箱の中の名前
春告げ祭の花嫁役に選ばれた娘は、領主の息子と結婚しなければならない。そんな決まりは、どの法律にも書かれていない。けれど村の広場に置かれた赤い抽選箱を前にして、リディア以外の誰もそれを口にしなかった。
「手を入れなさい。村を救うつもりがあるならね」
祭礼委員長のマルタ夫人が、リディアの肩を強く押した。夫人の夫は領主の財務官で、村の穀物倉を管理している。ここで逆らえば、母と二人で営む小さな果実酒店は、春の仕入れを止められるだろう。実際、今朝届いた通達には、祭礼への協力を拒んだ商店への取引停止が明記されていた。
「花嫁役は祭りの役でしょう。結婚まで決める権利はありません」
「村中の娘が了承しているのよ。あなた一人のわがままで春を迎えられなくする気?」
夫人は周囲の村人に向かって声を張った。誰かが気まずそうに視線を伏せる。リディアは、抽選箱の横に置かれた結婚誓約書を見た。花嫁役を引いた娘は、その場で領主の息子ユリウスとの婚約に署名する。断れば家族の営業許可を失う。そんな条件が祭礼の案内に付け足されたのは、三日前だった。
リディアには好きな人がいた。村の橋を直す石工のノエルだ。彼は身分こそ高くないが、約束した時間を守り、仕事の失敗を隠さず、母の店で出す酸っぱい果実酒を本当においしそうに飲む。リディアが彼を好きになったのは、店の前で倒れた荷車を一緒に起こした日だった。誰かが助けを呼ぶより先に、彼は車輪の下へ木材を差し込んだ。リディアも迷わず反対側を持ち上げた。二人で泥まみれになり、笑いながら荷車を道へ戻した。
今、そのノエルが広場の端に立っていた。仕事着の上に祭り用の上着を羽織っている。石粉の残る指を握りしめているのが、ここからでも分かった。
「ノエルは関係ないわね」
マルタ夫人は彼のほうへ目を向け、わざと聞こえるように言った。
「橋の修理費を領主様からいただいている人が、余計なことを言うとは思わないけれど」
リディアは反射的にノエルへ近づこうとした。彼の仕事まで奪わせるわけにはいかない。けれどノエルのほうが先に人垣を抜けてきた。
「関係ありますよ。僕はリディアと結婚したいと思っています」
広場が静かになった。リディアは彼に告白されたことがなかった。二人で夕食を食べたり、店の裏で収穫した果物を分けたりしてきたが、気持ちを言葉にするところだけは、どちらも臆病だった。
「ノエル、今それを言ったら……」
「仕事を失うかもしれない。それは分かってる。でも、黙っていたら君を失う」
ノエルは彼女の横に並び、抽選箱を見下ろした。
「それに、この箱はおかしい。去年までは花嫁役のくじなんてなかった」
「去年までは豊作だったのよ」
マルタ夫人は平然と言い返した。
「今年は領主家の援助がなければ祭りもできない。息子様が村から花嫁を迎えてくださるのだから、ありがたく思いなさい」
領主の息子ユリウスは二十七歳で、三度の婚約を破談にしている。最後の婚約者は、屋敷の使用人に対する暴力を止めようとして追い出されたという噂だった。噂の真偽は分からない。しかし、まともに言葉を交わしたこともない相手との結婚を、抽選で決められていいはずがない。
「私の名前を入れる前に、箱を開けてください」
リディアが言うと、夫人の頬が引きつった。
「抽選の前に開けるなど、縁起が悪い」
「中に何枚あるか、誰が数えたんですか」
「委員会が数えたわ」
「委員会の誰ですか。名前を教えてください」
リディアは昨夜、母と一緒に村の娘たちを訪ねていた。くじに名前が入っていると聞かされた娘はいたが、婚約誓約書に署名するとは誰も知らされていなかった。抽選に出るつもりはないと首を振る娘もいた。夫人は全員が同意したと言ったが、それは事実ではない。
夫人はリディアの質問に答えず、背後の役人へ合図した。男が近づき、彼女の腕をつかむ。
「抽選を妨害した者は退場だ」
「まだ始まってもいません!」
ノエルが男の手首をつかんだ。力任せにねじるのではなく、リディアから離すように押し返す。
「彼女に触るな。話を聞けば済むことだ」
役人はノエルの胸を突き飛ばした。ノエルは石畳に片膝をつき、上着の袖を破いた。リディアは彼の前へ出た。怖さより先に腹が立った。夫人はこの場で二人が黙ると思っている。人々が見ている前なら、殴られても従うしかないと。
「私の名前は入れません。抽選にも、婚約にも同意しません」
リディアは大きな声で言った。広場の隅にいる母が、唇を結んでうなずく。夫人は扇子を閉じ、笑みを消した。
「よく分かったわ。では今日からあなたの店へ果実を売る者は、領主家との取引を失う。ノエルの橋の工事も中止。村のために働く人間を、二人で何人困らせるのかしらね」
その言葉に、ノエルが立ち上がった。彼は破れた袖を気にも留めず、リディアの手を取った。
「橋は僕が直す。金が出なくても、通れないままにはしない。君の店にも果物を運ぶ」
「あなた一人で何ができるの」
夫人が笑った。
「一人じゃありません」
ノエルはリディアを見た。彼の言葉を引き受けるなら、もう後戻りはできない。リディアは握られた手を握り返した。
「そうよ。私もいる」
そのとき、抽選箱の裏から小さな紙片が滑り落ちた。風にあおられた紙を、広場の掃除係の少女が拾う。少女は読み上げかけて、顔をこわばらせた。
「これ……全部、同じ名前……」
夫人が少女へ駆け寄った。リディアは先に紙を受け取った。折り目のついた紙には、何度も同じ文字が書かれていた。
――リディア・ベルナール。
夫人はその紙を奪おうとしたが、リディアは高く掲げた。
「私を選ぶためのくじだったんですね」
周囲でざわめきが広がった。夫人はリディアの手を払い、箱の蓋を押さえる。
「偶然よ。たまたま同じ紙を用意していただけ」
「では、残りも開けてください」
夫人が答える前に、広場の向こうから領主家の紋章を付けた馬車が入ってきた。扉が開き、白い手袋をはめたユリウスが降りる。彼は箱ではなく、リディアだけを見て笑った。
「騒がしいな。私の花嫁が、まだ言うことを聞かないのか」
リディアはノエルの手を離さなかった。ユリウスはその手を見て、初めて笑みを消した。
「その男を、橋から降ろせ」




