、サギリから持ってきた刃物で払い分けながら進んでいく。
「伶、さっきの『獣』とのことですが」
「うん、かなり敵視されてる」
「水を吹いて、物を投げて。器用すぎて獣というより人みたいでした」
「『獣』は『獣』よ。断じて人じゃない。少なくとも一人は喰ってるんだから」
「は、はい」
勢いよく言葉を口にしてしまったせいで、偲がたじろぐ。
「ごめん。ただ、『獣』を人と比べてどうだとかって目線で捉えない方がいいわよ。危ないから」
私だって『獣』と人を重ねれば、重要なときに動きが淀む。傷つけるだけならともかく、止めるときならなおさらだろう。
思えば、駆除屋が人々から嫌われる理由にも、きっと人型という外見は関係しているのかもしれない。
「さて、話を戻すけれど水を吹いたり、物を投げたりっていうのは、ゾウにもできるのよね」
「はい。サーカス、人と動物が器用な芸をして観客を楽しませるところですけれど、そういったところのゾウならできるはずです。けれど、訓練あっての話ですよ」
投げつけられた物を迎撃するために水を吹き、相手の迎撃できない物を投げつける。偲はさきほど人のようだと言っていたが、人間にだってできるかどうかかなり怪しい動きだ。
「でも、学んだことがあるかないかなんて、偲が言っても説得力がないでしょ」
『獣』は人を殺すことに長けている。そういうふうにできている。ああいうふうに、いきなりとんでもない動きを獲得するのは珍しいことではない。もしくは、明確に敵対してはじめてみせただけで、前々からできたのかもしれないが。
「私だって日々学んでいるんですよ、主に体の動かし方とかですけれど」
不服そうに言う偲の足取りの淀みが、昨日よりは少なくなっているのは確かだ。
それでも、元々がひどすぎた。昨日よりもマシになってようやく、私がのんびりと歩くのに追いつける程度といったところである。
「とにかく、飛び道具が向こうにあるっていうのをこの段階で知れたのはよかったわね」
事実上、開けた場所で相対することが不可能になったといってもいい。
けれど、あの『獣』のように身体能力の優れた相手とやるのであれば、開けた場所など、そもそも戦場にはならないのだ。狭い廃墟や林の中なら、それほど飛び道具をおそれる必要はない。
でもまあ、偲が隣にいてくれたのはよかった。強がれる分、思考を止めずに済む。
そんなやり取りを経て、私たちは歩きはじめたけれど、しばらくして問題が生じてしまった。
「うっとおしい!」
「伶、声が大きいです!ゾウの聴力は決して悪くはないんですから!」
「偲の声だってうるさいじゃないのよ……」
西区画に向かって歩いて言った結果、『獣』の影響範囲から逃れることはできた。そして、その結果として、私たちは虫にまとわりつかれる羽目になったのだ。
私も偲も肌を曝しているのは顔だけなので、そこを布で覆ってしまえば、虫の被害はそれほど深刻ではない。ないのだが、手元の電灯に思い切りよく突貫してくる甲虫がうっとうしくて仕方がない。実害がないだけになおさらだ。
「そういえば伶、区画の境界にある壁はどうやって乗り越えるのですか」
「え、通り抜けられるところとかないの?」
「ありますし、知ってますけど、使えるとは限らないですよ?」
「ああそっか。まあ、その時は背負ってよじ登るから」
「私は荷物じゃないです……。いえ、荷物みたいなものですが……」
おぶると言っていたのが、いつの間にか背負うになってしまっていたらしい。
「まあ、偲の仕事はそういうところじゃないから、いいじゃない。それで、どこに行けばいい?」
「橋のすぐ下の壁面に、通り抜けられるところがあるはずです」
「じゃあ、ここから壁に沿ってあるけばいいわけね」
偲が通り抜けられる場所を教えてくれた直後に、草木の奥に人工的な灰色が現れた。
「偲、ちょっと待ってて」
そう伝えてから、ロープの端に輪を作る。そして、手近な木の太い枝の上を通るようにロープを投げ渡す。
よし、成功。枝にひっかかった。ぶら下がっている輪を手に取る。そして、その輪の中にロープの反対側を通す。あとは、輪に通した側をそのまま引っ張れば、輪が枝の方へ上がっていくという寸法だ。
「気を付けて下さいね」
「いつもの仕事なら廃墟を昇り降りしてるのよ?木くらいなら軽いものよ」
出来る限り身体と幹の距離が離れるように、重心を後ろへ。
「さて、と」
身体の具合を確かめる。茂みの中を歩いてきた割には、疲れもない。
足首と手首を回してから、木に足をかけた。
「ふっ」
後ろの足を木にかけ、両足とロープでバランスよく身体を支える。
そのまま、手足を交互に動かして木を登っていく。
「ほいっと」
ロープを固定した枝まで到達したところで、身体を枝の上へと放り投げる。ここからは充分に足場があるから、ロープはいらないだろう。
そのまま木を登っていき、橋の位置を確認する。橋灯のおかげで、それほど高いところまで登らなくても見つけられた。登ってくる時とは逆の手順をたどったあと、ロープを回収して、最後は飛び降りた。
「お疲れさまでした。手慣れてましたね」
「これくらい出来ないと駆除屋なんてできないって。空を飛べるわけでもないんだから」
「誰かに習ったんですか?」
偲がよろめきながら持ってきてくれた鞄を受け取って、そのまま手を取る。
「ありがとう。駆除屋になる前にお世話になってた人に、この手のことを仕込まれたのよね」
「お世話になってた人?」
「そう、先生みたいな人。人を助けるのが趣味みたいな人で、一緒に旅をしながら色々な人を助けてまわってた」
「その人は――」
また何かに足をとられたのかと思ったら、どうやら言い淀んでいるらしかった。
「死んでないわよ。灯台ビルのことを教えてくれたあと、海を渡って遠くに行っちゃった」
「不思議な人ですね」
「うん、その人もファンブルだったし、今思えば、ちょっと偲に似たところもあったわね」
あまり、先生のことを話すことはなかったのだが、偲の前にいるせいか、仕事中だからか、自然と口が軽くなってしまった。
「伶の大切な人なんですね」
偲の言葉に不意を突かれる。考えてもみなかった。
「どうかしらね、恩人っていうのは間違いないけれど。大切な人っていうよりは、そう。特別な人って感じかな」
先生は、特別だった。ファンブルであることを差し引いても、際立っていた。
「特別、ですか?」
「うん。特別。先を見ている感じがある人だったよ。そういうところが、偲と似ている」
「私、そんなたいそうな人間ではないような気がしますけれど」
「まあ、偲の場合は、後ろを向く必要がないだけだからね。それだって十分特別だとは思うけれど、先生は、本当に旧暦のことなんてどうでもいいって生き方をしてた」
誰も彼もが後ろを見て立ち止まっている世界で、先生は前に進もうとしていたんだと、今なら断言できる。偲に出逢った、今なら断言できる。
「――ああ、うん。なんていうか、在り方が似ているのかもね」
「在り方、ですか。先生さんのハナシになるとずいぶん語彙が増えますね」
「置いて帰るわよ?……まあ、偲には、うん聞いといてもらった方がいい気がしたから」
「私も特別ですからね。ええ、いいと思います」
「自分で言うな」
昔話に一区切りがついたところで、橋の下にたどり着いた。
壁に張り付いた深緑の下には色違いの壁が覗いている。枝葉を払うのに使っていた刃物を使って削ぎ取っていくと、扉が現れた。
「さて、鍵はっと」
ドアノブをひねると、扉は耳障りな音を立てながら私達を壁の中へと迎え入れた。
壁の中には小さな部屋が広がっている。わずかにドアの上に薄い電光がともっているのみで、外よりも暗いくらいだ。
「ここ、何の部屋だったの?」
「何の部屋でもない、はずです。電子的な役割はありませんし、あ、ほら」
偲が示した先にはベッドが置かれている。仮眠室とか休憩室とかの類のようだ。よくみれば、洗面台のような設備もある。職員たちのための部屋ということで、間違いなさそうだ。
「使えるかしら」
「錆びてるから危ないですよ」
興味本位でハンドルをひねると、液体と呼ぶのも憚られるようなどろどろした何かが垂れてきたので、あわてて栓を閉める。すぐに対処したので臭いはほとんどしなかったが、少し漂ってきただけでも気持ちが悪くなる。
「……使えるわね」
「私の飲み水でよければあげますから!血迷わないでください!」
「鼻、つまんどきなさいな」
何か勘違いしている偲をよそに、口だけで呼吸をしつつ、いくつかの皮袋の中に汚泥を流し込む。しっかりと口を締めれば臭いが漏れ出ることもない。これほどの悪臭であれば『獣』に対する一手になるだろう。
「これは、ええ、効くでしょうね」
ようやく私のふるまいの意図を理解したのか、鼻をつまんだまま、偲が眉をひそめながら話しかけてくる。
「なんで、袋じゃなくて私を見るのよ」
「いや、それをぶつけられるのって、その、ひどいなあ、と」
「ゾウは鼻がいいんでしょう?さぞかし効くでしょうよ。使えるものは使わないと」
人間なら、せいぜい一瞬驚く程度だろうが、あの『獣』相手ならば、確実に効果を発揮してくれるだろう。
皮袋をすぐに投げつけられるように腰にぶら下げてから、西区画に続く扉をくぐる。
扉を出ると、そこは、橋の下り坂のちょうど側面にあたる位置だった。
「昨日の果実を取りに行っちゃいましょう」
「さっきみたいに、水で弾かれちゃいませんか?」
「まあ、見てなさい。危ないと覚えられてるなら、それはそれで使いようはあるから」
そう言って私は、肩掛け鞄の中から、昨日採った分の果実の残りを全て取り出した。




