第23話 生物兵器、ドイツ少女を助けに
「アイゼン……! 聞こえてる……? 僕はここにいるよ……っ。アイゼン、返事をして……!」
リュミエールが叫んだ。だが、その声は霧に吸い込まれる。
しかし霧の中から、奇怪な声が返ってきた。だが、それは言葉の形を成していない。
動物が傷ついた時に出すような、低く連続した声である。
「アイゼン、僕の声が届いているなら、その光を一回消して……っ。それだけでいい、それだけでいいから……!」
リュミエールの蜂蜜色の瞳が、霧の中心の赤黒い光を見ていた。しかし、その光が消えることはない。
届いていなかった。彼女の背中が壁につく。霧の先端がリュミエールの足元に達した。
「……熱い」
彼女が息を飲んだ。霧が足に触れた部分から、強烈な魔力の干渉が走る。
精神干渉系の魔法師候補生であるリュミエールの神経系が、暴走した魔力の干渉を受けていた。
「意識が……揺らぐ……っ。アイゼンの、精神崩壊が……霧を通じて伝わってくるんだ……」
壁を背にしたまま、リュミエールの膝が折れた。
「アイゼンの中にあるものが、霧を通じて流れ込んでくる……っ。恐怖……孤独……、存在への疑問……。全部が、全部が……っ!」
彼女の声が大きく震えた。その時、退場通路の入口が開かれる。ネメシスが入ってきた。
制服姿のままである。漆黒に近い濃紫の瞳が、霧の中心を捉えた。
「……ネメシスくん、来ないで。霧に触れると魔力干渉が走るんだ……っ。精神干渉系の魔法師には、特に危険だよ……。来ちゃ、いけない……」
か細い声で、リュミエールが呟く。
「ああ、分かっている。それでも来た」
小さく頷きながら淡々とネメシスは答えた。
「な、なんで……?」
息を乱しながらもリュミエールは、困惑の色を表情に滲ませる。
だが、それに対してネメシスは答えなかった。霧の手前で止まる。
漆黒に近い濃紫の瞳が、黒い霧を見ていた。NMSウイルスの神経回路が、霧の構造を走査する。
霧の正体は、アイゼンの精神崩壊が引き起こした、デバイスの魔力暴走だ。
彼女の神経系と直結したデバイスが、制御を喪失した精神状態を魔力に変換し続けている。
霧に触れれば、その暴走した魔力が神経系に流れ込む。
精神干渉系の魔法師には、アイゼンの崩壊した精神状態が直接伝わる。
通常の魔法師には、魔力の過負荷が走るのだ。どちらも危険である。
「ネメシスくん、無理だよ……っ。あの霧の中に入ったら、キミだって……」
「俺の神経回路は、外部からの干渉に対して一定の耐性がある。アイゼンの精神崩壊の波が流れ込んでも、処理できる可能性がある」
「可能性ということは、確実じゃないんだね……」
「そうだ。確実じゃない」
「それでも……行くの?」
「アイゼンを止める方法が他にあるなら、そちらを使う。しかし今の状況で、バリア拡張は間に合っていない。教師陣は先例がなくて動けていない。リュミエール、貴様は既に霧の干渉を受けている」
霧を見たままネメシスは、少し間を置いてから口を開く。
「だからといって、キミが危険を犯す理由にはならないよ……!」
「では、俺が行かなければ、アイゼンはどうなる? 霧が拡散し続ければ、施設全体に暴走魔力が広がる。観客の中に精神干渉系の魔法師候補生が複数いる。貴様と同じ状態になる人間が増える。アイゼン自身は、デバイスが魔力を使い切った時点で神経系への反動が来る。最悪の場合は死ぬことになる」
「し……死ぬ、って……」
「デバイスと神経系が直結している。魔力の暴走が神経系を焼き切る可能性がある。時間をかけるほど、その確率が上がる」
「じゃあ……今すぐ止めなきゃいけないんだね……」
リュミエールの蜂蜜色の瞳が大きく揺れた。
「ああ、そうだ」
「でも……ネメシスくんが霧に入って、アイゼンに近づいて……それでどうするの? 何ができるっていうの……?」
壁を背にしたまま、彼女がネメシスを見る。
「アイゼンのデバイスの核回路に術式干渉を行い、魔力供給を強制停止させる。デバイスが停止すれば、暴走の供給源が断たれるはずだ」
質問を投げ掛けられた彼は僅かに考えた末に、アイゼン救出計画の内容を端的に伝えた。
「デバイスが停止したら、神経系への反動が来ちゃうんじゃないの……?」
「ああ、来るだろうな。しかし暴走が続いた場合より、強制停止の方が反動が小さい」
「それは……確かなの?」
「確かではない。しかし確率として、その判断が正しいと俺は考えている」
「リスクがあるよ……。キミ自身にも、アイゼンにも……」
リュミエールが唇を噛み締めた。
「そうだ」
「それでも……行くの?」
「……その質問に答える前に、貴様に聞いておきたい事がある」
少し間を置いてから、ネメシスは鋭い視線を彼女へと注ぐ。
「な、なにかな……?」
「今日の試合の前に、貴様は俺に言った。人間として見ていると」
「う、うん……確かに言った、よ……?」
「俺を人間として見るなら、この状況で俺が何を選ぶかも、人間の選択として見てくれるか」
「ネメシスくん、それは……っ」
リュミエールが息を飲んだ。
「俺は人工的に作られた存在だ。対魔法干渉兵器として設計された。しかし今この瞬間、俺の中に選択肢がある」
霧の深部を静かに、ネメシスが見据えた。
「アイゼンを放置して、次の試合に備えるという選択。あるいは霧に入って、アイゼンを止めるという選択。どちらも俺には可能だ」
「……どちらを選ぶの?」
「ふっ、愚問だな。当然、後者だ」
「な、なんで……?」
「……分からない。しかし放置という選択肢を俺が選べないことだけは、今この瞬間に確認できた」
少しの間を空けてから、ネメシスが肩を大きく竦める。
そして、それだけ言うと彼は、一切の躊躇なく霧の中に踏み込んだ。
すると一斉に黒い霧が、ネメシスの制服に纏わりつく。
暴走した魔力が、彼の神経回路に流れ込もうとした。NMSウイルスの神経回路が、干渉を受け取る。
アイゼンの精神崩壊の内容が、神経回路を通じて流れ込んだ。
恐怖。孤独。存在への疑問。任務への強迫。感情を処理できないことへの恐怖。
そして、それら全てが止まらないことへの絶望。神経回路が、その全てを受け取った。
そしてネメシスが、霧の中に踏み込んでから、四十秒が経過。
アイゼンのデバイスに、強制停止を発動したにもかかわらず、霧の勢いは一向に止まらない。
供給を断ったはずだった。しかし、霧は消えることなく場に残り続ける。
それどころか、再び密度が上がり始めていた。ネメシスが即座に状況を把握する。
NMSウイルスの神経回路が、霧の構造を再走査した。
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